―第105話 7月4日 使い魔とプリンと謎のプリンセス 後編―
それは、世が世なら『絶望』が解き放たれた瞬間、と呼ばれたのだろう。
人は恐怖し、逃げまどい、救いを求めて神に縋ったのだろう。
絵物語に登場する龍とは、それほどまでに強大で、圧倒的で、絶望的な存在だったのだ。
「剣の結界が壊されたのを感じたから、まずい事態になったと思って大慌てで帰ってきてみたら……お・ま・え・と・い・う・や・つ・は!!」
「フギャー! ごめんなさいごめんなさい反省してますだから『おにぎりの刑』だけはやーめーてー!!」
「あの、おにぎりの刑ってなんですか?」
「日野森家お仕置き術がひとつ、『おにぎりの刑』――それは、まるでおにぎりを握る時みたいにリルちゃんを両手でぎゅっぎゅとしちゃう刑なんだよ! あれが終わった後には、きっとリルちゃんはお弁当箱に綺麗に収まる三角形になっていることだろうね……ちなみにあたしは俵型のおにぎりの方が好き」
「こないだのカレーの時といい、この家のしつけの方針絶対おかしいわよ……そしてアンタのおにぎりの好みなんぞ誰も聞いとらんわ」
――そんな絶望的な存在がこの世に解き放たれてから約30分後。
息も絶え絶えに猛ダッシュで帰宅してきた飛鳥により、フェブリルは泣く子も黙る凄惨なお仕置きを受けて悲鳴をあげていた。
「怪我が無かったからよかったものの! もし危ない目に合ったらどうするつもりだったんだ! 俺だっていつでもどこでもすぐにお前を助けに行けるわけじゃないんだぞ!!」
「ごーめーんーなーさーーーーい!!」
おにぎりの刑が終わり、フェブリルの身体のフォルムが若干おかしくなった後も、飛鳥のお説教は止まらない。
普段なら多少の口答えもしようものだが、今回ばかりは全面的にフェブリルに否があった。
それに、飛鳥はフェブリルが勝手な事をしたことに対し怒っているのではなく、怪我や危険に巻き込まれることを心配しての言葉だったので、言い返せる筈もなかった。
「まぁまぁ飛鳥、そのへんでいいじゃない。リルちゃんだって反省してるわけだし。ね?」
見かねた鈴風が飛鳥の肩を軽く叩き、ようやくお説教の嵐は過ぎ去った。
だが飛鳥達に無用の心配をさせたのは事実。フェブリルは飛鳥の顔の位置まで浮き上がり、面と向かってしっかりと頭を下げた。
「心配かけてごめんなさい。心配してくれて……ありがと」
「もういいよ、まったく。本当にお前はだめっこどうぶつなんだから」
「何よそのロングセラーのビスケットみたいな名前は」
苦笑いをしながら指先で頭を撫でてくれる飛鳥に、フェブリルも釣られてにぱっと破顔する。レイシアのいちいち細かい部分まで拾ってくるツッコミなど無視だ無視。
やはり彼を主と定めたのは間違いではなかった。彼の使い魔として、これからも頑張っていこうと思いを新たにする中、
「……わらわは放ったらかしかえ? こんな大勢に無視されちゃったら、わらわ、いくらなんでも泣いちゃうぞ?」
そういえばいたなー、といった視線を一斉に向けられた卵の中身――龍王(?)オルニールは思わず後ずさった。
さて、このチビドラゴン。生まれた瞬間からツッコミどころ満載である。
何はなくとも話を聞かないことには先に進めそうもないので、飛鳥は取りあえず彼女(と呼んでいいのだろうか)を両手で抱え、テーブルの中央にぽんと下ろした。そしてテーブルを取り囲む形で各々が腰を下ろしていく。
「ほ、包囲されちゃったのじゃあ……」
寄ってたかってどうにかされてしまうと思ったのか、チビ龍は全身をぷるぷると震わせて縮こまってしまった。
随分と警戒されてしまったようだ。どうしたものかな、と飛鳥は額に手を当てて考え込む仕草を見せる。
「た、食べるのかえ? やっぱりわらわ、食べられちゃうのかえ?」
「あぁごめん、違う違う。そういうのじゃないから大丈夫。君とちゃんと話がしたいと思ってるんだけど、何から聞いたらいいのか悩んでただけだよ」
「……もしかして、生まれる前のわらわを守ってくれていたのは、汝だったのではないのかえ?」
「守っていた、と言えるのかどうか分からないけどなぁ」
そう言った飛鳥の顔を見て、龍の子はどうしてか警戒心を明らかに緩めていた。
彼女曰く――おぼろげではあるが、卵の中にいた時のことは断片的に覚えているらしい。そして、飛鳥の手に卵が渡った時に、彼が言ってくれたことも。
「生まれてくる者に罪はない。その言葉が、卵の殻ごしに伝わってくる温もりが、わらわにはとっても嬉しかったのじゃ。人の子がこんなにも温かな心を持っているなど、知りもしなかったのじゃよ」
「その様子からして、君は今生まれたばかり、ってわけじゃないようだな」
「ん? んん? 飛鳥、どゆこと?」
飛鳥の答えに、龍は然りと言葉を返した。
確かに、龍なんてトンデモ生物であることに気を取られ過ぎていて気にも留めていなかったが……彼女の人格(龍格?)はとてもではないが生まれたての赤ん坊のものではない。
既に名前を持ち、完成された思考形態を持ち合わせていることから――
「――輪廻転生。あるいは退化して卵に戻ったってところでしょうか」
常識ではありえない。だがおとぎ話の世界ならありふれた概念がクラウの口から発せられた。
そんな馬鹿な話があってたまるかと一笑に付すのは簡単な話だが、そもそも目の前にいるのはその常識の外から来た住人だ。
オルニールと名乗った龍は、クラウの回答にうんうんと頷く。
「紫紺の少年よ、なかなか鋭いのぉ。……どうやらまずは、わらわのこれまでのことについて語った方がよさそうかの?」
自発的に話してくれるのであれば是非もない。飛鳥達は揃って頷き、龍が話に耳を傾け始めた。
地球という惑星、はたまたこの宇宙ですらない場所――俗な言い方をするのであれば、『異世界』という概念が実在することを、飛鳥達はすんなりと受け入れることができた。
当然と言えば当然で、既にフェブリルという、異世界という存在の生ける証拠がここにいるのだから。
「わらわはかつて龍王と呼ばれるほどの存在――数多ある龍の一族の中でも、その頂点に立つ存在じゃった。まぁ龍とはいえ、人に比肩するほどの知性を持つわけではない。破壊の衝動に身を委ね、壊し、殺し、喰らう……頭の中を覗けば、野をかける獣と何ら差異などない生物であるよ」
「獣と一緒……って言うけど、じゃあアンタはいったい何なのよ。ガキっぽいけど、私らの言葉を理解して、理性的なコミュニケーションがとれているじゃない。それじゃあまるで」
「まるで人間みたい、かえ?」
オルニールはその質問を待ち望んでいたかのようにレイシアの声を制した。
人間みたい――それが意味するところは、
「わらわは……いや、ここではオルニールという龍が、と言うべきか。龍王オルニールは、ある日ひとつの国を襲撃した。理由などない、ただ本能のままに、その国に住まう人間どもに虐殺の限りを尽くした。そして、戯れにと――その国の象徴たる王女を、王の目の前で丸呑みにした」
「――あ、あんたは! そんな酷いことをどうし「鈴風! 話が進まないから黙ってろ!!」なんで怒られるのぉ……」
非道な行いをする龍王に対し憤りを隠せない鈴風だったが、爆発するのが事前に分かっていた飛鳥によってその寸前で釘を刺されていた。
飛鳥は、続けていいの? と言いたげにつぶらな瞳を向けてくるオルニールに先を促した。
「その姫を喰らった瞬間、オルニールの中で変化が起きた。獣と同程度の知性しか持たぬオルニールの頭の中に、姫の持っていた知識や経験――フォーレントという名の少女の精神がまるごと流れ込んできたのじゃ。今まで数えきれないほどの人間を喰ろうてきたが、こんなことは初めてじゃった。……ここまで言えば、分かるじゃろ?」
「そのお姫様の精神を取り込んで、人間そっくりの知性を獲得したってことか」
飛鳥の答えに、龍は何故か悲しげな笑みをこぼした。
違ったのだろうか、とも思ったが……どうやらそういう意味ではないようだ。
「間違いではないとも。確かに、フォーレントを喰らったことにより自我に目覚め、今のわらわが創り上げられたと言っていいのじゃ。じゃがな、知性を獲得したオルニールは、目の前で娘を食い殺されて泣きじゃくる父親を前にして、無意識にこんな言葉を口にした。…………お父様、とな」
「それって……」
「簡単なことなのじゃ。何の知性も持たない龍の頭の中、いわば真っ白なキャンパスに、フォーレントの人格という絵の具をぶちまけた。……それはいったい、フォーレント本人と何の違いがあるというのじゃ?」
それは、生命というものに対するひとつの究極の問いであった。
例えば、肉体が完全に死んでしまったAという人間の脳を、別のBという人間の頭の中に移し替えたとする。では、Bの肉体が目覚めた時、彼|(彼女)は果たしてAとBどちらの生命であると言えるのか。
「その後、最強の龍王はいとも簡単に討ち取られた。抗おうとも思わなかった。自分は龍王オルニールなのか、王女フォーレントなのか、戸惑いや悲しみばかりが龍を支配していた」
「……」
誰も、言葉を差し挟むことができなかった。龍の悪行に憤懣やるかたない様子だった鈴風も、どこかばつの悪い表情で俯いていた。
「いざ、龍にとどめを……そこに待ったをかけたのはおとう、いや、国王であった。こうなったわらわに対して思うところがあったのじゃろうな。命だけは助けてやる、と泣きそうな顔で告げられた時のことは、今でもよく覚えておる」
「まぁ、娘かもしれない相手を、いくら国民の仇だからって処刑なんざできんわね「レッシィ!!」……そこまで怒んなくていいじゃない。わーってるわよ、もう」
感情を露わにして怒鳴るクラウなど相当珍しい。付き合いの長いレイシアでも思わず気圧されていた。
「(なによ、普段からそれくらい男らしくしてなさいってのよ、まったく)」
レイシアの中で何かのフラグが立ったのかもしれないが、ここではどうでもよかった。そして、同じ幼馴染に怒鳴られた仲間である鈴風だが、正直怒られ慣れていることもありフラグが立つ様子は特になかったが、なおのことどうでもよかった。
「人間どものまじないによりわらわは龍の力を失い、卵の中に封じ込められた。そして二度と人の世に害を及ばさぬよう、次元の彼方へと投げ捨てられたのじゃ」
彼女がはっきりと覚えているのはここまでだった。
だが、この後の展開はおおよそ想像がつく。
次元を漂流している内にこの世界へと流れつき、孔雀院佳那多の『知人』とやらの手によって発見され、そして紆余曲折の上飛鳥の手に渡った、ということなのだろう。
一通り語り終えた龍の子は、飛鳥が用意した冷たいフルーツジュースをストローでちうちうと飲み干していた。
先程の話に出てきた恐ろしい化け物と同じ存在とは、とてもではないが思えない。むしろマスコットじみた妙な愛嬌があり、見る者の心を和ませるあどけない姿だった。
「じゃあ、まずは君の呼び方を決めないといけないな」
「え、そこ重要!? もっと色々、なんかこう、あるんじゃないの!?」
「いや、特にないぞ。これからウチで一緒に暮らすんだ、呼び名を決めないことにはやりにくいだろ?」
「あれ? うーん、そうなのかな……でもそう言われるとそんな気がしてきたような」
「鈴風、アンタ本当にそれでいいの……? このままだとアホの子まっしぐらよ……」
彼女の事に関しては色々と考えなくてはならないのだろうが……ともかく、飛鳥の中では『責任をとって面倒を見る』ことは確定していた。
ならば異世界どうこう、人格どうこうの話は一旦棚上げしてもいいだろう。
「好きに呼んでくれていいのじゃ。しかし……成りゆきとはいえ、ホントにここで厄介になってもいいのかえ? もしかすると、わらわを匿うことで災いを呼び寄せてしまうかもしれぬ」
彼女は王女フォーレントなのか、それとも龍王オルニールなのか。
だが、それはきっと些細なことだ。
今目の前にいる小さな龍は、いきなり見知らぬ世界へと飛ばされて途方に暮れているひとりの迷い子であり、それ以上でもそれ以下でもない。
「それを言ったら皆似たようなものだよ。それに、俺はこういう『縁』を大事にしたいんだ」
「えにし、とな?」
人と人との繋がりというのは、ただの偶然で成り立っているのではない。飛鳥と鈴風が幼馴染であることも、真っ暗闇な世界でフェブリルと出会い主従の関係になったことも、紆余曲折の中でクラウとレイシアと友諠を深めることができたのも。
「君がこの世界にやってきて、俺の手に卵が渡ったのも、きっと何かの縁なんだよ。せっかくできたこの繋がりを、下らない理由で断ち切りたくなんてないからな」
なんとなく、と言ってしまえばそこまでだ。
オルニールだけでなく、ここにいる全員が、何かしら運命的なもので結び付いていたから出会ったのだ――表現が少々ロマンチック過ぎるかもしれないが――飛鳥はそう考えている。
「アスカらしいなぁ」
「お節介め」
「お人よし、ですね」
「節操なしとも言うのかな? この場合」
「よし、鈴風は今日の晩飯抜きと」
「ギャー! 口は災いのもとー!!」
鈴風の悲鳴で一旦この話を収めたところで、さてこの龍の呼び名である。
「フォーレントだから……レントちゃんとか?」
「RENT?」
日本人が横文字の名前の人に対して付ける愛称は、無理やり英訳するとヘンテコな意味になることが多い――その典型だった。
しかしレイシアさん、いくら何でも『家賃』という訳し方はどうなのだ。それを聞いた龍の子は変な解釈をしてしまったらしく、
「や、家賃とな……? こ、こうなったら、身体で払うのじゃ!!」
「結構です」
天然なのか自虐ネタなのか判断に困るボケをしてくる始末であった。
「では、エントと呼ぶがよかろ。フォーレントは親しき者からはそう呼ばれていたのじゃ」
「エント、エントちゃんかぁ……うん、かわいいかも」
結局龍の子本人の提案により、満場一致で彼女の呼び名はエントで決定した。
ドタバタとしてしまったが、これにて日野森家に新しい家族が仲間入りした。騒がしくも賑やかになりそうな日々を思い、飛鳥は思わず頬を緩めた。
「それじゃあエント、改めてよろしくな」
「こちらこそなのじゃ。……それにしても、そなたにはホントに感謝感激なのじゃ。この恩に報いるべく、そなたのことを『あるじ様』としてお仕えさせていただくのじゃ」
「……ちょっと待て! それはアタシの立ち位置だぞ!!」
そして同時に、フェブリルとエントによる使い魔(と言うよりペット? マスコット?)ポジション争奪戦の火蓋が切って落とされた瞬間でもあった。
「ここではアタシの方が先輩なんだから、アタシのことは敬意をこめてフェブリル様と呼ぶんだぞ!!」
「お断りなのじゃ。あるじ様はともかく、貴様を敬う理由などこれっぽちもないのじゃ!!」
テーブルの上でペシペシと殴り合う小悪魔と小龍。
あまりにスケールの小さ過ぎる戦いを、飛鳥達は生温かい目で見守っていたのだが。
「ほほう、そんな口をきいていいのかな? アタシはあらゆる悪魔の頂点に君臨する『魔神』。お前みたいな火トカゲごとき、ちょっと本気を出せば簡単に姿焼きにできちゃうんだぞ?」「はんっ、調子にのるでないわたわけものめ。姿焼きになるのは……貴様の方じゃ! シャゲー!!」「フギャーーーーーーーッス!!??」「あぁーーーーーっ! 障子に燃え移ったぁぁーーーー!? 火事だ火事だぁぁーーーーっ!?」「これは本格的にまずいんじゃ……はっ! こんな時こそ、レッシィ! 君の出番だよ!!」「うっせぇ! わたしゃ消火器かスプリンクラーか!!」
エントの炎の息吹により、あわや大惨事であった。
室内で火を吐いてはいけません。まずはエントにこの事を教え込むことが飛鳥の最初の務めのようだった。
なお、冒頭レイシアの言っているロングセラーのお菓子は「たべっこどうぶつ」のことです。スーパーで見つけてつい懐かしくなってしまった。