―第103話 7月4日 使い魔とプリンと謎のプリンセス 前編―
7月4日。
霧乃先生の家庭訪問(という名の宴会)の後日のことである。
昨日、酒を無理やり流し込まれてダウンしたり、某白い魔女によってトラウマを植え付けられたりしたことで、今朝の日野森家一同は揃ってグロッキー状態だった。
それでも学園があるし、朝食を抜くわけにもいかない。
いつの間に自分の部屋で布団を敷いて寝ていたのか覚えがなかったが、飛鳥はよろよろと起き上がり、今日も今日とて主夫兼学生としての職務を全うするのであった。朝が弱いはずのクロエが、今朝に限って妙に上機嫌であった点を除けば、それといって特筆することのない朝だった。
「アスカ、今日という今日こそは作ってもらうからね!!」
「ダメだって言ってるだろうが」
が、騒動の始まりは朝食の後であった。
昨日の夕飯のお鍋を流用して作ったおじや(二日酔いだったものだから、なおのこと美味かった)を腹に収め、冷たい麦茶でほっと一息ついていたところに、急にこの小さな同居人が叫び出したのだ。
「作ってー、作れー、作るのだー、作りたまえー」
二日酔いなんて露知らず。健康優良小悪魔ことフェブリルちゃんである。
彼女の普段通りのハイテンションが、起き抜けで酒の残った飛鳥の頭にガンガンと響いた。
「お前もしつこいね。普通の材料でだったら今度作ってやるって言っただろ?」
さて、フェブリルはいったい何についてそんな声高に主張しているのか。
どうやら彼女、一昨日の料理対決のプリンが食べられないことを未だに根に持っており、挙句の果てにバケツサイズのプリンが食べたいなどとぬかしたのだ。
別にそれは構わない。卵を何十個も買わなければならないので、出費と準備が辛い以外は特に問題ないのだ。
だが、フェブリルが言っているのはそのことではない。
「だから言ってるじゃないのさ! アタシは、あのでっかい卵で作ったプリンが食べたいのー!!」
これである。
こともあろうにこのチビっ子、料理対決の景品(というか強制的に押し付けられた)あの怪しい卵を使ってプリンを作れと言ってきたのである。
この子、絶対わかってなさそうだから改めて言い含めておく。
「あのなフェブリル。あの卵ではもう料理はできないんだ。あの中身はもう黄身と白身じゃなくて、別のなにかになっちゃってるんだから」
「割ってみないと、分からないじゃない! アタシは自分の目で見たものしか信じないようにしてるから!!」
「お前、ヒヨコが生まれてくる前の卵を割った事ないから、そんなこと言えるんだぞ……」
テーブルの上で両手を広げ主張する食いしん坊に、飛鳥は一歩も退くことなく言葉をぶつける。
ちなみに、成熟する前の受精卵を割った中身は、とてもではないが食事時に見るものではない。あえて表現するのであれば、ドロドロとかベチョベチョである。そんな2人の話をぐったりとした様子で聞いていた鈴風は、それがどんなものなのかを知っていたためか顔を真っ青にしていた。
「そもそも、食べられるようなものなのかどうか。ただでさえ得体の知れないものを口に入れるなんて許しませんよ」
「前から気になってたけど、なんでいきなりおかーさんみたいな口調になるの?」
これはもう癖なのでスルーしてほしい。周りの世話をしている内に、思考形態までもが主婦っぽくなってしまった影響だろうか。
閑話休題。
「ぬぬぬぬ……」と唸り出してそのまま言い返さなくなった辺り、ようやく諦めてくれたのだろうか。
何かしらフォローを入れるべきか、それとも甘やかしてはいけないからきっちり突っぱねておくべきか。放っておくと何かしでかしそうで怖いのである。
「飛鳥さん、そんなことよりそろそろ出ましょうか。遅刻はいけませんよー?」
朝からずっと不気味なぐらいにニコニコしているクロエにより、その悩みは中断せざるを得なかった。
この人なんでこんなに上機嫌なんだろう、と思いながら慌て気味に登校の準備を始める飛鳥だった。
結論から言うと、飛鳥の不安は見事的中していた。
(ふふふふふ、そう簡単に諦めてなるものかってね! たまにはアタシの本気ってやつを見せつけてやるのだ!!)
昼休み。
普段は飛鳥の鞄か机の引き出しの中でグースカしているフェブリルだが、今回ばかりは惰眠を貪っている暇などなかった。
あの奇々怪々な卵で作ったバケツプリン――未知の味への探求のため、彼女はあらゆる手を使って飛鳥を出し抜くと決めたのだ。
だってフェブリルは悪魔なのだ。そりゃあ悪いことだってしますとも。
「うんしょ、うんしょ」
雑多に詰め込まれた教科書やノートの間を潜り抜けて、日中の寝床である机の引き出しから脱出する。
大きく深呼吸をして、さぁミッション開始である。
できれば昼休みの間に『彼女』に話を付けて、放課後と同時に決着をつけてしまいたい。
幸運と言うべきか、飛鳥の姿は教室にはなかった。
「飛鳥なら楯無に連れられてグラウンド行ったぞ。野球やるんだってよ、このクソ暑い中元気だよなぁあいつら……」
後ろの席のツンツン金髪の男子生徒が年寄りみたいな言い草で教えてくれた。
多分、というか間違いなく鈴風に無理やり引っ張られていったのだろう。鈴風さん、なかなかのファインプレーだった。今度缶ジュースの一杯くらい(飛鳥のお金で)奢ってあげるのも吝かではない。
これで誰の目も気にせず堂々と――
「待て、そこの羽虫」
――そうは問屋が卸さないか。
恐る恐る見上げると、そこには腕を組んで立ち塞がる若草色の髪の女。
別に嫌いじゃないんだけど、何となく喧嘩腰になってしまう。いわゆる犬猿の仲、親友と書いてライバルと書く。フェブリルにとっての彼女は多分そんな感じ。
「アスカが言っていた通りだな。お前が怪しい動きをするかもしれないと聞いて残っていたら、案の定か」
「ちぃっ、流石はアスカ。先読みされてたなんて」
教室の扉に立ち塞がるのはブラウリーシェ=サヴァン。
普段は頼れる騎士として、だが今は道を塞ぐ門番としてフェブリルに正面から敵対していた。
戦うことに躊躇いはない。どの道いずれは上下関係というものをその身に叩き込んでやろうと思っていたところなのだから。
だが、最強の美少女魔神は慈悲深いのだ。ここは仏のような御心で、一度だけチャンスをやろうではないか。
「ケガしたくなかったらそこをどくんだね。どいてくれるなら、今夜のおかずを一個だけ恵んであげてもいいんだよ?」
「お前はどうしてそんなに上から目線なのだ……?」
圧倒的なサイズ差があるというのに、フェブリルは終始ふんぞり返って偉そうだった。
当然である。フェブリルが本気を出せば、目の前の鶏ガラ騎士などあっという間にフライドチキンにできてしまうのだから。
だが無益な殺生を好まないがゆえに、こうやって会話による平和的解決方法を提示してやっているのだ。
「悪いがどいてやる義理などないぞ。貴様が何を考えているのか知らんが、とりあえずアスカにとって害になることを企んでいるには違いあるまい? ならば見過ごすわけにはいかない、断固として阻止させてもらおう」
「ぐにゅにゅにゅ……」
だが、往々にしてこういった気遣いは無碍にされてしまうものである。
フェブリルはわざとらしく歯軋りをしながら(傍から見てると口をむにゅむにゅさせているようにしか見えないが)苛立ちを露わにする。
仕方あるまい。ここは強硬手段に出る他ない。
「忠告はしたよ。どうなっても知らないからね?」
「くどい。貴様ごときにどうにかできる私と思うてか!!」
……それにしても。
人形サイズのフェブリルに向かって全力で啖呵を切っているリーシェは、傍から見てると結構大人げなかった。この場で唯一のツッコミ役である金髪不良こと矢来一蹴はそんなことを思ったが、巻き込まれたくなかったので口を挟むことはしなかった。
だが、甘い。一蹴の考えはジャンボフルーツパフェ並に大甘だった。
すぅぅ、とフェブリルが大きく息を吸い込む音が聞こえた時には、もう手遅れだった。
「きゃー! きゃあー! このままだとリーシェに捕まっちゃうー! 人気のないところに連れ込まれて、あんなことやそんなことをされて可愛がられちゃうよー!!」
「「んなっ!?」」
かなり棒読みだったフェブリルの悲鳴に、リーシェと一蹴の驚愕の声が思わず共鳴った。
教室で談笑していた女子生徒達の動きが一斉にぴたりと止まる。そして、ぎぎぎ、と関節が錆び付いた人形のような動きで全員の視線がリーシェへと向けられた。ちなみに彼女達は、この2年1組の中でも特にかわいいもの大好き――要するにフェブリルの虜になってしまった『リルちゃん愛好会』の面々である。
「ま、まて。待ってくれ皆。私は別にこいつをどうこうしたいわけではなくてな? ただ大人しくしてもらうためにだな、って揃ってそんな目で見ないでくれ怖い怖い怖い!!」
光を失った虚ろな目で四方から凝視されるというのは、下手なホラー映画より恐ろしい。リーシェは思わず足が竦んでしまっていた。そして双方の間にいた一蹴は完全にとばっちりだった。
女生徒たちはひとり、またひとりと立ち上がり、幽霊じみた力のない足取りで、ゆらりゆらりとリーシェの方へと近付いていく。焚き付けたのはフェブリルだが、彼女自身もちょっと引いていた。
勇ましき女騎士の面影はどこへやら。目に涙を滲ませてぺたんと座り込んでしまうリーシェに向かい、ついに彼女たちのフェブリル愛が爆発した。
「ひとりじめなんてずるい!!」「涼しげな顔しながら、実は私達のリルちゃんを独占しようって腹積もりだったのね」「この泥棒猫!!」「ちょっと矢来君邪魔!!」「んな理不尽すぎんだろってげぶほぁっ!?」「イエスリルちゃん、ノータッチの掟を忘れたと言うの!?」「いや、私そんなの知らな」「だぁらっしゃい! どんな形であれ、リルちゃん愛好会の鉄の掟に逆らった以上、あなたを生かして帰すわけにはいかないのよ」「だから、わたし、そんなファンクラブに入った覚えなんてないのに……」
もみくちゃにされて(ついでに関係ない一蹴は吹っ飛ばされ)どことも知れぬ所に連れ去られていくリーシェに向かい、フェブリルは白いハンカチをひらひら振ってお見送り。
狂気に彩られた人間の恐ろしさを垣間見たが、何はともあれ第一関門クリアである。
購買のパンを大量に抱えてほくほく顔の男の子や、窓際にもたれかかって今の流行りの服について談笑を交わす女の子達。昼休みの廊下は賑やかな喧騒に包まれていた。青春しているなぁ、という感じでフェブリルはこういった光景が大好きなのである。
この悪魔、まるで都会に疲れたサラリーマンみたいな感性の持ち主だった。
(さてさて、部室棟はどっちだったかなっと)
フェブリルの目的地は文科系部活動の部室が集まっている建物だ。最短は、一度1階に降りてからグラウンドを突っ切るルートだが、それだと飛鳥に見つかってしまう。
そこで、もうひとつのルート。3年生の教室がある3階に上り、校舎の端まで突っ切った先の連絡通路からは部室棟に直結しているのだ。
リスクは最小限に、でもやる時は大胆に。
悪魔たるもの、ちょっとした悪事でも一切手を抜かないのである。
すいすいと3年生の廊下を進んでいると、周りからの視線が痛いほどに刺さってくる。そういえば、学園内におけるフェブリルの行動範囲は、ほとんどが飛鳥達2年生の教室付近と食堂くらいだったものだから、3年生にはあまり彼女の存在が認知されていなかったのだ。
ものすごく今更ではあるが、こんなにちみっちゃくて人間離れした超美少女がいたら、周囲の視線を釘づけにするのは自明の理。注目されるのは嫌いではないが、騒ぎになるのはよろしくない。
よって、目立たないように柱の影から影へ、ぴょいっ、ぴょいっと忍者さながらの隠密行動で進んでいくことにした…………その奇妙な動きのせいで逆に目立っていることに本人は気付いていなかったが。
それが災いしたのか、それともルート選択自体がそもそもの過ちだったのか。
連絡通路を視界の隅に捉えたところで、突然ローブの襟元を何者かに掴まれたのだ。
「リルちゃん、こんなところで何をやっているのです?」
振り向けば、そこにはある意味飛鳥より遭遇してはならない超危険人物。視線を合わせた瞬間「あ、詰んだ」と思わず呟いてしまった。
(あぁ……ここって生徒会室だったんだ。アタシとしたことが、何たる不覚ぅ!!)
きょとんとした表情で、顔の高さまで持ち上げてくる生徒会長を前に、フェブリルの心は最初から折れかけていた。
先程のリーシェのようなやり方は通用しないだろう。3年生にはフェブリルのファンはいないだろうし、そもそも学園における最高権力者に表だって逆らう生徒などいはしまい。
最近は飛鳥LOVEが軽く暴走して少々イタいイメージの強いクロエだが、普段はその清廉なルックスと類まれなるカリスマで白鳳学園に君臨する女王様なのだ。
「またイタズラでもしようとしているんですか? もう、ほどほどにしないと駄目ですよ、めっ」
「………………………………」
人差し指でちょんと額を突っ突かれた。
――いや、誰だあんた。
今朝から様子がおかしいのは気付いていたが、昼休みになってもその異変は収まっていなかったようだ。
キラキラと後光が差してきそうなほどの満面の笑み、私今とってもごきげんなんです、と言わんばかりのテンションの高さ。上機嫌なのは大いに結構なことだが、度を過ぎると気持ち悪いという定型的な例だった。
が、フェブリル以外の人間にとってはそうではなかったらしく。
「くぁっ! あの笑顔の破壊力はやばすぎる……」「会長、あんなかわいい顔するんだ」「いけない、相手は同じ女性なのに……この胸のときめきはいったい!?」「いつものキリッとしたクロエ様も素敵ですが、あんな無邪気な表情もまた……イイ!!」「あぁ、女神さま……」
何事かと遠巻きにこちらを観察していた生徒達から揃って歓声があがった。中にはクロエに見惚れて恍惚の表情を浮かべる者や、勢いよく鼻血を出してぶっ倒れる女子まで出てくる始末。フェブリルはこの学園が心底恐ろしくなってきた。
……種明かしするほどのものでもないが、クロエが有頂天になっているのは、昨晩飛鳥に膝枕をして寝顔を拝むことができたからである。
恋は盲目。この程度の事で簡単にキャラ崩壊ができてしまうのだから、いやはや恋愛とは怖いものである。
そんな裏事情をフェブリルが知る由もないが、何はともあれチャンスだった。
今のクロエなら、大抵の事は笑って見逃してくれそうだ。軽く手を挙げていそいそとその場を後にすることにした。
「あ、あははー。ごめんね、ごめんね? そんなわけでアスカに見つかっちゃうと面倒だからさ、アタシはこれにて失礼しちゃうの」
この失言さえなければ。
「――――ところでリルちゃん。飛鳥さんからこそこそ隠れて、いったい何をするつもりなのか。まだ説明を聞いていませんが?」
フェブリルがクロエに背を向けた瞬間、この空間が一気に凍り付いた。
甘い。甘過ぎた。フェブリルはクロエの事を侮り過ぎていた。
どんな内容であれ、飛鳥にとって少しでも害になる要素がある以上、クロエ=ステラクラインが彼女を見逃す理由など1ミクロンたりとも存在しないというのに。
殺意とは、よく氷の冷たさに例えられる。
世界を震え上がらせた最凶の魔女による手加減なしの殺意の投射は、絶対零度という表現すら生温い。
それなりの修羅場を潜ってきたフェブリルですら息ができなくなるほどだったのだ。戦いの経験などまるでない生徒達にとっては刹那たりとも耐えられるものではなく、ばたばたと気を失って倒れていく。
カチャリ、と聞き覚えのある金属音が耳をついた。
うん、きっと聞き間違い。リボルバー式の弾倉がはめ込まれる音のような気がしたけど、きっと聞き間違いだ。
「あの、ちょっと、クロエさん? それはちょっと大袈裟すぎないかなーって、思うんですけど」
「飛鳥さんの御心を乱す不届き者を成敗するのに、大袈裟も何もありませんよ。見敵即殺――たとえ相手がリルちゃんであろうと、手心を加える余地などないと知れ」
「そこは加えようよ!!??」
ダッシュ! 飛んでいるのでダッシュは違う気もするがとにかく脇目も振らずダッシュするしかない!!
クロエの静止の声を完全に無視し、全力で走る走る。そこに、ガゥンッ! という甲高い炸裂音とともにフェブリルの右の頬に触れるか触れないかのところを何かが通過していった。
(本気で撃ってきたああぁぁぁっ!?)
正気の沙汰とは思えない。
ちょっとしたイタズラ程度で身内に拳銃向けてきて、しかも正面の壁に綺麗な穴が開いている辺り、どう見ても実弾だった(厳密には魔術で形成された光子弾であるのだが、今はどうでもいい)。
階段の手すりにしがみつき、体重をかけてすべり台のようにすいーっと滑り降りていく。一息に1階まで舞い降りて、何とか距離を稼ぐことに専念した。
「早くどこかに隠れなきゃ! こんなアホみたいなことで殺されたら末代までの笑いものだよ!!」
プリンがどうのと言っている場合ではない。というか何故自分はこんな生きるか死ぬかの極限状態に身を置いているのだったか。
そう考えると何だかムカムカしてきた。
よくよく思い起こせば、フェブリルは具体的に何をするのかなど一言も言っていない。だというのに一方的な言いがかりで襲い掛かられたのだ。こんな理不尽を許容していいものか。いや、よくない。
「そろそろアタシも我慢の限界なんだよ。ここはひとつガツンと「へぇ? ガツンと、なんですか?」…………いえ、なんでもないっす」
音も無かった。影すら視認できなかった。
光の瞬きを認識することができないように、クロエはさも当然のようにフェブリルの背後に出現していた。
振り向きたくない、目を合わせたくない。
背中越しに感じる視線がザクザクと心臓に突き刺さって気持ちが悪かった。
「さぁ、懺悔の時間ですよ? 己が罪を悔やみながら、光に包まれお眠りなさい」
そういう真面目な殺し文句(文字通り殺し文句だ。上手いこと言ったとは思ってない)は本編で言ってほしかった。
逃げても無駄、戦っても勝てる気がしない、助けてくれるような人も――
「騒々しい、いったい何処の誰が暴れているのです。それも職員室の前で騒ぎ立てようなどと……随分と良い度胸をしているようですね」
――いや、いた。
この悪逆非道な魔女が決して頭を上げられない相手。飛鳥を除けば、唯一クロエの手綱を握ることができる絶対強者が。
「あ、綾瀬さん……」
「学園では理事長と呼べと何度言えば分かるのですか、この鳥頭。……この騒ぎの主犯は、お前ですか」
柳眉を逆立て、冷徹な双眸を向けてくる綾瀬理事長を前に、クロエの殺気は完全に収束していた。というか全身をガタガタ震わせて今にも泣きだしそうになっていた。そこまで怖いか。
「昨晩ちょっと甘やかしてやった途端、この様ですか。どうやらお前には、飴などくれてやる必要などないということですね?」
「え!? そんな殺生な! こうなったのは私の所為ではなくてリルちゃんの――――って、あれ?」
「フェブリルがどうしたというのです。まぁ、あの子がここにいようといまいと、あのような小さな者に罪を擦り付けようなどと犬畜生にも劣る言い分をする時点で、お前に情状酌量の余地などありませんが」
クロエが綾瀬に気を取られた瞬間、フェブリルは咄嗟に天井にへばりついて身を隠したのだ。黒いローブ姿と相まって、遠目から見たらGと勘違いされること請け合いだが、もう気にしてもいられない。
「私は、その、ただですね! 飛鳥さんに迫る魔の手を振り払おうと――」
未だに釈明を続ける往生際の悪い生徒会長を前に、遂に堪忍袋の緒が切れたのか。
綾瀬理事長はなぜかにっこりと大輪のような笑顔を向けて、クロエの耳元でそっと囁いた。
「その言い訳も最早聞き飽きました。……………………ピーチクパーチク囀るのも大概にしろよこのメスガキが」
「――――――――――――」
「…………はっ!?」
いけない。天井にしがみついたまま、いつの間にか意識が飛んでいたようだ。緊張の糸が緩んでしまったせいだろうか。
窓の外から見える大時計を見ると、クロエに捕まってから5分と経っていない。
下を見やるとクロエと綾瀬の姿はいずこかへと消えていた。
(今、アヤセおねーさん、ものすごいことを口走っていたような……)
普段の淑やかな雰囲気からは想像もできない、魔女や悪魔が卒倒してしまうほどの圧倒的な覇気。なんかもうあの人が一番人間やめてるんじゃないかと思えてきた。
(今後おねーさんに逆らうのはやめとこう。うん、絶対やめとこう)
あの後クロエがいったいどうなったのか……特に気にはならなかった。今回は番外編だし、別に死にゃしないから大丈夫大丈夫。
予想外のトラブルもあったが、これで部室棟への道は開けた。
昼休みの時間もそう長くは残っていない。フェブリルは飛ぶ速度を上げて廊下をぴゅんと駆け抜けていった。