―第102話 7月3日 『姉』として、できること 後編―
日野森綾瀬が白鳳学園理事長としての仕事を終えて家路についたのは、とっぷりと夜も更けきった時間のことだった。
学園の最高責任者として、日々の責務も物ともせずこなす彼女ではあるが……まだ二十四の小娘が、と古参の人間からはやや冷たい目を向けられることも少なくはなかった。
誰かに庇護を求めるほど子供ではないが、誰にも頼らずに独力のみで生きていくには若すぎる、何とも微妙な立ち位置なのである。
綾瀬自身、理事長と言う重責など苦にもならない――と言い切るにはまだまだ若輩で、経験不足だと自覚もしていた。
「……ふぅ」
時折無性に、誰かの肩に寄りかかって何も考えずに眠りこけてしまいたい――そんな想いが鎌首をもたげることがある。
こんな時、肩を貸してくれる人……行方知らずの夫の大きな背中が恋しくてたまらなくなってしまう。
(……甘えるな。そんな弱みが許されると思っているのか)
疲労のせいか、思考がどんどんと深みにはまってしまっている。
帰ったら風呂に入り、熱めの緑茶を淹れて屋敷の縁側で涼むとしよう。
そんな事を思いながら、我が家への足取りをほんの少しだけ速めることにした。
「ただいま戻りました」
夜は十時を廻ったところ。寝ている者は流石にないだろうと、声や足音に気を配ることはせずに玄関で履物を脱いだ。
ここで、おや? と見慣れない靴がひとつ混ざっていることに気付く。飾り気のない、真っ黒なミュール――これそのものはさして珍しくもないが、綾瀬にはこの靴の持ち主が誰なのかすぐに看破できた。
(今日は、静かな夜涼みを楽しむのはお預けのようですね)
廊下の奥から漂ってくる酒精の匂いがつんと鼻をつき、綾瀬は大きく溜息をついた。
――ああ、またかあの女。
居間の方からは、近所迷惑を心配してしまうほどにけたたましく笑い声や絶叫が響いていた。気乗りはしないが、自分が止めるほかあるまい。
「あら、おかえり綾瀬。今日は早かったのね~?」
「よくもまぁ人の家でそんな堂々と我が物顔ができたものですね……傍若無人もここまでくればいっそ清々しいくらいですが。で? いったい何の用ですか、霧乃」
予想通りの人物が、居間の中心から酒瓶片手で出迎えてきた。
分かってはいたのだが、疲労が溜まっている時にこの面倒くさい女と顔を合わせるのは、中々にストレスだった。
「なにって……見ての通り弟くんの家庭訪問よ。担任の先生として、可愛い生徒の心のケアは何よりも優先すべき使命でしょ?」
「お前の言う家庭訪問は、生徒に酒を飲ませて酔い潰すことだったのですか。雇用主としては、お前の待遇を少々考え直さなければいけないようですね?」
その可愛い生徒やらは、霧乃の隣でテーブルに突っ伏してダウンしているわけだが。
この愚弟は年上の女性相手にはどうにも押しが弱いらしく、いつもこうやってされるがままになっている。姉としては嘆かわしいばかりだ。
テーブルの上には、飛鳥に作らせたであろう色とりどりの料理が無秩序に食い散らかされ、その周りには巻き込まれたのであろう日野森家の居候達が揃ってバタンキューしていた。
「あ、あしゅかしゃん、にげてぇ……そのまっくろまじょからはやくにげてぇ……」
「うふ、うふふふふ……そらをもとぶここちとはこのことかぁ……あぁ、しんだはずのにいさまがむこうからおいでおいでしているぞぉ……」
「マジョコワイマジョコワイマジョコワイマジョコワイマジョコワイマジョコワイ」
「ぐー! がー! ぐごー!!」
上から、飛鳥が霧乃に襲われる夢でも見ているのか、呂律の回らない声で必死に呼びかけているクロエ。飲み過ぎて天国に旅立ってしまそうな穏やかな笑顔のまま倒れ伏すリーシェ。いったい何があったのか、虚ろな目で壊れた蓄音機みたいにうわ言を繰り返す鈴風。そして他の面子など素知らぬ様子で、テーブルの上で大変健やかな寝息を立てるフェブリルである。
阿鼻叫喚ここに極まっていた。
「いやぁやっぱり弟くんのご飯はサイッコーね! ついついお酒も進んじゃって……それで、気付いたら、こんなことにね?」
霧乃はまったく悪びれた様子もなくからからと笑って返すだけだった。テーブルから頭がずり落ちそうになった飛鳥を支えて、さり気無く膝枕の体勢に持っていったことに関しては特に触れないことにした。
「き、きしゃみゃー!!」
その途端、動物的直観がそうさせたのか、気絶していた筈のクロエから奇声があがった(多分、貴様ー、と言ったのかと思われる)。霧乃を止めようとしてぷるぷると伸ばされた手が虚しく空を切り、力尽きたのか再び畳の上へと落ちた。
まったく、ここ一年で手塩にかけて『淑女』とは何たるかを叩き込んできたというのに、見るも無残な体たらくである。
「これは、もう少し鍛え直した方がよさそうですね」
「ありゃお厳しい。そういえばクロエに色々稽古つけてたんだっけ?」
「えぇ、彼女たっての希望で。どうやらこの子には、私が立派な大和撫子に見えているようで。妙な憧れを持たれてしまったのですよ」
今でこそ理事長といち新任教師の関係だが、仕事を抜きにすれば、霧乃は肩肘張らずに付き合える数少ない友人のひとりと言えた。
意識していたわけではないが、自然と会話は弾みだす。
「ここに連れてきた頃のクロエは、そりゃあもうひとりでは何にもできない世間知らずだったわよねぇ。それがたった1年で、変われば変わるもんだと私は思うけど?」
「それなりに厳しくはやったつもりです。……弱音ひとつ吐かずに付いてきたことは評価すべきなのでしょうね。それもこれも、この愚弟に懸想しているがゆえ、と思うと些か複雑ですが」
「恋の力は偉大なり、ってね。ねぇ、その理屈で言ったら、鈴きちにも同じようにスパルタやったら、どこに出しても恥ずかしくない淑女に大変身するんじゃない? 弟くんが喜ぶからーとか言って焚き付けて」
「無理でしょう。そもそも淑やかになった鈴風が想像できません」
「考える間もなく一蹴したわねー」
この1年で綾瀬がクロエに施したのは、いわば前時代的な花嫁修業であった。
勉学や日常的な家事全般のみならず、花道に茶道、琴などの楽器に日舞に至るまで。大和撫子かくあれかしと、21世紀の時代では埃を被ったような概念の下、綾瀬はクロエをしごきにしごいた。
実は綾瀬も、学生時代に亡き母親からまったく同じ修行を受けており、今回の件はそれをそのままクロエに継承するような形だったのだ。
「心のどこかで、私はクロエを歓迎してはいなかったのでしょう。無理難題ばかり並べて、お前の覚悟はこの程度なのかと、飛鳥への想いはその程度なのかと、そう言って三行半を突き付けたかったのかもしれません」
「大事な弟くんを取られなくなかった?」
「まさか。私はそこまで家族愛に傾倒などしていませんよ。ただ……昔の自分にどこか似ているような気がして。同族嫌悪、というものですか」
「似てる? あんたとクロエが? まさか、とてもじゃないケドそうは思えないわよ?」
綾瀬は小さく頷き、畳に突っ伏しうんうんと唸るクロエの頭をそっと撫でた。
似ている。似ているとも。
普段は愛想の欠片の無い冷血な女のくせして、惚れた男のためにならなんだってやるし、どこまでも変わろうとする。
好いた相手に嫌われたくないから。
だから醜い本性をひた隠しにして、『優等生』の仮面で自分を覆い隠すのだ。
「私とて、和真がいなければ今の自分はありませんでしたよ」
日野森綾瀬という人間も一皮むけば、暴力的で嫉妬深く、他人を平気で貶めるようなはした女だ。そんな醜女を好いてくれるばかりか、娶りたいとまで言ってくれたあの人に恥ずかしくない自分でいたかった。その想いがあったから、今の自分がある。
だからこそ、あの日。霧乃の手で連れてこられたあの痩せぎすの少女が。
「私は、変わらなきゃいけないんです……! 私はたくさん、たくさん、たくさん酷いことをしてきて。それでも笑って許してくれて、抱きしめてくれた彼のために……お願いします、私は、あの人のために生きたいんです!!」
かつての自分と同じような言葉を吐いてくるものだから、つい。
「人にものを頼む時はまず頭を下げなさい、愚か者」
泣きじゃくってしがみつく前にやることがあるだろうと、思いっきり彼女の脳天に拳骨を落としたのであった。
「……あれ、傍から見てても相当な鬼畜っぷりだったと思うわよ? ボロボロになって号泣しながら懇願してくる女の子相手に鉄拳制裁とか」
霧乃はそう言うが、綾瀬としてはその程度で済ませてやっただけありがたいと思ってほしかった。
今でも完全に割り切れているとは言い難いのだ。
「クロエにどんな事情があったにせよ……あの子が飛鳥を一度殺したことを、そう簡単に清算してやるわけにはいきませんでしたから」
「まぁ、ねぇ……」
そう簡単に割り切れるものではないし、そもそも割り切ってはいけないものだ。
綾瀬にとってのクロエはいわば、弟の仇になりそこなった相手。怨嗟を向けるべき理由は既になくとも、はいそうですかと終わらせるわけにもいかない。
だから、クロエの慚愧の念を利用してやることにした。
世界を震撼させた《九耀の魔術師》を飛鳥だけの守護者に仕立て上げ、死ぬまで使い潰してやることで、このささくれ立った復讐心を満たすことにしたのだ。
憐れむように、自嘲するように、泥を飲むような心地で言い切った綾瀬に対し、
「それが復讐だって言うなら……綾瀬、あんたはやっぱり優しいやつよ」
霧乃の回答は、どこまでもすっきりとしたものだった。
「優しい? どこをどう解釈したらそんな結論に至るのか。私は、お前の愛弟子を都合のいいように『洗脳』したのですよ?」
「ああもう。弟くんといいあんたといい、そうやって無意味に自分を追い詰める悪い癖はやめなさいな。……ねぇ、最近のクロエって、よく笑うようになったと思わない?」
グラスの中の氷をからからと回しながら、霧乃は唇を綻ばせた。
「私がはじめて会ったことのクロエは、そりゃあもう『人形』って表現が生温いくらいに感情という感情が抜け落ちてたもんよ。死んだ魚みたいな目をして、《教会》からの命令を淡々と聞くだけのお利口さんだったわ」
「その辺りは私も深くは知りませんが。……相当数の人を手にかけていたというくらいは」
「止められなかった私にも責任はあるんだけどね。自由意思を殺されて、ただ枢密院のクソジジィどもの言いなりになって。『神意』に抗う者を裁き続けることこそが、お前の存在意義であり、すべてなのだ――そんな戯言を信じちゃったのよ、あの子は」
純粋ってのも罪なもんよねぇ、と霧乃は吐き捨てるように言葉を締めくくった。
そんな事は綾瀬だって分かっている。
だが知らなかったから、いいように操られていたからと、これまでの所業を簡単に清算できるのであれば、憎しみという感情など生まれやしない。
でも、だからと言って。綾瀬はクロエを殺したいほどに憎いと思うことはできなかった。
我ながら理不尽ととれる程の稽古を泣き言ひとつ言わずに耐え、ここ1年で別人と思えるほどの劇的な成長を遂げた。学園では生徒会長として立派に仕事をこなしているし、私生活では飛鳥のために陰に日向に奮闘しているのも知っている。
「私はね、あんたと弟くんには凄く感謝してる。誰からも怖れられて、戦うことしか知らなかったあの子を、ただの『人間』にしてくれた。泣いて、怒って、笑って。当たり前の生き方ってものをあの子に教えてくれた。まぁ弟くんへの感情はちょっとばかし歪んじゃってるかもしれないケド、それでも幸せそうに笑ってる。……私じゃあ、どうやってもできなかったことよ」
「珍しいですね、お前が弱音だなんて」
茶化したわけではなく、本当に意外と思ったからこその返答だったのだが、霧乃は自分でも驚いたかのように目を丸くしていた。
いつも飄々として掴みどころのない、雲のようにふわふわとした――格好を付けた表現ではあるが――女が、ここまで素の感情を見せるのも珍しかった。
「むぅ、ちょっと飲みすぎちゃったかしらねー私らしくもない。なんか辛気臭い雰囲気になりそうだったし。……さぁ、この話はこれくらいにして飲み直しましょうや! 夜はまだまだこれからってね!!」
「はぁ……結局こうなるのですね」
意地っ張りな親友は、場の雰囲気を誤魔化すようにわざとらしく声を張り上げた。
仕方がない、ここは彼女の思惑に乗ってやるとしよう。
普段は滅多に酒を入れない綾瀬だったが、たまの語らいだ。一杯くらい付き合ってやるのも吝かではなかった。
「ああうう……あしゅかしゃんが、あしゅかしゃんがくろいやみにのみこまれていくうぅ……………………はぅあ!?」
「いい加減その素っ頓狂なうめき声を止めなさい。年頃の女性がまったく、見苦しいなんてものではありませんよ」
「え……あれ? 綾瀬さん?」
鉛を埋め込まれたように重く感じられる頭を弱々しく振りながら、クロエは長い長い悪夢から目を覚ました。
飛鳥がよく見知った女の顔をしたドロドロで真っ黒なものに飲み込まれるという、自分で言ってて支離滅裂だったが……でも間違いなくとびっきりの悪夢だった。
「また酷い顔をして。これでも飲んでしゃきっとなさい」
「あ、ありがとうございます……」
未だ状況が把握しきれていないクロエに、綾瀬は押し付けるように一杯のグラスを差し出した。
おずおずと受け取り、ゆっくりと喉に通していく。ただの水かと思ったが、オレンジの果汁を少量混ぜたもののようで、柑橘系の爽やかな酸味が酔った身体に心地よかった。
こういったさりげない心遣いを、当たり前の事としてさらりとできるあたり、敵わないなぁと思ってしまう。二呼吸ほどでグラスを空にしたクロエは、ふぅと一息ついてようやく落ち着きを取り戻した。
冷静にさっきまでのことを思い起こすと、それはもう大惨事というか止められなかった自分の大失態と言おうか。
足止めをくらっていたクロエが家に戻った頃には、既に飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎは始まっていた。飛鳥にしなだれかかって身体中のあれやこれやをいやらしく触っていたあのセクハラ魔女を何としても引き剥がそうとしたのだが、
「どうして弟くんにこんなことするのかって? そりゃあ、私がお姉ちゃんだからに決まってんでしょ!!」
意味不明の叫び声をあげた霧乃に気圧された隙に、なみなみと日本酒が入った一升瓶を口の中にねじ込まれたのだ(よい子は真似しないように!)。
これでも『魔女』として、大抵の毒には耐性を持っていた筈なのだが、何故かアルコールには勝てなかったようである。
(まさか一瞬で意識を飛ばしてしまうとは……お酒って怖いです)
情けないったらありゃしない。
霧乃の魔の手に引きずり込まれる飛鳥の悲痛な表情(霧乃に密着され、若干鼻の下が伸びていたようにも見えたが、気のせいだろう)を前にして、馬鹿みたいに眠りこけてしまうとは!
いったいあれからどうなったのだろうか。きょろきょろと居間を見渡す。
「霧乃はついさっき帰りましたよ。鈴風は客間に、リーシェは部屋で寝かせています」
「何から何まで……申し訳ありません」
フェブリルは綺麗に片付けられたテーブルの上で、食べかけのお煎餅にかじりついたまま寝こけていた。どうやら片付けまで綾瀬に任せきりになってしまったようだ。クロエはますます恐縮してしまう。
しかし、肝心の飛鳥はどこに行ったのか――そう思ったと同時、自分の膝の上に何かが乗っている温かな感触に今更ながら気付いた。
(は……はうあぁ!!)
酔いは覚めているにも関わらず、思わず噛んでしまった。
クロエの膝の上に乗っかった赤髪の頭、規則正しくたてられている小さな寝息。
――即ち、膝枕である。
ちなみにこれは、クロエが好きな人(というか飛鳥)にやってあげたいことベスト3に入る一大イベントであった。
なんだこれは。もしかしてまだ夢の続きなのだろうか。
「あぁ、手ごろな枕がなかったものですから、お前の膝を借りていました。重ければ振り落してしまって構いませんよ?」
「しょ、しょんにゃ!? 振り落とすだなんて、とんでもない!!」
綾瀬の言葉から、これが彼女なりの粋な計らいであることに気付く。
震えすら覚えるほどの心配りだった。もうお義姉さま一生付いて行きますと叫びだしそうになったほどである。
「私は洗い物を片付けてきますので、しばらく愚弟を頼みます」
「あ! 洗い物ならわたし、が……いえ、なんでもないですお願い致します」
居候として、弟子として、家主兼師匠のお手を煩わせるなどあってはならないことだ。だが、膝枕という極上の誘惑には抗えず、つい言葉が尻すぼみになってしまった。
そんなクロエの分かり易い葛藤に気付かないフリをして、そのまま背を向けてくれた綾瀬に向かい、自然と頭が下がった。
(あうぅ……かわいいぃ……!!)
穏やかな寝息を立てる飛鳥の寝顔を見ていると、クロエの頭は沸騰しそうなほどに熱く茹で上がってしまう。
誰よりも早く起床し、誰よりも遅く就寝するのが飛鳥の生活リズムだったため、彼の寝顔を見られる機会など絶無に等しかったのだ。感慨もあろうというものだ。
恐る恐る、無防備な彼の燃えるような色の髪に触れてみる。
「うぅ……ん……」
いやいやをするように軽く身じろぎをしてきた。子供扱いされたくないのだろうか。そんなところもまた可愛らしくて仕方がない。
(ええいカメラは、カメラはどこ!? 今この瞬間を激写せずにいつすると言うのか!!)
膝の上で寝返りを打つ天使の表情に悶絶しながら、あたふたと両手を宙に彷徨わせてカメラを探す彼女は、本当に、何というか……
(アホですね)
気持ちの悪い声が聞こえてそろりと戻ってきたら、この様子である。
あれでも学園では才色兼備の生徒会長として通っているのだろうに、一皮むけばただの変態だった。綾瀬は扉の影から感情を消した瞳で、怪しく悶絶しているクロエを見つけていた。
いったいどこで調きょ――もとい、教育方針を間違えたのだろうか。飛鳥や鈴風とは別の方向で、これまた彼女の将来が心配になってきた綾瀬だった。
(まぁ、それでも……)
掛け値なしにあの愚弟を好いてくれているというのであれば、それはきっと喜ばしいことではある。
贖罪や義務ではなく、ただそうしたいからと飛鳥の傍にいてくれるのであれば、それに越したことはない。
とっくの昔に、綾瀬はクロエを復讐の対象として見ることなどできなくなっていた。
賢くて要領が良い、でもどこか抜けたところがあって放っておけない、そんな愚かで可愛い妹分だ。
これから先、何も起きなければそれでいい。
あの子達が当たり前の青春を過ごして、当たり前の幸せを甘受してくれるのであれば、綾瀬はそれ以上何も望むことはない。
だが、現実は決してそう平坦なものではなく。
これまでも何度もこの街に災禍が降り注ぎ、そのたびに飛鳥達は手に武器を持ち、命をすり減らして戦いに挑んでいった。
それに両親の仇のこともある。
最初から、止めようと思って止められる争いでもないことくらい理解している。
(待つしかない身というのは、本当にままならないものですね)
自分にも力があればと、何度希ったことか。
『あの日』の空港に自分もいたのなら、弟ひとりにあんな重荷を背負わせなくて済んだのだろうか。
そっとその場を離れ、台所の勝手口から外へ出る。
空一面に広がる分厚い雲の切れ間から、上弦の月が少しだけ除いていた。それもすぐに、暗い雲の奥へと隠れていってしまった。今日は月見日和ではなかったようだ。
本当に、ままならないものである。
薄々分かっていたとは思いますが、クロエさんは割とド変態です。
飛鳥とクロエの過去についてはまだまだ先のお話で。