第8話
「六花、ドナーが見つかったぞ」
冬も終わろうとした頃、珍しく病室に駆けこんできたお父さんが開口一番にそう言った。お父さんたちは顔を合わせるたびに暗い表情をしていたから、こんなに嬉しそうな表情を見るのは久しぶりだ。
「お父さん、それ、本当?」
よろよろと起き上がった私を、お父さんが抱きしめてくれる。
「ああ、本当だ。これでもう、バッテリーに縛られなくて済むんだよ六花」
お父さんのその言葉に、私は心底安堵した。今なら、ドナーになってくれる人の命を受け継いで生きる道に恐怖は感じない。
絶対大事に生きるから、あなたの心臓を私にください。
そう言える自信があった。
新しい心臓があれば、誕生日の夜に交わした翔との約束を果たせる。
そんなことで、頭がいっぱいだった。
移植手術は思いのほかうまくいって、予後不良らしいものも出ず、私は退院できた。高校も翔が通っている学校の二次試験にぎりぎり間に合えたから、私は入学試験を受けることができた。無事に試験も受かって、制服を仕立ててもらい、春を待つ。
同い年なのに翔の後輩だな、なんてひとり笑いながら、私は自宅の二階にある自分の部屋で、壁にかけられた制服を眺めていた。
せっかく退院できたのに、翔は私に会いに来てくれなかった。部活が忙しいのかもしれない。いや、翔のことだから何かサプライズを準備している可能性もある。何も知らないふりをして待つのが正解だろう。
そう思いながら、私は春を待った。
翔、遅いな。まだかな。でもこれだけ時間がかかってるんだから、きっと今までにない凄いことをしてくれるんだろうな。
そう思って、ずっと翔を待っていた。
今年の春は、翔の髪や鞄についた花びらではなく、桜の木そのものを見て訪れを知ることができた。入学式で、お父さんたちと写真を撮る。
明日は新入生歓迎会なんてものがあるらしい。部活動の紹介もあると担任の先生が言っていたから、翔が何かするならそのときだなと、私はピンときた。あの翔のことだ。絶対私を笑わせにかかる。天文部の紹介が、今から楽しみだった。
ちなみに部活の入部届は、帰宅前にとっくに出してきた。天文部だ。翔を見ている限り結構体力が必要そうだけど、もっと翔の見ている世界に近づきたくて、私は天文部を選んだ。
先輩面した翔が私の前に現れる瞬間が、待ち遠しい。わくわくした気持ちで、私は明日を待った。
けれど、翌日になっても翔の姿はなかった。天文部の紹介は私が全く知らない生徒たちがしていた。お手製だというプラネタリウムで体育館の天井を彩ったのは綺麗だなと感動したけれど、私が求めていたのはこれじゃない。
翔は、どこ?
その問いに答えが与えられたのは、天文部に入部して一週間が過ぎた頃だった。
「あの、犬飼翔って生徒いませんか? 去年から天文部に入ってると思うんですけど……」
部活動の時間。部室で私は、こらえきれずに部長である男子生徒の小林先輩に話しかけた。細い眼鏡が似合う理知的な顔をした小林先輩が、持っていた資料から顔を上げて私を見てくる。
「長岡さん、犬飼と知り合い?」
「あ、はい。まあ、そうです」
「じゃあ、聞いてない?」
「何をですか?」
小林先輩の表情が曇る。私が質問に質問で返したのがまずかったかなと思ったけれど、それは違った。
「犬飼、死んだんだよ」
静かに、でもはっきりとした声で、小林先輩はそう言った。
「長岡さん、今日は帰っていいよ。具合が悪いってことにしておくから」
「……ありがとうございます」
やっとそれだけ言うと、私は鞄を持ってふらふらと部室を後にした。
翔が、死んだ? いつ? なんで? どうして誰も教えてくれなかったの?
記憶を辿るけれど、翔が具合悪そうにしていた気配なんてなかった。それに翔のことだから、何か病気になったのならすぐに自分から言ってきたと思う。私たちは、そんなつまらない隠し事をするような間柄じゃない。
バスを待つ時間が惜しくて、私は歩いた。心臓は健康になったけれどまだ体力がちゃんとついたわけじゃないから、すぐに息が上がる。でも少しでも早く答えに辿り着きたくて、私はひたすら歩いた。
行き交う車の音も、人のざわめきも、多分存在していたと思う。でも私は歩いている間、何も感じなかった。
夢中で歩き続けた私は、すっかり息が上がった頃に翔の家の前にいた。ずっと隣に住んでいた、幼馴染の翔。そんな翔の家に来るのは、何年ぶりだろう。インターホンを押そうとする指が震える。
それでも真実が知りたくて、私は思い切ってインターホンを押した。
「はい」
懐かしい。翔のお母さんの声だ。
「おばさん、私です。隣の六花です」
そう話しかけたが、インターホンからの返事はない。翔がいつも普通どおりに接してくれていたから気が付かなかっただけで、もしかして私はおばさんたちに嫌われているんじゃないか。そんな不安がよぎった直後、玄関が開く音がした。
「六花ちゃん、よく来てくれたわね。さ、中に入って」
そう言って、おばさんは私を家の中へと招いてくれた。
そうして通された部屋で見たのは、笑顔の翔の写真だった。ぴかぴかの仏壇の中に飾られた写真の翔は、よく日焼けしている。きっと夏の合宿とかで撮ったものなんだろうな、と思った。
これがあるってことは、翔は本当にもういないんだ。
学校にも、家にも、この世界のどこにも、もう翔はいない。
理解した瞬間、体の力が抜けた。仏壇の前に、倒れるようにして座り込む。
「六花ちゃんは絶対にショックを受けるから、ある程度生活が落ち着くまではなるべく言わないでおこうって皆で話してたの。ごめんなさいね……」
私の背中をさすりながら、おばさんが声をかけてくれた。その手の動きに合わせるようにして、なんとか呼吸をする。浅くなっていた息が、少しずつ深くなっていく。
「部活動からの帰宅途中で、交通事故に遭ったの」
「それ、いつですか?」
「二月に入ってすぐだったわ。翔を轢いた車の人がすぐ連絡してくれて病院には運ばれたんだけど、いわゆる脳死状態で、もう駄目ですって」
でもね、とおばさんが言葉を続ける。
「あの子、ドナーカート持ってたの。臓器を全て提供するって、意思表示してたわ。だから私たちは、あの子の意思に従って臓器提供をした。だから翔は今もどこかで、誰かの体の中で生きてる。六花ちゃん、落ち込まないで」
おばさんに言われてしまうと、私はそれ以上悲しみに沈むことができなかった。おばさんだって本当は、終わりなんてない悲しみの中にいるはずなのだ。そんなおばさんが立ちあがろうとあがいているのに、私だけが甘えるように倒れてなんかいられない。
「六花ちゃん、これ、形見分け。作りかけみたいだけど、貰ってくれるかしら」
言葉を紡ぐ気力すらない私に、おばさんが一冊のノートを差し出してきた。表紙には何も書かれていないけれど、私はそれが何なのかすぐに分かった。
星ノートだ。
受け取って開いたノートは、まだ三分の一程度しか埋まっていなかった。それでも翔の目に見えていた世界が写真になって貼られていて、昔と比べると随分綺麗になった字で星や星座のデータと、私が喜びそうな小話が書かれている。
星ノートを受け取った私は、翔に線香をあげ、のろのろと自宅に戻った。
私の両親は共働きなので、まだ帰って来ていないみたいだ。しん、と静まり返った家の中で、ちょっと軋む階段を上って自室に向かう。
ベッドに腰かけると、私は未完成の星ノートを開いた。何度開いてもページが増えないことくらい、分かっている。それでも、翔が私に残してくれたものだったから、見ないわけにはいかなかった。
涙は全然出なかった。悲しいとか、寂しいとか、そんな単純なものじゃない。ぽっかりと埋められない大きな穴が空いてしまって、その穴は底が見えなくて、ただただ虚しい。そんな感覚だった。
翔が書いた文字列を、指でなぞる。筆圧の強い文字の感触が、翔がたしかにこの世に存在してくれたことを証明していた。
翔、星を見に行こうよ。私元気になったんだよ。どこにいるの、翔。
もっと星の話をしてよ。
なんて星座なのか、翔の声で教えてよ。
この写真、翔的にはどれくらいの出来なの?
上手に撮れた?
自慢の一枚はどれ?
答えてくれる声は、ない。




