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Dog Days  作者: Akira Clementi
光り輝く者

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第7話

 それから何日か過ぎて、私の誕生日がやってきた。でもいくら待っても、かけるは来てくれない。

 冬の日暮れは早くて、面会に来ていたお母さんによってカーテンが早々に閉じられて、部屋の照明がつけられた。そんなお母さんも帰ってしまい、面会終了を告げるアナウンスが響く。


 翔、どうしたんだろう。誕生日に翔が来てくれないなんて、初めてだった。


 何か急な用事ができたのかもしれない。翔だって暇じゃないんだ。仕方ない。せめてその用事が、翔にとって不幸なものでなければいいのだけれども。

 そう考えて自分の心をなだめたものの、まるで裏切られたかのような寂寥感が溢れてきてしまう。


 ひとりぼっちの病室で、私は小学校の頃に翔がくれた星ノートを眺めていた。何十回とめくったノートは、もうぼろぼろだ。今まで翔がくれた星ノートは他にもあったが、私の一番のお気に入りは、この初めての星ノートだった。


 開かれたページに貼られている写真は、シリウス。どんどん写真のレベルが上がっていく翔の星ノートを見慣れてしまったから、小学生の翔が撮ったシリウスがピンボケしているのがよく分かる。でもこの写真が、私にとってなによりも大切だった。


 翔と一緒に家を抜け出して、初めて自分の目で存在を確かめた星。あの日の思い出が詰まった輝き。それを見るたびに、毎日の虚しさをほんの少しだけ埋めてもらえるような気がしていた。


 大丈夫。翔はきっと大丈夫。今日はたまたま都合が悪かっただけで、明日にはなにか面白いプレゼントをくれるから。


 消灯時間になり、星ノートを棚にしまい、体を横たえる。そうしているうちに看護師さんが来て、私のバッテリーに異常がないことを確認してから、部屋の電気を消した。部屋を出て行った看護師さんの足音が、遠ざかっていく。特に眠いわけじゃないけれど、私に許される行為はこうして惰性で横になることだけだ。


 据置型バッテリーの僅かな駆動音。それくらいしか、薄暗い病室に音はない。目を閉じていたらそのうち眠れるとは分かっていたけれど、私はじっと天井を見つめていた。胸が騒ぐ。目を閉じていられない。


 ただ翔に会えなかったというだけで、今日が終わってしまうのが怖かった。


 本当に明日、私は目覚めるだろうか。

 翔は病室に来てくれて、私が生きていることを祝ってくれるだろうか。


 考えても答えなんて出ないのはわかっていても、ぐるぐると同じ問いをしてしまう。誰かに向けたわけでもない問いは病室の薄闇に放り投げられては消え、また私の心の中に生まれてきた。


 すぅ、と病室の引き戸が開く気配がしたのは、そんなときだった。

 目線だけ動かして入り口を見ると、引き戸が開いていることを示すようにしっかりと光が差し込んでいる。ゆっくりと、光を遮るように人影が動いた。逆光でよく見えないが、入ってきたのは看護師さんではなさそうだった。


 部屋に滑り込んでくる侵入者に、恐怖が湧き上がる。私はなるべく音を立てないように、掛け布団を顔の位置まで引っ張った。でもそれではなにも解決しない。


 人を呼ばなければ。


 そっと手をナースコールに伸ばす。ボタンに手が触れた瞬間。


六花ろっか、六花」


 こそこそと話しかけてきた声に、聞き覚えがあった。


「……翔?」


 侵入者は翔だった。いたずらが成功したというように、きひひひと笑ってくる。いったいどうやって、翔は夜の病院に侵入したのか。

 いや、翔のことだから、この時間までどこかに隠れていたのかもしれない。彼ならやりかねない。だって翔は、星を眺めるのが好きだ。お目当ての星を見る為ならば、いつまでも待っている。待つという行為は、翔の得意技みたいなものだ。


「六花、星見に行こうぜ」

「でも」

「いいから」


 そう言って、翔は着ていた黒いダウンコートを脱いだ。ベッドの脇でしゃがんで、私に背中を見せてくる。上に乗れということらしい。


 こんなことをしたら、翔は小学校のとき以上に怒られるじゃないかと迷って――私は翔の誘いに乗ることにした。


「ちょっとだけ待って」


 そう翔に言って、補助人工心臓のバッテリーを携帯用のものにつけかえる。入院している今でも携帯バッテリーはシャワーを浴びに行くときなんかに使うから、付け替えはもう慣れたものだった。電池残量がしっかりあることも確認してから、翔の背中に乗る。

 私がちゃんと背中に乗ったのを確認すると、翔がダウンコートを羽織った。翔の背中とダウンコートに挟まれて、とても温かい。彼の温もりに包まれているんだなと思うと、少し緊張した。


「翔、重くない?」

「全然。羽根みたいなもんだよ」


 小声で話しながら、翔に連れられて病室を抜け、静まり返った廊下を進む。


 翔は「星を見に行く」なんて言っていたけれど、どこへ行くつもりなんだろう。それ以前に、外に通じるエレベーターはナースセンターのそばだ。私を背負ったまま、誰にも見られずにエレベーターに乗るなんて無理に決まっている。私たちはこの階から出られない。


 そう考えて心配する私をよそに、翔は通路の途中にあった重そうな金属扉を開けた。ひんやりとした空気が流れてくる。

 扉の向こうは、階段だった。まさか、翔は私を背負ったまま階段で外を目指そうというのか。いくら私がやせ細っているとはいえ、人ひとり分の体重はある。無茶だ。


「翔」

「大丈夫だ。いける」


 心配と怯えから声が震えた私に、翔ははっきりと返事をしてくれた。


「一緒に冬のシリウス見に行こうぜ」


 そう言って、翔は一段ずつ階段を上り始めた。コンクリート打ちっぱなしの冷えた空間に、翔の立てる僅かな足音が刻まれていく。


 翔はあの夏の日のように、私の世界を広げようとしてくれていた。病室という箱の中でバッテリーに繋がれて生きるしかない、私というちっぽけな存在の為に、空を目指してくれている。私が願ったとおり、私に本物の星を見せようとしてくれているのだ。


 翔が約束したとおり、私の願いを叶えてくれるのは嬉しい。でも同時に、私という重りを翔に背負わせ、こうして階段を上らせるのが、申し訳ない。二つの感情が私の心の中でぶつかり合って、涙が溢れそうになる。そんな私の状態を翔に知られたくなくて、私は乾燥した下唇をぐっと噛み締め、翔の大きな背中にしがみついていた。


 階段を上っていくにつれて、翔の背中が少しずつ熱を帯びていく。私とくっついているからではない。それだけ、私を背負って階段を上がるのが翔の身体的負担に繋がっているのだ。天文部の合宿で鍛えられているとはいえ、人ひとり背負って何階分も階段を上っているのだ。辛くないわけがない。


 それなのに翔は「ちょっと休憩」どころか弱音のひとつ吐かずに、階段を最後まで上り切った。


 そうして辿り着いた終点で、翔が再び金属扉を開ける。そこは誰もいないフロアのようだった。少なくとも、うっすらとした暗がりの中で見える景色は入院室フロアという感じではない。照明は誘導灯の緑色くらいしかなくて、生気というものが感じられなかった。


 でも翔は、とっくに間取りを調べていたみたいだ。迷うそぶりもなく、薄暗い廊下を進んで行く。その先にある数段ほどの小さな階段を上がり、翔がドアを開けた。もう忘れかけていた澄んだ空気が、私の頬を撫でる。


 少し軋む薄いドアを開けた先は、病院の屋上だった。


「六花だ」


 屋上を進みながら、翔が呟く。空からふわりふわりと降りてくるのは、小さな雪の粒。私の名前の由来になったものだった。


 私と同じ名前の粒が翔の頬にふわりと触れて、溶け消える。まるで翔の輝きに焼き焦がされる私みたいだな、なんて思ってしまった。


「寒くないか?」

「大丈夫」


 翔の背中に捕まりながら、私はそう返した。雪がちらついているけれど、風はそんなに強くない。それに、翔とくっついていたら温かい。


「六花、見ろ。あれがオリオン座だ」


 翔の頭が動く。それにつられるように見上げた空は、少しだけ雲はかかっていたけれど星が見えた。教科書で見たとおりのオリオン座がよく見える。

 そうか、あれがおおいぬ座の飼い主オリオン。犬飼さんか。翔の名字を思い出して、少し笑えた。見上げるオリオン座は形がくっきりしていて、見るからに強そうだ。多分オリオンって、今の翔みたいにむきむきマッチョなんだと思う。


「オリオンから、ちょっと左を見てみろ。めちゃくちゃ光っている星があるの、分かるか?」


 翔に促されて、視線を動かす。あった。真っ白な光を放つ、凄く目立つ星。この冴えた空気の中で輝く星は、周りのどんな星よりも眩しかった。


「うん、あった」

「あれがドッグスター、シリウスだ。冬は空気が澄んで星が見やすくなる。夏に見たときよりも、ずっと眩しいだろ?」


 もうはるか昔のことなのに、翔は私とシリウスを見たあの朝を、覚えていてくれた。


「シリウスは、太陽以外で、地球上から一番明るく見える恒星なんだ。夏も、冬も、あの星は空に昇ってくる」


 翔が言葉を発するたびに、彼の息が白く可視化される。


「シリウスって、ひとつの星じゃないんだよ。シリウスAと、シリウスBっていう二つの星なんだ。今俺たちに見えている眩しいやつがA。で、天体望遠鏡で見ると、そのそばにBが見える。二つのシリウスはお互いの周りをくるくる回りながら、ずっと一緒にいるんだ。連星っていうんだよ」

「シリウスって、凄い星なんだね」


 私の息も翔と同じように白くて、今ここで私は生きているんだなと実感できた。

 ずっと一緒のシリウスAとBみたいに翔のそばにいて、あの日の記憶を二人で共有していて、またこうして同じ星を見ている。私はまだ、翔と同じように生きているんだ。私の心臓はとっくの昔に停止していて、ただバッテリーのおかげで生きているふりをしているんじゃないか。そんな考えが違っていたと、翔は教えてくれた。


 私は人間として生きている。だから私は、ここにいるんだ。


 翔が今どんな顔をしているか、私からは見えない。でも泣くのを我慢している私はきっとひどい顔をしているから、お互いの顔が見えないのはちょうどよかった。


 そんな私にかけられる翔の声は、いつもの明るい調子だ。


「来年の夏は、朝のシリウスを見ような。そんでもって冬がきたら、夜のシリウスだ。六花、約束だからな」

「うん、約束」


 病室で会っているときみたいに、私は頷くしかない。でも今の頷きは、私の心からのものだ。


「絶対だぞ」


 私の気持ちを確認するように、翔が念を押してくる。


 翔、今のって、告白の言葉なの? それとも、大親友だから言ってくれたの?


 一瞬そんな疑問がよぎったけれど、それは本当に僅かな時間で、翔にとって私がどんな存在かなんてどうでもよくなってしまった。


 だって翔は、私が来年も生きていると信じてくれている。

 生きたい。翔とまた星を見る為に、生きていたい。


 このとき私は、生まれて初めて「まだ生きたい」と思った。

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