第4話
すっかり慣れたベッドの上で、家から運んできてもらった教科書を読み進める。
「すげえ、本当に勉強してる」
そんな翔の声を聞いたのは、入院して二週間目の日曜日だった。午前のうちに簡単な検査を全て終えて、ベッドで教科書を開いていた私のところに、翔はやって来た。
私が入院している部屋は大部屋だったから、他のベッドにも見舞いに来ている人がいてなんだか室内がの空気が明るい。そんな場所に現れた翔は、なんかよく分からない模様が描かれたTシャツを着て、薄手の白い上着を羽織っていた。
「……何、その模様?」
「お、よく訊いてくれたな。いるか座だよ。最近ネットで買ったんだ」
ふふん、と翔が自慢気にTシャツの柄を見せつけてくる。いるか座ってたしか、小学校のときに翔が教えてくれた星座だ。それにしても、そんな星座のTシャツが存在するとは思わなかった。ネットで売られていたというからには、翔以外もこの柄のTシャツを欲した人がいたということだ。世の中って広いなあとぼんやり感じながら、嬉しそうな翔を眺めるしかなかった。
「おばさんから頼まれて、これ持ってきた」
そばのパイプ椅子にリュックをおろすと、翔は中から数冊のノートを取り出した。
「最近の授業のノート。六花が勉強についてめっちゃ気にしてるから、見せてやって欲しいって言われた」
「ありがとう、助かる」
自分だけではどうしようもない部分が多々あったから、翔の差し入れは本当に嬉しかった。
「あとそれからこれ」
子猫が表紙の薄いアルバムを、翔が取り出した。受け取って開くと、中は星の写真だらけだった。全てに日時と名前がついたメモ書きが貼られている。
「先週、部活で撮った写真。六花、星好きだろ?」
だから、私はそんなに星が好きなわけじゃない。でも翔が教えてくれる星や星座の話は大好きだ。私だけのプラネタリウムみたいで、わくわくする。
「これがかんむり座。ちょうどいい角度で撮れたんだ」
「かみのけ座の次は、かんむり座?」
「十二星座以外にも、星座ってたくさんあるからな。六花、アリアドネって知ってるか?」
翔の問いに、記憶を探る。翔の影響で、小学校のときはいろんな神話の本を読んだ。その中に、アリアドネという名前があった気がした。
「古代ローマの神話でな……」
「ミノタウロスの迷宮で、糸を渡した人」
翔の一言で、私はアリアドネを完全に思い出した。クレタ島の迷宮でミノタウロスを退治するテセウスに、迷宮を脱出する為に糸の束を渡した王女の名前だ。
「おう、それそれ。そのアリアドネの冠が、このかんむり座なんだ」
私がちゃんとアリアドネを覚えていたのが嬉しいみたいで、翔がにかっと笑う。いつまで経ってもあどけなさの抜けないその笑顔に、私はほっとした。
「でも、なんで星座になったの?」
「それはな……」
リュックを床に下ろした翔が、パイプ椅子に腰かけて物語を紡いでくれる。私だけのプラネタリウムが広がっていく。病院はもちろん消灯時間が決められているし、看護師さんが見回りをしているから窓辺で星を眺めるなんてできない。星について触れるのが久しぶりすぎて新鮮で、私は翔の話に夢中になった。アルバムの写真ひとつひとつを指しては、翔がどんな星なのか、なぜその名前になったのか、丁寧に解説してくれる。
翔と一緒だったら、私はどんな夜空でも自由に体験できた。
「今度はちゃんと、春の星ノート作ってやるからな」
「うん、楽しみにしてる」
楽しかった面会時間も、あっという間に終了だ。できたら春の星ノートは、学校で受け取りたい。病室を出て行く翔の背中を見ながら、私はそう強く思った。
願う力が強ければ、願いは叶うのか。そんなのはきっと、誰にも分からない。
それでも私は期末試験前にはなんとか退院できて、翔がせっせと授業のノートを差し入れてくれるおかげで、勉強にも遅れずに済んだ。退院祝いだと言って翔がくれた春の星ノートは、小学校のときよりも少し字が綺麗になっていた。
変化したのは、星ノートだけではない。翔は少しだけ、背が伸びた。天文部はなかなか体力を使うようで、筋肉もついたような気がする。私が知らない間に、翔はちょっと成長した。
変わったといえば、翔と三木原さんの距離感だ。
「翔くん」
休み時間のたびに私を訪ねて来る翔に、三木原さんは下の名前で呼びかけるようになっていた。
毎日会っていたら分からなかったかもしれないけれど、久しぶりだからこそ、その違いは目立った。たしかに男子は翔のことを名前で呼び捨てにしているけれど、女子が翔を名前で呼んでいるのはまず耳にしない。私が翔の教室に行かないせいもあるかもしれないが、それでも珍しいんじゃないかと思えた。
翔を名前で呼ぶのは、幼馴染である自分の特権のように感じていた自分に気づいてしまった。別にそんなの特権でもなんでもなくて、昔からの繋がりゆえのものなのに、どうして三木原さんが「翔くん」と口にするたびに、もやもやした気持ちが芽生えてしまうんだろう。
翔は翔で、三木原さんのことを「三木原」と呼び捨てにしていた。翔が苗字で呼び捨てにしている女子は、別に三木原さん以外にもいる。たまに会う天文部の女子のことだって、「吉田」と呼び捨てにしていた。翔が下の名前で呼ぶ女子は、私だけだ。
それでも、翔と三木原さんの距離は少し縮まっているみたいで、別に翔と付き合っているわけではないはずなのに私は僅かな苦い気分を覚えてしまう。
私が入院している間に、私の知らない翔がどんどん増えていく。翔は私の見舞いによく来てくれたけれど、結局私は病室で会う翔しか知らない。その証拠に、いつどんなきっかけで三木原さんが「翔くん」と呼ぶようになったのか、全然分からない。
こんなことなら、前に「付き合ってる」って嘘でも言っておくんだった。そうしたら三木原さんと翔の距離が縮まっているという現実に、薄暗い感情を覚えずに済んだのに。
***
それからも、私と翔の距離は離れていく一方の気がしていた。
成長期の翔は、若木のようにどんどん背が伸びていく。夏休みも部活の合宿で登山があったとかで、こんがり日焼けして帰って来た。あまり経過がよくない私が入退院を繰り返す一方で、翔は順調に筋肉質な体型になっていく。
私はといえば、学校にはだんだん通えなくなった。入院生活が長くなった私はついに、院内学級のお世話になるようになった。私が入院している病院はかなり大きなところだったから、そういう施設もある。義務教育ならばカバーできるそれに参加して勉強して、私の中学生という時間は過ぎていった。
ずっと病院の中にいるから、日焼けなんてするはずがない。体調がよくないことを示すように私の肌はいつもかさついていて、十代らしい瑞々しさなんて欠片もなかった。青白くてかさついている自分の手を見るたびに、まるで枯れそうな柳の木を見ているような気分になる。でもこれが、私に与えられた現実だ。
ごくたまに学校に復帰できても、すぐに体調を崩して長期入院になる。そんな私が、クラスメイトの名前なんてろくに覚えられるはずもない。休み時間に翔が教室に来てくれなければ、私はひとりぼっちだった。
なぜか三木原さんとは三年間クラスが一緒だったけれど、特に彼女と親しくはならなかった。三木原さんはもっぱら翔と話をしたがったし、体力のない私は翔と三木原さんの掛け合いをただ眺めるしかなかったから。
入院してばかりの私が季節の移ろいと時間の流れを確認する方法は、翔だ。
ああ、翔が日焼けし始めたな。夏になるんだ。
今日の翔は、随分汗をかいている。そうか、そろそろドッグデイズか。
ふふ、翔ってば肩に紅葉がついているよ。もう秋なんだね。
そのマフラー、新しいやつだね。似合ってるよ翔。
急いで来たの? 翔、コートに雪がついたままだよ。
ねえ翔、見て。リュックに花びらが載ってる。これって桜だよね。
翔だけが、不安定な私の日々を照らしてくれる光だった。
そうやって翔をたまに眺めて、中学校生活はあっけなく過ぎていった。入院していたから、卒業式は出ていない。集合写真も撮れなかったから、卒業アルバムの集合写真は、右上に私の写真がとってつけたように印刷されていた。
一応卒業式の名札は、私の分も用意されていたらしい。
「卒業おめでとう、六花」
学ランがぱつぱつで寸足らずになるくらいすっかりたくましくなった翔はそう言って、入院室で私のパジャマに桜の造花がついた名札をつけてくれた。
更新再開は3月2日(月)の0時更新分からです。よい週末を。




