第1話
お父さんたちにばれないように布団の中に突っ込んでいた目覚まし時計が鳴る直前で、私は無事に目を覚ました。
朝三時半。
室内が暗いのは遮光カーテンのせいもあるけれど、それでもカーテンの下から差し込む光なんてものはなくて、まだ外が暗いことを示していた。
正直、あまり寝た気はしない。わくわくが止まらなくて、うまく寝つけなかった。まあそのおかげで、けたたましい音を上げる前に目覚まし時計を止められたんだけど。
ベッドを抜け出して、早速着替える。腰についている補助人工心臓のバッテリー残量を確認すると、私は予備バッテリーなどが入った小さなリュックを背負った。生まれたときから心臓に持病を抱えている私は、これがなければ死んでしまう。バッテリーの大切さを何十回もお母さんが説明してくれたから、おでかけセットを忘れるなんてことなかった。
お気に入りの腕時計もつけて、準備は万全だ。
ごくりと息を呑んで、そっとドアを開ける。足音を立てないように細心の注意を払いながら廊下を進み、階段を下りる。
ぎい、と階段が軋んで、私は動きを止めた。暫しの間、周囲に耳をすませる。大丈夫、聞こえてくるのはお父さんのいびきだけだ。私は歩を進めた。
玄関について、履き慣れたスニーカーに足を突っ込む。鍵を開けるときにまた少しだけ音がしたけれども、お父さんのいびきのおかげなのか、幸い誰も起きる気配はなかった。
脱出成功。
高揚感から、つい顔が緩む。
「六花、六花」
こそこそと私を呼ぶ声がした。家の門のところを見れば、子供がひとり顔を覗かせている。私と同じ小学四年生の幼馴染、隣に住んでいる犬飼翔だ。明るい黄色のTシャツを着ていてくれなければ見つけられないくらい、翔はこんがり日焼けしていた。夏休みを謳歌している証拠だ。プールに入るのも駄目、暑い場所も駄目。そんな私とは全然違う世界に、翔はいる。
でも今日はそんな翔と二人で、家を抜け出して「夏の暑さの正体」を見に行く約束をしていた。
「それ、貸せよ」
「ありがと」
私が背負っていたリュックを、翔が持ってくれる。翔もリュックを背負っていたけれど、私は自分の荷物を彼に任せた。翔は私が疲れやすいのを知っていてくれたから、私が何か荷物を抱えているといつも代わりに持ってくれる。私たちの間ではそれが当然のことになるくらい、一緒の時間を過ごしてきた。
誰もいないまだ夜の道を、二人並んで歩く。こうしていると、なんだか家出したみたいだ。でも翔と家出したら、多分他楽しいだろうな。翔はいつも、私を楽しませてくれるから。
「ねえ翔、『夏の暑さの正体』って何?」
「星だよ。すっごい綺麗なんだ」
私とそう背丈の変わらない翔と目指したのは、河川敷の土手だった。私たちが知る限り、私の体力で行ける、一番空が広く見える場所。
「六花、疲れてないか?」
「平気」
正直言えばちょっとだるいものの、ゴールは目の前だ。翔が差し出してくれた手を取って、土手の階段を上る。
上り終えると、そこには解放感のある空が広がっていた。電線のない、星がまたたく広大な夜空。住宅街の窓から見る切り取ったような空とは、全然違う。まだ眠っている街に明かりなんてほとんどないから、星がよく見えた。これが、本当の七月下旬の空なのか。見たことのない時間の星空に、私は一瞬惚けた。
腕時計をちらりと見ると、時刻は午前四時。
小学生がこんな時間に家を抜け出して、誰かに見つかって怒られたらどうしようという不安はないわけではなかった。でもそれよりも私は、翔が見せてくれるという「夏の暑さの正体」がずっと気になっていた。
「本当にそんな星あるの?」
「本当だって。見てろよ」
私にそう答える翔の声は、自信満々だ。星座盤と方位磁石を持った翔が、私たちが観測すべき方向を絞り込む。
「もうすぐあっちから昇ってくる」
翔の指す東の空は、ぱっと見ただけでは他の場所と何も変わらないように見える。でも翔が言うからには、そっちからその星は昇ってくるんだろう。
現実の星空は、プラネタリウムみたいにあっという間に変化しない。ただじっと待つだけだ。翔が持ってきてくれていたレジャーシートに座りながら、煌めく星々をぼんやり眺める。
また日の出前なのに、もう既に少し暑い。この時期は夜になってもなかなか気温が下がらないから、一日中暑くて嫌だ。少しは涼しくなってくれないと、お母さんは外出許可を出してくれない。だから私は夏休みの間、家の中でばかり過ごしていた。
だけど今日は、そんなお母さんの言いつけを破って外に出た。翔が私に教えてくれた「夏の暑さの正体」を自分の目で見てみたくて、翔にわがままを言ったのだ。
ただ暗いとばかり思っていた空が、少しずつ色を変えていく。
「六花、空にもいるかがいるって知ってるか?」
「ううん」
「いるか座っていうのがあるんだよ。いるかって、海の神様のポセイドンの使いって言われててな……」
空の変化はゆっくりしたものだったけれども、翔がいろんな星座の話をしてくれたから、待っている間も全然暇ではなかった。
どれくらい待っただろうか。
「あ、ほら! あれだよ!」
勢いよく立ち上がった翔が、空の一点を指さす。その指先を辿れば、宵闇色の空に、ちかり、と一際明るい星がひとつ見えた。他の星よりも断然明るく輝く星だから、すぐに分かった。
力強い光に誘われるように、私も立ち上がってその星を見る。他の星の輝きなんてかすんでしまいそうなくらい、その星は煌めいていた。
「あれがシリウス。夏の暑さを連れてくる星だよ」
自分の話が本当だったと証明できた翔の声は、どこか誇らしげだ。
「昔の人は、シリウスが太陽を連れてくると思っていたんだ」
夜明けを待つ空で一際眩く輝く星のことを、翔はすらすらと教えてくれる。
「シリウスはおおいぬ座の星だから、『ドッグスター』って呼ばれてる。だからシリウスが太陽を連れてくる真夏のことを、『ドッグデイズ』って言うんだ」
なんだか可愛い名前だな、と私は思った。でもおおいぬ座ってことは、かなり立派な犬なんだろう。そんな星が連れてきてしまうから、夏はこんなにも暑いのか。
「翔の苗字は『犬飼』だから、翔がシリウスを飼っているってことかな」
「だったら俺は、オリオンだな。おおいぬ座の飼い主は、オリオンだから」
そう言った翔と、目が合う。翔が星みたいに明るい笑顔をにかっと浮かべてくれた。
***
「いったい何考えてるんですか! うちの六花は心臓が悪いって知ってますよね!」
「すみません、すみません!」
「人がいないような時間に外に連れ出して、何かあったらどうしてくれるんですか!」
「すみません!」
そんなに広いとはいえない、私の家の玄関。そこにお母さんのヒステリックな声が響き渡る。家に上がることすら許されない翔とその両親は、玄関でひたすらに頭を下げ続けていた。
夜明け前には家に帰ったのに、私が家を抜け出したことがばれてしまっていたのだ。お母さんは玄関に仁王立ちで、私を待っていた。それから翔が捕まり、彼の両親が電話で呼び出され、今の状況に至る。
「待って、違うの! 私が行きたいっていったの!」
「六花は黙ってなさい」
お父さんが私の言葉を一蹴する。
「暑さにも弱いから、厳重に管理しているんですよ! なのに夏の外に連れ出すなんて!」
「すみません……!」
私は心臓に持病があるから、あまり運動ができないし、水分も一日に摂れる量が限られている。あまり暑い場所や寒すぎる場所だと補助人工心臓のバッテリーの持ちも悪くなるから、お母さんたちが私を夏や冬に外へ出したがらない気持ちも、分からないでもない。そんな私を翔が家から連れ出したと思って、心配だったあまり怒っているというお母さんたちの気持ちも、痛いほど分かる。
でも、翔は悪くない。
「だから、私の話を聞いてよ!」
ありったけの声で叫ぶと、私はお母さんを押しのけて翔たちをかばうように立った。どくんと心臓が跳ね上がるように脈打つ。
「私が外に行きたいって言ったの! この時間に星が見たいからって、私が翔を誘ったの! 翔はなんにも悪くない! 翔は私のお願いを叶えてくれただけなの! それに翔だって、私の体のこと知ってるよ! だからいつも荷物持ってくれてたし、今日だって私が休憩できるようにレジャーシート持ってきてくれ、たり……」
お母さんにつられて、興奮しすぎたかもしれない。胸が痛い。息が詰まる。翔は悪くないんだと主張したいのに、声が言葉になってくれない。
ぐらり、と体が傾いだ。
「六花!」
最後に聞こえたのは、多分翔の声だ。私の背中を支えようとしてくれたのは、翔の手だと思う。無理だよ翔。まだ子供の翔じゃ、私の体を支えられない。
でも、いつでも翔は私を助けようとしてくれるんだな。
そう思ったところで、ぷつりと私の意識は途切れた。




