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「とうちゃーく!」
揚羽が浮遊感から解放されると、足元からジャリ、と音がした。
目を開けると、そこには白い砂。顔を上げると、青い空と一面の海が広がっていた。ビーチを絵に描くなら目の前の光景がぴったりだと揚羽は思った。砂浜も海も延々と続いていて、終わりは揚羽がいる場所からは確認できなかった。風に乗って流れてくる潮の香りも、目の前に広がる美しい光景を彩る要素の一つになっていた。
それだけならどこにでもあるようなビーチ。だが、一つだけ違うのは、
「群れかよ。朝からめんどくせぇな」
空にイワシの群れが飛んでいることだろうか。
「……え?」
面倒くさそうに呟く出雲と、出雲の隣で言葉を失う揚羽。
今、自分は夢を見ているのか。魚が空を飛ぶはずがない。マリンは夢の中に自分たちを連れてきたのか。
揚羽は呆然と、悠々と泳ぐイワシの群れを見上げる。
「……マリン。本当になんも教えてないんだな」
呆気に取られている揚羽を見て、出雲は深い溜め息をつく。
「出雲たちが教えてくれると思ったからね!」
晴れやかな笑顔とともに親指をぐっと立てるマリン。
二人が話すうちに、揚羽は空を飛ぶ群れをほんの少し冷静に見られるようになっていた。
形こそ魚だが、目の部分は窪んで黒く、本来より獰猛な牙が生えている。ところどころ骨が剥き出しになっていて、あれを魚と形容するには些か難しい。どちらかと言えば、ホラー映画に出てくるゾンビに近い。
「あの生き物はなんですか……?」
「アビス」
「え?」
おそるおそる問いかける揚羽に、出雲は平然と返す。
アビスとはあの怪物のことを指していたのか。揚羽は姿と名称がようやく一致した。
「で、オーシャン専門管理局の仕事はアビスを倒すこと」
「倒す、あの生き物を……?」
出雲の言葉に揚羽は耳を疑った。
「そ、そんな漫画みたいな話があるわけないじゃないですか。そもそも、あんな化け物を今まで見たことありません」
「だろうな。あいつらはオーシャンにしかいない」
笑顔を取り繕い、反論していた揚羽の思考が停止する。
出雲の言葉をそのまま受け取るなら、つまり。
「ここは、オーシャン……?」
「そう」
出雲の淡白な返答に揚羽はよろける。
体を支えようと踏みしめた砂の感覚も、揺蕩う海も、自分が知る海と同じ。ここが仮想空間であるオーシャンとは到底信じられなかった。
「揚羽、大丈夫?」
「すみません……あまりにも情報量が多すぎて……」
心配そうに覗き込むマリンに、頭を抱えながら応える揚羽。必死に平静を保とうとしているが、あまりにも現実的ではない出来事に冷静ではいられなかった。
「戻ったらちゃんと説明するから安心して!」
「いえ、そういう問題ではなくて……」
揚羽の頭はとうにパンクしていた。一から説明されたところで納得できる自信もない。
「今はなんとなく聞き流せ。あとでいくらでも説明する」
出雲はその場で屈伸運動を始め、肩を軽く回す。一体なにをしようというのか。
「そこで見てろよ」
次の瞬間、出雲は砂浜を蹴ってアビスの群れと同じ高さまで跳躍した。
「飛んで……え?」
戸惑う揚羽だが、舞う砂の隙間から見えていた。出雲は足元にある細い糸のようなものを踏み込んでいたのを。
出雲が目の前に現れたことで、隊列を組んでいたアビスの群れが散る。出雲は指先で細い糸を操り、網のように追い込んでアビスを細切れにしていく。一撃で数百のアビスを討伐するも、群れを成したアビスはすぐには減らなかった。
糸を潜り抜けたアビスは散り散りになるが、出雲がすかさず糸を掴んで回り込む。そして糸を伸ばして切り裂いていく。また数百のアビスが減り、出雲が追い込む。その繰り返しが数度続いた。
太陽に反射してキラリと光る糸が出雲の足場になっていた。急降下したかと思うと、糸にぶら下がり、アビスの群れを撹乱していく。群れを避けながら器用に足場を作り、一匹も逃さずアビスを追い込んでいった。
「高いところが苦手な人だったら絶対にできないことだよねー」
揚羽の横でマリンが呑気に呟く。
「そう、ですね……」
揚羽は理解が追いついていなかった。上空で起こっている状況を誰か説明して欲しい。
揚羽が状況を理解する暇もなく、出雲は群れを散らし、着実に数を減らしていった。
「どう、面白い?」
「もうなにがなんだか……」
期待がこもった眼差しのマリンに、揚羽は気の利いた言葉を返せなかった。呆然と、アビスを切り裂いていく出雲を眺めるばかりだった。
「これで終わりだな」
出雲が低く呟く――気怠げな表情で。
空を埋め尽くさんばかりのアビスがいたが、十分足らずでアビスは一匹残らず消え去った。
青空を取り戻した浜辺は落ち着いた静寂が流れていた。波が寄せては引く、静かな空間だった。
揚羽とマリンの前に降り立った出雲は汗一つかいておらず、揚羽と会ったときと同じように怠そうな表情をしていた。
「出雲、朝からお疲れ!」
「本当に疲れた。帰ったら煙草吸うかな」
軽く伸びをして、揚羽の後ろを指す出雲。
「この向こうに、お前も知ってるオーシャンの空間がある」
振り返ると、背後には大きな椰子の木が何本もがそびえ立っていた。揚羽はオーシャンのホーム画面を思い出す。そういえば、周囲は椰子の木に囲まれていたような。
リゾートと近未来が入り混じった現実にはない仮想空間。画面の向こうの光景だが、その目新しさを忘れることはなかった。
開発の時点で外の世界も構築されていたのかと、揚羽は感心する。当然と言えば当然かもしれないが。
「ここがオーシャンの外だとしたら、今の出来事はユーザーに見られていたのでは?」
オーシャンの中で、ユーザーは海に行けるエリアもある。もしユーザーがここに来ていたとしたら今の戦いも見られていた可能性がある。
揚羽の疑問に「大丈夫だよ!」と快活なマリンの返答が飛んでくる。
「一般ユーザーから見えてるのは、ホログラムでドーム状に再現された海と空。だから、あたしたちがなにをしてもバレないよ!」
自慢げに鼻を鳴らすマリン。
過去にオーシャンにログインしていたとき、出雲たちはここにいたのかもしれない。揚羽はこれまでログインしたときのことを思い出していた。
「無事にアビスも倒したし、戻ろっか!」
マリンは揚羽と出雲の手を取る。ふわりと体が浮き、目の前の海はゆっくりとホワイトアウトしていった。