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「アビスが、いる……」


 自由気ままに泳ぐ姿は海藻や砂利や流木を追加すれば、まるでアクアリウムのように見える――泳いでいる魚たちがアビスでなければ。

 揚羽たちの周りでは、「魚の群れ?」「かわいー」「いや、グロいだろ」「魚って空飛ぶっけ?」「あれ撮ったらバズるんじゃね?」「プロジェクションマッピング?」と老若男女の様々な声が――多くの人々がスマホを構えながら――飛び交っていた。

 話題の中心になっているアビスは揚羽たちに襲いかかる様子はなく、自由に宙を泳ぎ続けていた。


「……本格的にまずい状況ですね」


 一般人にもアビスの存在が知られてしまった。

 揚羽たちの目の前を一匹のアビスが通り過ぎる。梨羅のスキルで自分たちの姿は見えていないはずなのに、揚羽たちは思わず息を呑んだ。


「あれ、どう倒したらいいんだろうね」

「表立って倒すことはできないですからね……あれだけ大量のアビスをオーシャンに戻す方法も思いつかないですし……」


 アビスを見て盛り上がる一般人とは対照に、揚羽たちの間に沈黙が広がった。


「……あたしが囮になる」


 マリンの提案に揚羽たちは目を見開く。


「あたしがいれば、みんなオーシャンのイベントだって勘違いしてくれるんじゃないかな。だから、あたしがアビスを引き寄せて時間を稼ぐ。その間にみんなはオーシャンに行って、原因を突き止めて欲しいの」

「マリンさん……」

「このままだと、こっちの世界に被害が及ぶかもしれない。揚羽たちのいる世界だから、それは絶対に防ぎたい」


 これまでにないほどマリンの表情は真剣だった。しかし、揚羽たちは誰も首を縦に振らなかった。マリンの提案ではマリンが危険に晒される可能性がある。他に方法はないかと考えたが、マリンの提案に見合うものは誰の口からも出てこなかった。


「……俺は残るよ」


 呟いたのは祢音だった。


「マリン一人じゃ危ないでしょ。俺がいれば少しは安全だと思うよ」


 祢音はふっと口元に笑みを携える。


「あとは『俺に任せて先に行け』って定番の台詞。人生で一回は言ってみたかったんだよね」


 真剣な声色をした祢音だが、表情はどこか楽しそうだった。


「それじゃあ、私も残ろうかな」


 祢音に続いたのは梨羅だった。梨羅はにこやかな笑みを浮かべていた。


「二人いればマリンちゃんももっと安心だよね。だから、オーシャンの方は揚羽ちゃんと出雲くんにお願いしてもいいかな」

「……分かりました。先輩方もお気をつけください」


 揚羽の言葉に、梨羅と祢音は力強く頷いた。


「……ですが、」


 思い出したように、揚羽はマリンへ視線を移す。


「マリンさんが現実世界に残るなら、私たちはオーシャンに行けないのではないですか?」


 いつもならマリンの手を取ってオーシャンへ向かっていた。マリンが現実世界に残るのなら、オーシャンに向かう手段はないはずだ。


「あたしがいなくても行けるよ!」


 揚羽の不安を吹き飛ばすようにマリンは答えた。


「……それは初耳なのですが」

「言ってなかったからね!」


 満面の笑みと共に親指を立てるマリン。

 なぜそんな大事なことを教えてくれなかったのかと、揚羽は出雲たちとマリンを交互に見やる。しかし、出雲たちも揚羽と同じように驚きの表情を浮かべていた。

 恐らくマリンは言い忘れていたのだろう。出雲たちとマリンの雰囲気から揚羽はなんとなく察した。


「それで、オーシャンへはどうすれば行けるのですか?」

「合言葉を言えばオッケー!」

「合言葉、ですか?」

「オーシャンにログインするときはIDとパスワードが必要でしょ? それと同じで、揚羽たちのスキルがIDの代わりになってるの!」

「なるほど……それで、合言葉――パスワードはなんですか?」


 ふふん、とマリンは鼻を鳴らす。


「オーシャンのキャッチコピーだよ!」


 マリンに言われて揚羽はすぐに思いついた。広告でも最後に決まり文句として言われる言葉。オーシャンに向かうとき、マリンがいつも口にしていた言葉。

 オーシャンに向かうのだから、没入体験の延長で言っていると揚羽は思っていた。

 だが、違った。その言葉がなければオーシャンに入ることはできなかったのだ。


「じゃあ、出雲」


 出雲に視線を移し、マリンはニヤリと笑う。


「いつものあたしみたいに、元気よくよろしく!」

「なんで俺なんだよ」


 あからさまに嫌そうな顔をする出雲。マリンは気にせずぐいぐいと迫り続ける。


「出雲が言ったら面白いと思って!」

「やだよ。瀬戸、任せた」

「駄目! 出雲が言って!」


 緊急事態だというのに、なにを無意味なやり取りを始めているのか。

 出雲がマリンの真似をしても喜ぶ人間は誰もいないはずだ。百歩譲って、今後揶揄うための材料になるくらいで。

 二人が押し問答をする間にも、アビスの数は着実に増えていた。このままでは空がアビスに埋め尽くされてしまう。


「あぁもう私が言います! マリンさん、私でもいいですよね!?」


 痺れを切らした揚羽は二人の間に割り込み、会話を遮った。


「……別にいいけどぉ?」


 マリンは不満そうに唇を尖らせる。


「出雲が言うから面白かったのにぃ」

「今度言ってもらおっか」


 拗ねるマリンとは対照的に、一切の悪意を感じさせない梨羅の笑顔。二人の冗談を出雲は呆れながら軽く受け流した。


「では、梨羅先輩、沖田先輩、マリンさん。こちらはお願いします」


 揚羽は出雲に向き直る。


「先輩、行きましょう」

「あぁ」


 出雲の手を取り、揚羽は息を吸い込む。


「……」


 そのとき、揚羽はマリンの普段の姿を思い浮かべてしまった。

 急に冷静になり、恥ずかしさが込み上げてきた。例えるなら、魔法少女に変身する際の口上にも思えて。いい歳をして元気よく言える台詞ではないような気がして。


「なに黙ってんだよ」

「……なんでもないです」

「今さら言えないとか言うなよ?」


 出雲の冷ややかな目線が揚羽に降り注ぐ。


「いいえ、言えます! 言います!」


 出雲を掴み続けている手が心なしか汗ばんできた気がする。梨羅たちの微笑ましい視線も伝わり、揚羽は自分の顔が赤くなるのを感じた。

 悠長なことは言っていられない。揚羽は落ち着かせるように息を吐き、大きく息を吸い込んだ。


「【さぁ、君もオーシャンに飛び込もう】」


 白んだ光が揚羽と出雲を包み込む。

 揚羽は自分の言葉に、微かに出雲の声が重なって聞こえたような気がした。

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