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 どんどん海の底へ引っ張られていく。苦しい。しかし息はできない。してはいけない。

 必死に耐える揚羽だが、息を吸い込む余裕もなく引き摺り込まれたために、呼吸はすぐに限界を迎えた。息を吐き、ゴボゴボと自分の口から泡が出ていく。

 息を限界まで吐いたら人は酸素を求めて自然と息を吸ってしまう。揚羽も例に漏れず、息を吸い込んでしまった。揚羽の体に流れ込んだのは海水――ではなく、空気。

 肺は酸素を取り入れ、再び呼吸をすることができた。

 なぜ呼吸ができるのかと、揚羽は海中に入ってから閉じ続けていた目をゆっくりと開ける。

 辺りには一面の藍色が広がっていた。視界も水中特有のぼやけたものではなく、ハッキリと様子が確認できた。


「初めまして、瀬戸揚羽さん」


 揚羽の目の前には柔らかな茶色の髪をした、穏やかな笑みを浮かべる男性がいた。男性の声は海中のはずだが、地上と同じようにクリアに聞こえた。男性は揚羽を引き摺り込んだアビス――巨大なダイオウイカのアビスのうちの一本の足に座っていた。

 揚羽は片足をアビスの触手によって拘束され、海藻のようにふわふわと海中を漂っていた。


「……どなたですか」


 状況が飲み込めない揚羽だったが、できるだけ平静を装って男性へ問いかける。

 なぜ自分たち以外に人間がいるのか。揚羽が疑問を抱いたと同時に、頭の中に一人の人物が思い浮かんだ。

 オーシャンで行方不明になった、現実世界では既に死亡している人物。


「僕は潮可夢偉といいます」


 潮可夢偉と名乗った男性はニコリと微笑む。アビスの上で優雅に足を組む姿は異様に落ち着いていた。


「あなたが潮可夢偉さん……」


 揚羽は呆然と呟く。

 可夢偉の周りにはダイオウイカのアビスだけでなく、リュウグウノツカイ、ラブカなど、深海魚の姿をしたアビスが悠然と泳いでいた。


「どうして……」


 揚羽の一言には様々な疑問が込められていた。なぜここにいるのか。なぜアビスと共にいるのか。なぜアビスに襲われていないのか。

 まずは拘束されている足をどうにかしよう。揚羽は刀を具現化して体を器用に動かし、触手を切り落とす。しかし、別の触手によって刀を握っていた手を絡め取られ、もう片手と両足も拘束される。ものの数秒で揚羽の四肢は完全に拘束された。


「まぁそう焦らずに」


 可夢偉が指を動かすと、揚羽の首元に触手が一本突き立てられる。触手の先がちくりと刺さり、少しでも顔を動かせば刺さってしまう。

 ここで抵抗するのは悪手だ。動きを止めた揚羽は無言で可夢偉を睨みつける。


「あなたを殺すつもりは全くありません」

「それなら、なぜこのようなことをしているのでしょうか」

「あなたとゆっくりと話がしたいと思いまして」


 可夢偉は昼下がりにカフェで寛ぐような、優しい視線を揚羽に向ける。一方で揚羽は不快感を露わにしていた。


「オーシャン専門管理局に新しく入ってきたので、どんな方なのか気になったのです」

「それにしては随分と手荒な方法ですね」

「申し訳ありません。これしか方法が思いつかなかったもので」


 眉を下げて笑う可夢偉。

 話を続けながら、揚羽は段々と状況を判断できるようになっていた。

 すぐにでもアビスから逃れたかったが、可夢偉の周りには揚羽を監視するようにアビスが泳いでいる。自分が圧倒的不利な状況で、無闇に動くのは得策ではない。


(まずは冷静に、彼の動きを窺いましょう……)


 息を吐き、真っ直ぐ可夢偉と対峙する。


「……私も、あなたと話がしたくなりました」

「そうですか、嬉しいですね」

「私からいくつか質問をしてもいいでしょうか」

「もちろんです。時間はいくらでもあります」


 可夢偉は穏やかな笑みで応えた。

 言葉を間違えたら命の危機が訪れるかもしれない。慎重に、少しずつ情報を引き出そう。


「まずは、なぜアビスと一緒にいるのですか?」


 アビスに腰掛けるなんて、まるでアビスを手懐けているかのようだ。周囲のアビスも可夢偉を守っているように見える。


「これは僕が複製したアビスです。複製した時点で僕に襲いかかることはありませんでした。恐らく僕を親だと思っているのでしょう」


 物体を複製するスキル。梨羅から聞いた話が揚羽の頭をよぎる。


「あなたは物体を複製するスキルで自身を複製したと聞きましたが、事実ですか?」

「はい。その通りです」

「先輩からは『自由に生きるため』と聞きましたが……なぜわざわざ死を偽装したのですか?」

「僕なりの現実世界からの決別の方法です。オーシャンで第二の人生を過ごしている僕が、現実世界に存在する必要がないからです」


 にこやかに、自身の死などとっくに過去のことになっている口ぶりで可夢偉は語る。


「……別の質問です。なぜオーシャンで行方不明になったのですか? 先輩方があなたを探し続けています」

「一人でオーシャンを楽しみたいと思いまして」

「……は?」


 揚羽は眉を寄せる。小さな泡と共に口から声が漏れ出た。


「魅力的だとは思いませんか? 仮想空間として有名なオーシャンに入れるなんて、簡単に体験できるものではありません。アビスを退治するのも楽しいですが、こうして観光気分に浸るのも悪くないでしょう」


 愕然とする揚羽。


(その程度の理由で自ら行方をくらましていたなんて……)


 出雲たちが必死に探しているというのに。揚羽は可夢偉に対してふつふつと怒りが沸き始めた。

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