5.生きる理由
揚羽がオーシャン専門管理局に向かうと、出雲がフェンスに寄りかかって煙草を吸っていた。
「藤波先輩、おはようございます」
「あぁ、おはよ」
三十度の綺麗な角度で頭を下げる揚羽。
顔を上げると、出雲は物珍しそうに揚羽の服装を上から下まで眺めていた。
「どうかしましたか?」
「今日はスーツじゃないんだな」
「私なりに不真面目になってみました」
その場でくるりと回り、コーディネートを見せる。そんな見せるものではないかと思いつつも、初めて見せるのだからいいかと揚羽は内心で苦笑する。
「新鮮でいいな」
煙を吐きながら出雲はふっと笑う。
「それは褒め言葉として受け取っていいのでしょうか」
「もちろん」
天気のせいなのか、答える出雲はどこか晴れやかに見えた。思わず揚羽の顔が綻ぶ。
「なんかついてるか?」
「心なしか、先輩が爽やかになったような気がしまして」
「気のせいだろ」
「……そうかもしれないですね」
「そこは否定しろよ」
お互いの胸の内を曝け出したからか。揚羽は胸が軽く感じられた。
出雲と話すうちに、揚羽は昨日の出来事を思い出した。人前で初めて泣いたこと。出雲に優しく慰められたこと。まるで子供のようだと、揚羽は今になって恥ずかしさが込み上げてきた。
「どうした?」
「い、いえ、なんでもありません」
慌てて中に入り、鞄を置いてソファに腰掛ける。いつものようにパソコンを取り出そうとしたところで手を止めた。
報告も毎日しなくていいのでは。出雲たちの行動を逐一報告しても上はさほど興味を持たなかった。新しい出来事があったときに報告するだけで十分なのかもしれない。
脳内会議を終えた揚羽はソファに深く座り直し、大きく深呼吸をする。
(それなら、なにをしましょう……)
暇さえあれば調査と報告をしていたから、今さら他にやることが思いつかない。
そわそわと落ち着かない様子で部屋中に視線を動かす。すると、キッチンが心なしかくすんで見えた。掃除をしようと立ち上がり、揚羽はキッチンへと向かう。
キッチンの上の棚に掃除道具があるのは知っている。掃除道具を取り出し、揚羽はキッチンの掃除を始めた。
「……なにしてんだ?」
煙草を吸い終わって戻ってきた出雲は、隅々まで念入りに掃除をしている揚羽と鉢合わせる。
「掃除です」
「見れば分かる。朝はいつもパソコン開いてただろ」
「報告はほどほどにしようと決めたので。不真面目を目指します」
「真面目か」
出雲は定位置であるスツールに腰掛けてスマホをいじり始めた。
そこで会話は自然と終わり、静寂が訪れる。
(こういうとき、私はいつもどうしていましたっけ……)
気まずい空気が流れ始めた――揚羽の中だけに。
今までも二人のときはそれほど会話はなかった。それなら今と同じ状況のはず。なのに、なぜこんなに意識しているのか。
やはり昨日の出来事があったからだと揚羽は結論づけた。何事もなかったかのように振る舞っている出雲の神経の図太さ――もしくは鈍感さが揚羽は羨ましく思った。今ほど梨羅たちが来て欲しいと思ったことはない。
雑念を振り払おうと掃除に専念し、比例してキッチンはピカピカになっていった。
時は過ぎて夕方頃。アビスが現れ、揚羽は出雲とマリンとともにオーシャンへ向かった。
夕焼けに照らされてオレンジ色に光る海面は絵画のように美しく、揚羽は心を奪われていた。
だが、気を取られているわけにはいかない。空中を無数に泳ぐのはサメの姿をしたアビス。風景に似合わない凶悪な存在に、揚羽は表情を引き締める。
「本来のサメは警戒心が強く、人を襲うことはあまりありません。ですが――」
「アビスだからな。そういう常識も通用しないだろ」
アビスを見上げながら揚羽は頷く。
「まぁ、お前とならすぐ終わるだろ」
「そう言っていただけてなによりです」
信頼してくれてなによりだと、笑みを浮かべて揚羽は刀を具現化させる。
「サメなら……フカヒレでしょうか」
「食い意地張ってんな」
「先輩には言われたくありません」
軽口を叩いた揚羽は、自信に満ちた表情でマリンの方へ振り返る。
「マリンさん。私たちに任せて、ここで待っていてください」
「うん。お願い」
マリンは安心した笑顔で揚羽たちを見送った。
揚羽は刀をしっかりと握りしめ、決意のこもった眼差しでアビスへと向き直る。
揚羽と出雲は同時に動き出した。出雲が操った糸は鋭利な刃となり、迫り来るアビスを切り裂いていく。また、揚羽も出雲が空中に張った糸を駆け上がり、空中を泳ぐアビスを次々と斬り伏せる。揚羽が手にする刀が夕焼けに反射し、刃がキラリと光った。
アビスの凶悪な姿にも揚羽はだいぶ慣れてきた。でなければ真正面から対峙して戦うことなどできない。
(先輩、的確にサポートしてくれている……)
作戦会議などしていない。だが出雲は揚羽の望む場所に糸を張り、揚羽が滞りなくアビス退治を行えるようにしてくれている。出雲の期待に応えなければと、揚羽は刀を握り直した。
二人の手によってアビスは次々と倒されていき、気がつけばアビスは一匹残らず消滅していた。
「お疲れ様でした」
「お疲れ」
マリンの元に戻る途中、揚羽は再び夕焼けに照らされた海に視線を奪われた。
この美しい光景が見られるのは自分たちの特権だ。いつまでもいたいと思える、心地いい空間だった。
「それでは戻りましょうか――」
「瀬戸!」
揚羽がマリンの方へ向き直ったのと、出雲が揚羽の名前を呼んだのは同時だった。
「え?」
突如、背後から揚羽を覆い隠すほどの大きな影が広がる。
振り返った揚羽の視界に写ったのは、巨大なイカの姿をしたアビス。
(あ、まずい――)
突然のことに揚羽の足は動かなかった。
次の瞬間、揚羽は海の中へ引き摺り込まれた。




