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「……敷かれたレールを歩けない奴もいる」
揚羽が顔を上げると、出雲が雨で濡れた眼鏡を裾で拭いていた。
「俺がそうだから」
眼鏡をかけ直し、出雲は雨で濡れたフェンスに寄りかかる。
「あの日はバイト終わりに、いつも買ってたビールと、値引きされてた弁当を買って帰った」
「……なんの話ですか?」
「俺の話。腹割って話してくれたんだから、俺も話さないとフェアじゃないだろ」
いつもの気怠げな雰囲気は抜けていなかったが、表情は真剣そのものだった。
「テレビで適当につけたバラエティを見て、シャワー浴びて、ベッドでスマホをいじってた。それで寝る前にふと思いついた。死ぬかって」
いつもやる気はないはずなのに、思い立ってからの行動は早かった。
「ちょうどダンボールを縛る紐があったから、結んでドアノブに引っかけた。いい感じに首が締まって頭がぼーっとしてきた。走馬灯っぽいものも見えたけど、そのときは失敗した。だからやり直した。眠剤も持ってたし、これも使えば今度こそ死ねるなって頭のどこかで思った」
来世はなにをして過ごそう。というより、また人間として生まれることはできるのか。
死に際でもそんなことを考える余裕がある呑気な自分に、出雲は内心呆れていた。
「そしたら、マリンに救われた」
意識がなくなる寸前、首へかかる重みがふわりと消えた。
澄んだ歌声が出雲の耳に届く。
顔を上げた出雲の目の前にいたのは人魚の姿をした少女――マリン。マリンは出雲に優しく微笑みかけた。
「先輩をそうさせた理由は……死のうと思った理由はなんですか……?」
座り込んだまま、揚羽は出雲に尋ねる。
「元々、漠然と死にたいとは思ってた。よく言う希死念慮ってやつ。……ただ、決定づけたのは、普通の人生さえ送れないって気がついたから」
「普通の人生、ですか」
「普通なら定職にもつかない日雇いとバイトで食い繋ぐ生活なんてしないだろ」
ふい、と気まずそうに視線を逸らす出雲。揚羽は否定も肯定もせず、「そうですか」と目を伏せた。
「小中の頃は将来の夢もサラリーマンとか公務員とか、無難な職業を考えてた気がする。自分に見合う偏差値の高校に行って、一浪したけど大学も卒業した。でも、俺はその先になにもなかった。突出した才能もなかったし、誇れるような資格もなかった。結局、就活せずに終わった」
その瞬間、人生のレールから外れたような気がした。適当に書いた将来の夢なんてなんの役にも立たなかった。
「俺は普通の人生を送るはずだったのに、一般社会の言う普通にはなれなかった」
出雲の脳裏に浮かぶのはある日の出来事。バイト帰りに子供連れの家族とすれ違った。両親の年齢は自分とほとんど変わらないように見えた。きっと普通の人生を送っていたら、ああなれていたんだろう。
「俺はどこにでもいるありふれた人間のはずなのに、なぜ普通の人間にさえなれていないのか。普通じゃないなら俺は何者なのか。考えるうちに自分の人生が分からなくなった。生きる理由もないし見つからない。なにもなかった人生なのに、その先になにかあるとは思えない。だから、オーシャンで新しい人生を歩めばきっとなにかあるはず。そう思って、俺はマリンの手を取った」
出雲は揚羽に向き直る。打ちつける雨がほんの少しだけ弱まった気がした。
「俺も生きてればいいことがあるなんて思ってない。だけど、生きる理由はオーシャン専門管理局で見つけた」
「なんですか?」
「一つは可夢偉さんを見つけること。もう一つは――瀬戸に生きてもらうこと」
「……え?」
弱々しい声が出る揚羽。一方で、出雲の表情は確固たる意志を感じさせた。
浅瀬で漂っている自分が今にも沈みそうな人を見つけた。そんな状況ならやることは決まっている。手を伸ばして救うことだ。
「俺は今生きる理由を見つけた。お前が死んだら俺が悲しむ」
「なにを言っているのですか……漫画の読み過ぎでは?」
「そう思ってもらって構わない。でも、俺はお前に生きて欲しいって思い続ける。これ以上、誰かがいなくなって欲しくない」
怪訝な表情をする揚羽に、出雲は冷静に返す。出雲は至って冷静だった。
「俺は最初、瀬戸がオーシャン専門管理局に来ることに反対だった。瀬戸の存在で可夢偉さんの居場所を上書きされると思った。でも、そうじゃないって気がついた。椅子が新しく増えるだけだって。……マリンが俺を救ったように、俺も誰かを救いたい」
揚羽がオーシャン専門管理局から飛び出したとき、出雲は梨羅たちに連絡をして自分が連れ戻すと伝えた。可夢偉がいなくなってしまったときと同じ未来を辿りたくない。必死に探し続けて、ようやく見つけることができた。
「頼む……死ぬな」
出雲は揚羽を真っ直ぐ見つめる。
その言葉は公安ではない、瀬戸揚羽という一人の人間へ向けた言葉だった。
「……あまりにも簡単な言葉ですね」
「屁理屈捏ねるより伝わると思ったからな」
たった一言のシンプルな言葉。
「……そんな言葉、人生で一度も言われたことはありません」
雨に混じって、揚羽の双眸から雫が流れ落ちる。揚羽の意思に反して、また一雫が流れた。
「だろうな。お前は、ずっと一人で戦ってきたんだろ」
今の今まで、信頼できる人間や心を許した相手、頼れる誰かはいなかった。家族も、友人も。唯一の希望だった兄ももういない。どんな苦難も一人で乗り越えてきた。乗り越えてきたつもりだった。
「よく頑張ったな」
揚羽の目の前にしゃがみ、出雲は不器用に笑ってみせた。
「今くらいは我慢しなくていいからな」
出雲の言葉にきっかけに、揚羽の中に堰き止めていたものがなくなり、涙となって溢れてきた。どれだけ拭っても涙は止まらず、顔を覆って静かにしゃくり上げた。
ドラマチックに抱きしめてもらう必要なんてなかった。無造作に頭の上に置かれた手の暖かさが、揚羽には十分すぎるものだった。
「美味い酒と……おすすめのコンビニ弁当くらいなら教えられるからな」
「……先輩、いいこと言ったのに台無しですよ」
「悪かったな」
ふふ、と揚羽の口の端から笑みがこぼれる。出雲なりに慰めてくれたのだとすぐに理解した。
「お前は真面目すぎんだよ。ちょっと不真面目なくらいがいいんだよ」
「具体的にはどうすればいいのですか」
「その質問が真面目だな」
「……すみません。元からこういう性格なので」
出雲は揚羽をじっと見つめる。突然のことに慌てて涙を拭う揚羽。
「な、なんですか……」
「お前、反抗期あった?」
「反抗期ですか? ……いえ、そういったものはなかったつもりです」
「それだよ」
「え?」
「遅い反抗期でもやってみろよ」
揚羽の口から出たのは「はぁ」という気の抜けた声。
既に揚羽の涙は止まっていた。
オーシャン専門管理局に戻ると、梨羅たちが二人を迎えた。梨羅とマリンは泣きながら揚羽を抱きしめた。祢音も梨羅たちほどではなかったものの、安心が表情に表れていた。
こうして自分のために泣いてくれる人がいるのだと、揚羽は梨羅とマリンに挟まれながら優しさを噛み締めていた。
「……一つ、先輩方にお付き合いしていただきたいことがあります」
揚羽は鞄からUSBメモリを取り出す。
「今までは業務日記という名の調査報告書を作成していました。初日から今日までのオーシャン専門管理局の情報は公安に渡っています。オーシャンやマリンさんに関する知り得た話も、ほぼ全て上は知っています」
伝えられた事実に、出雲たちの間に緊張が走る。そんな中、「ですが」と揚羽は一人眉を下げて笑っていた。
「今後はそれとなくぼかせばいいでしょう。そもそも、オーシャンに入れること自体が不思議な話ですし。他にもマリンさんやアビスが異世界から来ていることや、スキルという超能力のような力が使える……なんて漫画みたいな設定の詰め合わせ。どうやら俄かに信じていないようなので」
「まぁ……普通は信じないよね」
祢音に続いて出雲たちも同意するように頷く。マリンも「やっぱりそうだよね!」とどこか自慢げに答えていた。
「この中にあるのは報告済みのデータなので、破壊してもなんの意味もありません。ですが、過去の私と決別する儀式だと思ってお付き合いください」
テーブルにUSBメモリを置き、揚羽は小さな刀を具現化させる。
逆手に持ち替えて深々と突き刺し、USBメモリは真っ二つに割れた。
「公安を抜けることは現状考えていません。なので立場は変わりませんが、ここでは『オーシャン専門管理局の瀬戸揚羽』として生きるつもりです。これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ、改めてよろしくな」
深々と頭を下げる揚羽に、出雲たちは笑みで応えた。
* * *
翌日。
揚羽は晴れやかな気持ちで朝を迎えた。空も昨日の雨が嘘のように晴れ渡っていて、カーテンの向こうの日差しもいつもより少しだけ明るく感じた。
今日も自分はアビスではない、人生という強大な敵と戦い続ける。
だったら、必死に藻掻いて足掻いてやろうじゃないか。
(私には、信頼できる人たちがいますから)
揚羽はいつも着ていたスーツに手をかけたところで、横にかけていたカジュアルなカーディガンが目についた。
――ちょっと不真面目なくらいがいいんだよ。
昨日の出雲の言葉を思い出した。
(……少しずつ、不真面目になってみますね)
カーディガンとシンプルなTシャツとパンツに着替え、揚羽は家を出た。




