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「藤波先輩……?」
出雲は肩で息をしながら、指先から糸を伸ばしていた。揚羽の具現化した刀を絡め取り、揚羽の手から奪い取った。
「瀬戸、お前なにして――」
雨と混じって揚羽の腕から流れる血を見て、出雲は目を見開く。
「なにしに来たのですか」
酷く冷静な揚羽は、憎悪にも似た瞳を出雲に向ける。冷たい視線に出雲は思わず一歩退く。
「なにって……お前が勝手にいなくなるからだろ」
「放っておいてください。私はあなたたちにとっての裏切り者なのですから」
揚羽は苦虫を噛み潰したような表情をしていた。
再び刀を具現化して首に当てるも、出雲が急いで糸で奪い去る。
「やめてください。私は今から死にます」
「お前は死なせない」
揚羽は歪んだ顔から一転して、「あぁ」と乾いた笑みをこぼす。
「これから尋問でもするつもりですか? いいですよ、いくらでも聞いてください。近いうちに組織に捨てられる人間で良ければ、なんでもお答えします」
「そんなことはしない」
「それではなんですか? 正体が知られて絶望している私を嘲笑いに来たのですか? 必死にやっていたことは全部無駄だったと、憐れみや軽蔑の目を向けるつもりですか?」
「違う」
自棄にも近い揚羽の返答に、出雲はハッキリと答えた。
「……確かに、俺たちは瀬戸が公安の人間だっていうのも、オーシャンを調査してるのも最初から知ってた。でも、俺たちはお前を敵だと思えなかった」
「なぜですか? 私はあなたたちを探ろうとしたのですよ?」
「もちろん知られたくない気持ちは全員にあった。でも、マリンからあることを教えてもらった」
出雲の眼鏡の奥の真っ直ぐな瞳が揚羽に向いた。
「瀬戸も、死のうとしたところをマリンに助けられたんだろ」
瀬戸も。それはつまり。
「俺たちは全員、自殺しようとしたところをマリンに救われた」
「え……」
「同じ状況にあった奴を、俺たちは突き放すなんてできなかった」
出雲の告白に揚羽は唖然とする。暫しの沈黙のあと、「そうですか」と視線を落とす。
「同情、ですか」
「違う……とも言い切れないけど。少なくとも俺たちは仲間として受け入れようって決めてた」
「甘いですね。甘すぎですよ」
揚羽は可笑しそうに、不自然に口角を吊り上げて笑う。
「祢音と梨羅から話も聞いてる。アビス退治で瀬戸に助けられたって」
「それは『オーシャン専門管理局に来た新人の瀬戸揚羽』がやったことです。私ではありません」
「お前がやったことだろ」
「いいえ、違います。信用してもらうための手段の一つに過ぎません」
揚羽は今にも消えてしまいそうなほど儚く、虚ろな目をしていた。
「まだやり直せる。だから終わりなんて言うな」
「甘いですよ。私が生きているのはやり直しなんてできない。失敗したらその時点で全てが終わる世界なんです」
揚羽は諦めたような作り笑いを浮かべる。雫が揚羽の髪を伝い、地面に落ちていく。
「そうだ、来世は猫でもいいですね。先輩、猫って凄いですよね。道を歩いているだけで可愛がってもらえるのですから」
揚羽の目の奥は一切笑っていなかった。底知れぬ闇の深さに出雲は唇を噛んだ。
「……聞いてもいいか?」
「はい。なんでもどうぞ」
「なんで死のうとしたんだ」
「これ以上公安についてを知られないためです」
「公安のことは聞いてない。お前のことを聞いてる」
「そんなことを聞いてどうするのですか……いえ、どうせ死にますし。私の人生で勿体ぶる内容はないのでお話ししますね」
揚羽は自分の腕に視線を落とした。雨と混ざり合った血が揚羽の周りに広がっていた。
「今の自分では、どう足掻いても幸せになるのは不可能だと気がついたからです。来世なら、自由に楽しく生きられるのではと思ったからです」
揚羽は静かに続けた。
「以前、私は真面目だけが取り柄だと言いましたよね。あれ、私が学生時代に言われていた言葉です。融通が効かない。冗談が通じない。勉強しかできない。真面目だけが取り柄の優等生だと」
揚羽の脳裏に、学生時代の光景が思い浮かぶ。
遠巻きにひそひそと話すクラスメイトたち。見向きもせず教室を出て、図書室へと向かった。
「私は陰口程度で凹むような人間ではなかったので、落ち込む暇があったら勉強をしていました。その態度が拍車をかけていることも薄々気がついていましたけどね」
陰口という陰湿な行為は、揚羽にとってはどうでも良かった。生徒会長になったときも周りからの反応は変わらなかったが、所詮陰口を叩くことしかできないのだと。当時の揚羽は気にも留めていなかった。
「そんな私には、少し歳の離れた兄がいました。兄は私ほど勉強が得意ではなく、両親から落ちこぼれと言われていました。ですが、兄には人望がありました。兄の周りにはいつも誰かがいて、話題の中心になる人間でした。学歴主義の両親は兄に見向きもしていませんでしたが、私は兄を心から尊敬していました」
揚羽は兄を反面教師にして勉強に没頭したわけではない。他のことに比べて勉強が向いていると思って今までやってきていた。
むしろ兄ほどの人望がないから、時折兄を羨ましいとさえ思っていた。
「ある日、兄が私に電話をかけてきました。以前から兄は私が勉強ばかりだったのを心配していたのか、よく誰かと遊んできたことを嬉々として報告してくれました。私はそのとき、いつもと同じだろうと、勉強の片手間に聞いていました」
勉強中だった揚羽はイヤホンを片耳だけつけて、通話の音量を最小にしたスマホを机の端に置いていた。
「通話の最後に兄は、『こんなお兄ちゃんでごめんな』と言ってきました。気の利いた返しができなかった私は、もう少し勉強してくれたら嬉しい、と返したような気がします」
通話が終わると、揚羽はすぐにスマホを鞄にしまって課題に集中した。
当時を思い返していた揚羽は言葉を詰まらせ、再び口を開く。
「翌日、兄は亡くなりました。病院に運ばれましたが手遅れでした」
病院に駆けつけた揚羽は霊安室で兄と再会し、崩れ落ちた。
そのとき、揚羽は心にぽっかりと穴が空いたような感覚に襲われた。怒りも悲しみも全て抜け落ち、頭は思考することを拒否していた。
「私は兄が自殺するなんて微塵も思っていませんでした。兄はなにも遺さなかったので、なにを思って自殺したのか、私たちに知る術はありません。あのとき私が違う言葉を返していれば、兄が死ぬことはなかったのかもしれません」
腕をさする揚羽。既に血は止まっていて、代わりに雨粒が揚羽の腕を濡らした。出雲の視線も揚羽の腕に移る。
「それは……いつからしてたんだ?」
「リストカット自体は学生時代からしていました。指を紙で切ってしまったのが始まりです。私も気づかぬうちにストレスが溜まっていたのでしょうね。指から流れる血を見て、自分のストレスも一緒に流れ落ちた気がしました」
赤々とした血が流れる様子を、揚羽はリストカットをするたびに黙って見つめていた。
不安を取り除こうとするたびに傷は増え、次第に消えない痣になっていった。
「気持ちを落ち着かせるための、私なりのストレス解消法です。もちろん痛みは感じますが、なにより安心して冷静になれるんです。他人を傷つけると傷害罪ですが、自分を傷つけたときの罪状はありません。ですから、なにも問題ないでしょう?」
弱々しく問いかける揚羽に、出雲はなにも答えられなかった。
「公安に入ってからはオーシャンの調査を任され、犯罪が横行していないか、テロが計画されていないかを調べていました。しかし、オーシャンはあまりにも平和でした。それなら、こんな平和なオーシャンを管理しているのは一体何者なのか。私はオーシャンの管理者を調べることにしました」
揚羽は日夜パソコンに向き合っていた。だが、管理者の情報は一向に掴めなかった。管理者が本当に存在するのかさえ疑うほどだった。
「そこからは先輩もご存知の通りです。生より死が勝り、限界を超えて死の淵にいた私をマリンさんは救ってくれました。マリンさんにオーシャン専門管理局の存在を教えてもらい、またとないチャンスを得たと確信しました」
息を吐き、無理矢理と言った風に笑みを浮かべる。
「私は本当に真面目なんでしょうね。上からの期待を裏切ることができないし、途中で投げ出すこともできない。もし公安を抜けてしまったら、私は何者なのか分からなくなるでしょう。敷かれたレールの上を歩くことしかできない人間は、逃げ道がないんです」
はぁ、と揚羽の口からわざとらしい声が漏れ出る。
「生きていればいいことはある。無責任な言葉ですよね。明確にいいことがあると保証されたわけではないのに、こんな世界のどこに希望があるのでしょうか」
俯く揚羽の表情は憔悴しきっていた。
次第に強くなっていく雨が二人に打ちつけた。




