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雨が全身を冷たく濡らしていく。髪の毛から雫が垂れ、顔に落ちてメイクが崩れていく。スーツが濡れて重みを増していく。パンプスから跳ねた水飛沫が足を濡らしていく。
傘もささずに揚羽は走っていた。時折人とぶつかりかけて、間を縫うように避けていく。
(なんで、なんでなんで、なんでですか!)
揚羽の脳裏に出雲の姿が浮かぶ。視線を合わせず、苦しげに目を伏せたままの出雲。
(皆さんは、いつから気がついていたのですか……!?)
頭は整理されないまま、とにかく逃げるように、揚羽は闇雲に走り続けていた。
気がついたときには、オーシャン専門管理局があるような雑居ビルの前で立ち止まっていた。
吸い込まれるように中へ入り、ふらふらと階段を昇っていく。テナントはなにも入っておらず、人の気配は一切なかった。
屋上に辿り着くと再び揚羽に雨が突き刺さった。フェンスを頼りにして、濡れることを気にせず揚羽は力なく座り込む。
スーツの袖を捲ると、手首から肘にかけていくつも横に並んだ線があった。痣のように残った線と、上に治りかけた線が交錯していた。先日のアビス退治で、我に返るためにと傷つけたのもその一部だった。
傷をさすっていた揚羽は、次第に爪を立てて掻き始めた。静かにゆっくりと、段々と爪が食い込むほど強く、必死に、何度も掻き毟った。掻くたびにむず痒くなり、不安を消すようにさらに掻き毟った。次第に傷と交差するように赤い痕ができて、治りかけた傷が開いた。
いつものように安心したい。この不安な気持ちをなくしたい。
そのとき、揚羽はあることを思い立った。
「……あぁ、こっちでも使えるんですね」
揚羽の手元に現れたのは刀。マリンから授かった、刀を具現化するスキルによって作られたものだった。
(なぜ、現実世界でスキルが使えると気がつかなかったのでしょう)
スキルはアビスを倒すためにしか使っていなかったから当然だと、揚羽は自問自答した。
続いて剃刀程度の小さな刀を具現化し、手首に当てる。ぐっと力を込めると肌がぷつりと切れ、手首の上に小さな赤い真珠が現れた。真珠は垂れてじわりと肌に滲んでいく。
揚羽の感情は落ち着かなかった。もう一度切っても、不安はなくならなかった。
反対の腕ならどうだろう。袖を捲り、同じように刀を手首に当てる。
一本、また一本。生々しい赤い線が揚羽の腕に増えていった。雨が当たり、絵の具を溶かすように腕を赤色に染めていく。
――君は生きたい?
赤く染まった腕を見て思い出すのは、自分に問いかけるマリンの言葉と、自身の最期。
揚羽は血溜まりに横たわり、朧げな意識の中でマリンを見上げていた。
マリンが歌っているのだろう。優しい歌声はぼんやりとしていた揚羽の耳にもしっかりと届いていた。
――これは、夢でしょうか……。
――夢じゃないよ。
マリンは揚羽の横に座り込み、優しく揚羽を撫でた。
――ねぇ、オーシャンで生きてみない?
――オーシャン、ですか……。
――仮想空間の名前。知ってるよね?
マリンの問いかけに揚羽は頷く。
もちろん知っている。自分は今、その調査をしているのだから。
――オーシャンで一緒に新しい人生を歩んでみない?
――新しい、人生……?
自分は公安の人間であり、今はオーシャンの調査をしている。それを途中で投げ捨てるわけにはいかない。
――これはあなた個人に聞いてるの。
心を悟ったかのように、マリンは揚羽に微笑みかける。
個人に。公安ではない、瀬戸揚羽に。
――もう一回聞くね。一緒に新しい人生を歩んでみない?
マリンの笑顔には慈愛の感情が込められていた。
(もし、それが叶うのなら……)
揚羽は半分意識がない状態で、目の前に差し出された手を取った。
次に目が覚めたときには、揚羽は自室で横になっていた。体も床も汚れていない。急いで袖を捲ると、過去につけた傷のみ。
(夢、だったのでしょうか……)
起き上がると、オーシャンの個人チャットにメッセージが届いていた。
【マリン:オーシャン専門管理局ってところで働かない?】
待ち合わせ場所だよ、とチャット欄に日時が表示される。朝十時、ターミナル駅から離れたファミレス前。
聞いたことのない団体名だが、名前からしてオーシャンの管理業務をしているのだろう。オーシャンを調査している自分にはちょうどいい。
オーシャンについての新しい情報が手に入るかもしれない。揚羽は向かう旨を返信し、当日を迎えた。
(連絡をくれたのも、恐らく匿名ではない本物のマリンさんだったのでしょう)
オーシャンは匿名でのチャットも可能で、匿名の際はマリンが代わりのアイコンとなって表示される。見方によっては、マリンとやり取りをしているようにも思える。
(……最初から、既に知られていたのでしょうね)
マリンに救われた時点で、マリンには公安の人間だと知られていたのだろう。そしてその事実は出雲たちにも伝えられていた。そんな中でただ一人、自分だけがなにも知らずに過ごしていたのだ。『オーシャン専門管理局に来た新人の瀬戸揚羽』を演じていたと、知った上で接していたのだ。
あまりにも愚かだと、揚羽は自分自身に絶望した。
素性を知られてしまった今、オーシャン専門管理局には戻れない。公安にも戻れない。中途半端にのこのこと戻ってきたなんて報告したらどうなるか分からない。自分がいるのはそういう組織なのだから。
放心状態で雨空を見上げる揚羽。打ちつける雨が揚羽の頬を流れ落ちた。
(……そうだ、終わりにしよう)
死んだことにすれば、なにもかも終わらせられる。上には死亡扱いとして取り合ってもらおう。オーシャン専門管理局の面々も、情報を流した裏切り者に興味なんてないだろう。
なにより、この世界に未練などない。死んだところで悲しんでくれる人間もいない。
揚羽はいつも具現化している刀より一回り小さい刀を具現化させ、刃をゆっくりと脈打つ首に当てた。命を引き裂く瞬間を思い描き、静かに目を閉じる。
来世の自分は公安でもなんでもない、平和な一人の人間として生きられることを願って。
覚悟を決めた揚羽の手は震えていなかった。
刀を握り直し、ぐっと力を込める。
「……?」
刃は動かなかった。どれだけ力を込めても刀は先に進まなかった。しかも、揚羽の望む方向とは別の方向へ引っ張られている。
「……間に合った」
目を開けると、刀が引っ張られている方向に出雲が立っていた。




