4.死人に口なし
ある日の休日。揚羽は一人で水族館に訪れていた。
オーシャンに現れる怪物――アビスは、現実世界での海の生き物の姿をしている。生態を知ればアビス退治がさらに捗るのではという、揚羽なりの勉強の一環だった。
わざわざ足を運んだのも、
【オーシャンコラボ、実施中!】
オーシャンとコラボした内容になっていたからだ。現実と仮想空間がコラボした内容というのはなかなかに興味深い。パンフレットを手に取り、館内へと進む。
『みなさん、こんにちはー! 特別ガイドのマリンでーす! 今日はみんなで一緒に海の生き物たちを観察していこうねー!』
しかもコラボ期間中は、マリンがガイドツアーを開催しているらしい。録音はいつしたのだろうと裏事情が気になってしまうが、今回は気にしないことにした。
館内に入ると、まず様々なテーマごとに並ぶ水槽エリアが揚羽を迎えた。色鮮やかな魚たちがLEDライトに照らされて悠々と泳いでいた。
『まるで水中のお花畑みたいだね! この水槽には、南国に住む色とりどりのお魚さんたちがたくさん泳いでるんだよ!』
マリンの爛漫なガイドを聞きながら、水槽を眺めていく。ここでも揚羽は水質検査や餌やりなど裏側が気になってしまっていた。そういった水族館のツアーも組まれているかもしれないと思いながら、順路に沿って進んでいく。
『じゃじゃーん! こちらは水中を飛ぶように泳ぐエイさんだよ! 可愛い顔をしてるけど、尻尾には毒針があるから気をつけてね!』
何匹ものエイが泳ぐトンネル水槽を通りながら、梨羅とエイの姿をしたアビスを倒したときのことが頭に浮かぶ。大きさも外見もアビスのようなおどろおどろしいものではなく、この世の悪を知らないと言わんばかりの愛らしい顔をしていた。
『クラゲさんたちがふわふわ泳いでて、まるでシャボン玉みたいだね! クラゲさんにも毒があるから、海で見つけたら触らないようにしようね!』
水槽でゆらゆらと漂う姿を見ながら、祢音とともにウェーブ・サバイバーのフィールドでアビスを倒したことも思い出した。オーシャン専門管理局での出来事がちらついてしまうのは、やはりアビスが海の生き物の姿をしているせいか。
『おっきなサメさんが泳いでるのは見えるかな? 実はサメさんの仲間は三百種類以上いるんだよ!』
『ペンギンさんだ! 鳥の仲間だけど、ペンギンさんは空は飛べないんだ。でも、水の中では時速三十キロで泳げるんだよ!』
マリンのガイドを聞いて回っているうちに、勉強と銘打って来ていた揚羽は時間を忘れて楽しんでいた。展示されていた海洋生物の研究資料も隅々まで読み込み、使う予定のないであろう学名まで覚えた。各所に置かれていたスタンプラリーも子供の列に並んで押していった。
(アビスは骨格から違うようですね……アビスの標本があれば喜ぶ研究者も一人くらいはいそうですね)
家族連れやカップルが穏やかな時間を過ごしている横で揚羽は一人、食い入るように水槽を眺めていた。
『さぁ、みなさんお待ちかね! 名物の大水槽にやってきましたー!』
展示も終盤に差し掛かった頃、水族館のメインである大水槽に辿り着いた。
十メートルを超える水槽は圧巻で、多くの人々が大水槽の前で足を止めていた。揚羽も例外ではなく、水槽を見上げて小さく感嘆の声を上げた。
『この大きな水槽の中には、なんと何千匹ものお魚さんたちが暮らしてるんだよ!』
近くにはいくつかソファが置かれていて、まるでここで休めと言わんばかりのスペースがあった。歩き疲れた揚羽は空いていた一つに腰掛ける。
水槽を優雅に泳ぐ魚たちをぼんやりと眺める。隊列をなす群れと、群れを横断する大きな魚。岩陰の近くしか泳いでいない魚や、水槽の端でじっとしている魚。一匹一匹じっくりと見ているだけで、あっという間に時間が過ぎていく。
『この水槽を見てると、まるで本物の海にいるみたいだよね!』
マリンの言う通りだ。今自分は海底にいて、海面を見上げているのではと思えるような空間だ。
(水は心を落ち着かせると言いますが、まさにこれですね……)
柔らかいソファの感覚も合わさり、このまま眠りについてしまいたいとさえ思った。
(もう少し、このままでいさせてください)
誰に投げかけるわけでもなく、揚羽は心の中で呟いた。
陸上では存在しない世界を目の前にして、揚羽はしばらくの間ソファに座っていた。
(こんな時間になってしまいましたか……)
揚羽が腕時計型の端末に目を落とすと、夕刻をとっくに過ぎていた。水族館を出ると周りの景色も夜を迎える準備をしていた。
水族館を回り終える頃には、揚羽は子供の頃に戻った気分になっていた。子供の頃はこんなところに来た記憶はないから、今日ようやく水族館の楽しさを知ることができた。
満足したから帰ろうとしたそのとき、揚羽の胃袋がきゅう、と小さく音を立てた。
普段大して食事を摂らなくても問題ないはずなのに、なぜ胃は食べ物を求めたのか。
(これって、藤波先輩と同じじゃないですか……!?)
揚羽の頭に出雲の顔が思い浮かんだ。出雲は水族館の魚を美味しそうだと言っていたのを思い出す。
あのときは信じられないと非難したのに、これでは今後出雲を批判できなくなってしまう。
いや、これは偶然、たまたまだ。
しかし、揚羽の意思に反して胃袋がもう一度音を立てる。
(……たまには、きちんと食事を摂るのも大事ですからね)
途中に売られていたコラボフードでも食べておけば良かったかと、今になって後悔した。
スマホで近くの飲食店を検索し、揚羽は一人静かに歩き出した。




