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「入江先生。明日の行事の準備、まだ終わらないんですか?」

「……すみません、もう少しで終わります」


 保育士の仕事は想像以上に激務だった。朝は早くて残業は当たり前。家に帰っても、持ち帰った作業の続きや日誌を書く日々。

 そして私のなにかが気に入らなかったのかもしれない。副園長先生や他の先生との関係も決していいものではなかった。仕事に追われる毎日で、私の疲労は確実に溜まっていった。

 でも、日に日に大人になっていく子供たちを間近で見られるのは嬉しかった。大人になっていく手助けができているのだと思うと、それだけで私は満たされた気持ちでいっぱいだった。


「梨羅、最近ちゃんと寝てる?」


 彼に声をかけられるまで、私はソファに座ってぼうっとしていた。


「あ、ごめんね……ちゃんと寝られてはいない、かな……」


 せっかくの休みを彼の家でゆっくりしているというのに、疲労と睡魔が私に襲いかかっていた。昨日も遅くまで持ち帰り作業をしていたから。

 彼には仕事が忙しいと言う程度で、仕事のことや悩みはあまり伝えなかった。私の個人的なことで彼を心配させたくなかった。


「梨羅、意外と甘え下手なんだから」

「えっと、ごめんね……」

「怒ってるんじゃないよ。俺と違ってしっかり者ってこと」


 彼は私の隣に座り、優しく微笑みかける。


「俺にできることがあったらなんでも言って」


 私はそっと抱きしめられる。爽やかな香水の匂いがふわりと私に届いた。

 彼と一緒にいると安心できる。彼と過ごす時間が私を癒してくれた。

 そう思っていた。


「ただいまー」


 その日も遅くまで残業だった。休憩もほとんどなくて、彼と連絡を取る暇もなかった。帰りの電車でうっかり寝てしまったせいで、連絡できたのは彼の家に着く直前だった。

 彼はどんなときも私を家に迎え入れてくれていた。私も自分の家に帰ればいいものの、仕事終わりに彼に会って癒してもらうことがなによりの楽しみだった。


(たまには甘えてみようかな……)


 彼から受け取っていた合鍵を使い、鍵を開ける。


「ただいまー」


 一緒に暮らしているわけではないのに、すっかり習慣になった言葉を口にしてドアを開ける。


「あれ、いないのー?」


 靴があるから家にはいる。電気も点いている。


(もしかして寝てるのかな?)


 寝室に向かうと、


「――え、」


 半裸の彼がベッドに寝てスマホをいじっていた。

 そんな彼の横には――下着姿の知らない女の人がいた。


「あ…………おかえり……」


 彼の顔が段々と青ざめていく。一緒にいた女の人も私に気がつき、急いで身なりを整え始めた。


「あの――」


 私が尋ねるより早く、女の人は逃げるように家から出ていった。

 部屋には女の人の――物凄く甘い香水の匂いが広がっていた。


「…………いつから?」


 しどろもどろになっている彼に、私は自分でもびっくりするくらい低い声で尋ねる。

 怒りや失望はとうに通り過ぎていて、絶望感と喪失感が私の胸を支配していた。


「梨羅が、その……大学卒業して、ちょっと経った頃から、です……」

「私の、なにが駄目だった……?」

「違う、全然、駄目とかじゃなくて……」


 彼は必死に言葉を紡ぐ。私は立ち尽くしたまま、彼の言葉を待っていた。


「えっと、俺もそろそろ大学卒業するし、自立しなきゃと思ったんだよね……あの子なら、お互いを高められると思って……」

「……私じゃ駄目なの?」

「…………ごめん」


 彼はベッドから降りて、床に頭を擦りつけた。


「俺と、別れてください」


 そのあとのことはよく覚えてない。自分の家に帰れたのは奇跡だったのかもしれない。

 家に着いたら鞄を投げ捨てて、部屋の電気も点けないまま、キッチン棚に置いていた料理酒を浴びるように飲んだ。お酒なんてほとんど飲めないのに、泣きながらアルコールを胃に流し続けた。


「朝、か……」


 目が覚めたら朝になっていた。部屋に射し込む光で私はゆっくりと目を開けた。体を起こすとグラグラと視界が揺れて、思わず壁にもたれかかった。頭が痛い。吐きそう。

 でも、私には仕事がある。子供たちが私を待っている。

 動かない体に鞭を打って、なんとか連絡を取った。


「入江先生。今日どうしたの?」


 午後から仕事に向かうと、副園長先生が覚束ない足取りの私を迎えた。


「えっと……昨日、少し飲みすぎちゃって……」

「もう学生じゃないんだから。そういう飲み方はやめてちょうだい」


 すみません、と頭を下げる。下を向くと、吐いたはずなのに吐き気が強くなった。

 本当のことなんて言えるはずがない。言っても知らん顔をされるに決まってる。


「あの子、さっさと辞めてくれないかしら」


 二日酔いでも、その陰口は私にハッキリと届いた。

 ここに私の居場所はない。私はそのとき思い知った。


『ごめん、しばらく本社で研修しなきゃいけなくて!』

『うちのとこ行事多すぎてさー。落ち着いたら連絡するね』


 私は居場所を求めて――今までの出来事を隠しながら、短大時代の友人たちに連絡を取った。

 相談すると、全員が口を揃えて、


『『彼氏に相談してみたら?』』


 と答えた。

 違う。もう私の隣に彼はいない。


「…………疲れた」


 なんとか仕事を終わらせて、無事に家に着いた。

 玄関のドアを閉めた瞬間に私は崩れ落ちた。止めようとしても涙は勝手に流れて、メイクがどんどん崩れていった。

 なんで泣いてるんだろう。どれのことで悲しいんだろう。既に感情がぐちゃぐちゃになっていて、私はもうなにを考えているのかさえか分からなかった。

 きっとこの言葉を口にしたら終わりかもしれない。でも、これを言わなきゃ私の体が耐えられない。


「死にたい……」


 そして、また朝になった。


「……よく寝たなぁ」


 太陽の光が眩しくて私は目を覚ました。昨日と同じように廊下に寝ていたけど、昨日の私とはどこか違う気がした。もしかして、太陽の光をたくさん浴びたからかな。

 急いで準備しなきゃ。今日も仕事だ。不思議と体は動いているから、やっぱり睡眠は大事なんだと実感した。

 リビングに向かったところで、テーブルの端に置いていた睡眠薬の瓶が目に入った。そういえば、少し前に眠れなくてときどき飲んでいたんだった。


(……あれ?)


 気がついたときには薬を全部手に出していた。その行動を起こした理由は不明だった。思考するより衝動が勝ったのかもしれない。手に出した薬を一気に飲み込んだ。

 確か薬箱に頭痛薬とピルと解熱剤もあった気がする。かき集めて全部胃の中に流し込んだ。

 体がふわふわして、次に視界がパチパチと弾けて、その次に頭がくらくらして、私はリビングに倒れ込んだ。

 あぁ、私、このままゆっくり寝られるかも。

 最後に見たのは、誰かからのスマホの着信だった。


「君は生きたい?」


 歌が、聴こえた。優しくて暖かくて、私を包み込んでくれるような歌声。

 目を開けると、人魚の姿をした女の子が私に微笑みかけていた。

 私は目線を女の子に向ける。体は――どうしてだろう、上手く動かせない。

 もしかして、天使が迎えに来てくれたのかな。でも、私なんかに天使が来てくれるのかな。


「一緒に新しい人生を歩んでみない?」


 一緒に。その言葉だけで私は十分だった。そうだ、今度は少し甘えてみようかな。

 次は居場所がきっとあると信じて、私は小さく頷いた。

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