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「瀬戸揚羽さん?」
時間にして十五分ほど経った頃。揚羽の目の前で男性が立ち止まった。名前を呼ばれたことで揚羽は顔を上げる。
目視で一八〇センチほど、年齢は恐らく二十代前半から半ば。やや三白眼寄りの鋭い瞳に眼鏡、カジュアルなジャケットを羽織った姿は、雑誌の一面にいてもおかしくない。
ただ、覇気がなかった。アンニュイと言えば聞こえはいいが、とにかく怠そう。やる気がなさそう。面倒くさそう。初対面の人間は見た目と第一印象でほぼ決まる、と誰かが言っていたのは正しいのかもしれない。
きっと上司に当たる人物だろう。こんな上司の下で働くのかと、ややマイナスな印象を抱きながら揚羽は男性を見上げる。
「瀬戸揚羽と申します。本日からどうぞよろしくお願いいたします」
「あぁ、そういう堅苦しいのいいから」
三十度の綺麗な角度で頭を下げる揚羽を男性は軽く受け流す。――怠そうな表情で。
「じゃあ、案内するからついてきて」
駅とは反対方向へ歩き出す男性の背中を、揚羽はその場でわなわなと震えながら見送る。
(なんなんですか、あの態度!)
初対面の人間に対してあまりにもいい加減すぎやしないか。今日から上司と部下になるのに、信頼を積み重ねようとする素振りを一切見せない。あの男に愛想なんて単語は存在しなさそうだ。
「どうかした?」
「……いえ、なんでもありません」
深呼吸をして気持ちを鎮め、揚羽は男性を追いかける。ファミレスの横を曲がって日の当たらない道に入る。
「すみません……その、お名前を伺ってもよろしいですか?」
「俺? 藤波出雲」
揚羽と出雲の視線は合わなかった。頭一つ分ある身長差のせいではなく、出雲が揚羽をちらりとも見なかったせいで。
最近のAIの方が会話は上手いかもしれないと揚羽は思った。「藤波先輩ですね。よろしくお願いします」と続けた揚羽に、「よろしく」としか返さなかったことで確信を得た。
辛うじて歩行速度が合っていたおかげで、揚羽はそれ以上怒りを募らせることはなかった。
「オーシャン専門管理局は、どのようなお仕事をされているのですか?」
目的地に到着する少し前、揚羽は出雲に尋ねた。
揚羽が問いかけたのも、今まで一切会話がなく、気まずい空気をどうにかしたかったからだった。
「……マリンからなんも聞いてないの?」
立ち止まる出雲。揚羽を見下ろす鋭い瞳は少し驚きが含まれているようだった。揚羽はつられて立ち止まる。
「はい。私はなにも……」
「……もう着くから。そしたら説明する」
説明するわけでもなく、出雲は再び歩き出す。
マリンとは何者なのか。揚羽は顔に出さず、一人考えを巡らせる。オーシャン専門管理局の直属の上司か、それより上のお偉方だろうか。
考えているうちに、出雲は雑居ビルの目の前で立ち止まった。
「ここの屋上。悪いけど、エレベーターは壊れてるから階段で」
申し訳ないという感情が全く見えない出雲の言葉。出会って十数分で出雲の人となりをなんとなく理解した揚羽は、なにも言わず出雲についていった。エレベーターにある修理中の張り紙を横目に階段へと向かう。
(恐らくテナントは一つも入っていない……ここで本当に合っているのでしょうか……)
人の気配がないビル内に二人の足音だけが響く。狭い階段を昇りきったところで、二人に向けて暖かな日差しが降り注いだ。
屋上はどこにでもあるような、打ちっぱなしのコンクリートとフェンス。普通の雑居ビルと比べて違うところを挙げるなら、奥にあるプレハブ小屋が異様に整っていることだろうか。リフォームされたプレハブ小屋は隠れ家的な飲食店のような外観で、揚羽は目を瞠る。
「ここは……」
立ち尽くす揚羽を気にしないまま、出雲はプレハブ小屋に向かう。インターホンを鳴らすと、中から可愛らしい女性の声が聞こえた。
「おかえり、出雲くん」
二人を迎えたのは出雲と同年代らしい女性。栗色のロングヘアに、ニットとロングスカートを身に纏っていた。ピンクブラウンのメイクで可愛らしさの中に大人っぽさも兼ね備えた彼女は、休日にカフェ巡りをしていそうな雰囲気だった。
「初めまして。入江梨羅って言います」
梨羅と名乗った女性は揚羽に優しく微笑む。
出雲と同じような人物が出てきたらどうしようかと思っていた揚羽は内心安堵する。
「瀬戸揚羽と申します。これからよろしくお願いいたします」
「そ、そんなに畏まらないで!」
再び三十度のお辞儀をする揚羽に、梨羅は慌てて返す。
「いえ。当たり前のことですから」
「堅苦しくない方が私も安心するから!」
そこまで言われて、揚羽はようやく頭を上げた。
出雲と言っていることは大体同じはずなのに信用度の違いはなんなのかと、揚羽は出雲と梨羅を一瞥する。
「ちょっと狭いけど、入って入って」
「ありがとうございます。失礼します」
中に入ると、テーブルとソファとキッチンが目についた。横には洗面所に向かうであろうドア。一見すると狭いワンルームのようだった。部屋の奥にはゲーミングチェアと大きめのモニターが三台ほど並んでいて、落ち着いた内装でそこだけが明らかに浮いていた。
「祢音くーん。出雲くんたち戻ってきたよー」
梨羅が部屋の奥に呼びかけるが、返事はなかった。
「……寝てる?」
「起きてる」
素っ気ない声はゲーミングチェアから聞こえた。椅子がくるりと回ると、スマホを持った青年が、だらけていると言ってもいい体勢で座っていた。
「こちら、瀬戸揚羽さん」
青年は揚羽をじとりと見つめる。
年齢は揚羽と同じくらい。艶のある黒髪、見て分かるほどの濃い隈、全身が黒で統一された服を着た青年は、いわゆる地雷系と例えるのが適切かもしれない。
「瀬戸揚羽と申します。本日からよろしくお願いいたします」
青年の冷たい視線を受け止め、揚羽は出雲と梨羅に向けたのと同様に頭を下げる。
「……沖田祢音」
「え?」
「名前。沖田祢音」
それだけ言うと祢音はスマホに視線を落とし、再び椅子をくるりと回した。
「ごめんね。ちょっと緊張してるみたい」
「は、はぁ……」
あの態度のどこが緊張しているのだろうかと、揚羽は思わず尋ねそうになった。
もしかすると、沖田祢音という男は出雲と同じくらい厄介かもしれない。この二人と一緒にいる梨羅が不憫でならないと、揚羽は梨羅へ同情の念を抱いた。
「そうだ。マリンちゃんにも挨拶してもらおっか」
座って待ってて、と梨羅は揚羽をソファへ案内する。
「マリンは呼ばなくていいだろ」
「顔合わせは大事だよ」
出雲とやり取りをしながら、梨羅は祢音が座っているゲーミングチェアに近づく。
「祢音くん、ちょっといいかな」
「……」
「ゲーム終わるまで待ってるね」
梨羅が声をかけても、祢音はスマホから顔を上げなかった。明らかに無視をされているが、梨羅は気にせずにスマホを覗いてニコニコとしていた。
「その間に煙草吸ってくるかな」
「駄目。出雲くんの煙草長いんだから」
「祢音のゲームが終わるよりは早い」
「それでも駄目。瀬戸さんがいるでしょ」
ぴしゃりと言い放つ梨羅に、出雲はしぶしぶ同意して近くのスツールに腰掛ける。
どうやら梨羅はこの場にいる誰よりも発言権はあるようだ。揚羽は静かに梨羅の背中に視線を送った。