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「――それじゃあ、残りのお粥とりんごは冷蔵庫に入れておいたから。元気になったら食べてね」
「了解。ありがとな」
食事をとって多少回復したのか、出雲は玄関まで揚羽たちを見送りに来た。
「お大事になさってください」
「瀬戸もわざわざ来てもらって悪いな」
やはり出雲はいつもより柔らかい雰囲気だった。体調はこれほど人の雰囲気を左右するのかと、揚羽は一礼して出雲の部屋を出る。
「先輩もお疲れ様でした」
「こちらこそ、わざわざ来てくれてありがとうね」
気をつけてね、と梨羅は自室のドアに手をかける。
「あ、あの」
「どうしたの?」
梨羅を呼び止めると、不思議そうに首を傾げた。
「お疲れのところ申し訳ないのですが、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
祢音に続き、梨羅のことも知りたい。それに、潮可夢偉についても情報が得られるかもしれない。
「いいよ。そしたら、私の部屋で話そっか」
悩み相談だと思ったのだろう。梨羅は嫌な顔一つせず了承した。
揚羽は梨羅の部屋――一〇三号室に招き入れられる。
部屋に入ると、カフェテーブルに丸椅子、床にはクッションソファ、近くの棚にはアクセサリーや造花が飾られていた。また、棚の上にあるアロマディフューザーからはラベンダーの香りが部屋に広がっていた。白とベージュの落ち着いた色味の部屋で、どこか安心感を覚えるレイアウトだった。
「瀬戸さん、いつもはコーヒーだけど、今は夜だからココアにするね」
「ありがとうございます」
椅子座っていいよ、と言って梨羅はキッチンに向かう。
揚羽が梨羅の背中を追うと、キッチンにはキッチンツールが吊り下げられていて、調味料などもキャニスターに詰め替えられていた。梨羅はいわゆる丁寧な暮らしをしている人物なのだろう。揚羽はジャケットと鞄を置いて椅子に腰掛けた。
「学生時代、カフェでバイトしてたんだ」
お湯が沸くのを待ちながら、梨羅は揚羽に微笑む。
だからいつも慣れた手つきでコーヒーを淹れていたのか。手際の良さを思い出して揚羽は納得した。
花柄の可愛らしいマグカップがテーブルに置かれ、甘い湯気が揚羽の鼻をくすぐった。「いただきます」と揚羽が口にすると、甘みとほのかな苦味がじんわりと広がった。ココアなんて子供のときに飲んだ以来だ。
「それで、どうしたの? 私で良ければなんでも聞くよ」
梨羅は人を安らかな気分にさせるのが上手いらしい。温かいココアと穏やかな空間で、揚羽の心は完全に寛いでいた。
(いえ、寛いでいる場合ではありません……!)
揚羽は意識を半ば無理やり現実に引き戻す。
マグカップを置き、揚羽は表情を引き締めて梨羅に向き直った。
「入江先輩は、どうしてオーシャン専門管理局に来たのですか?」
梨羅の浮かべていた穏やかな笑みが消え去る。
いきなりそんな質問をされるとは思っていなかったのだろう。答えあぐねる雰囲気で、揚羽はココアを一口飲んで梨羅の返答を待った。
「……マリンちゃんに誘われたの」
「マリンさんに、ですか?」
「オーシャンで新しい人生を歩んでみないかって言われてね」
梨羅も祢音と同じだ。
オーシャン専門管理局のメンバーはマリンが選んで集めたのだと確信を得た。
(マリンさんはどのようにしてメンバーを選んだのでしょう)
マリン独自の選考基準があるかもしれない。梨羅に聞いて明確な答えが返ってくるかは分からないから、ここで掘り下げるのはやめておこう。
「瀬戸さんは? なんでオーシャン専門管理局に来たの?」
「私も先輩と同じ理由です。マリンさんに誘われてオーシャン専門管理局に来ました」
揚羽は大袈裟な笑顔で答え、ココアに手をつける。
「……そっか」
と呟いた梨羅はどこか寂しげに答えた。
なぜ寂しそうなのだろう。梨羅は共通点があれば喜びそうなタイプなのに。
それより、次はなにについて質問をしよう。梨羅についてもう少し尋ねてみようか。
「先輩は、オーシャン専門管理局に来る前はなにかお仕事はされていましたか?」
「前は……保育士だったよ。短大を卒業してから少しだけどね」
梨羅の面倒見の良さはそこから来ているのだと、揚羽は大きく相槌を打つ。
子供に囲まれている姿は容易に想像できたし、絵に描いたような保育士は梨羅にピッタリだ。
「私の勝手なイメージですが、先輩は保育士に向いていると思います」
「ありがとう。そう言ってくれて嬉しいな」
「それなら、なぜオーシャン専門管理局に来たのですか?」
「ちょっと休みたいなって思って。やっぱり体力仕事だから疲れちゃったの。でも、子供たちはみんな可愛いし、働いて元気はもらってたよ」
何人もの子供を相手にするのだから、責任感も問われる仕事のはずだ。携わったことはないが、激務だという話はよく耳にする。
「先ほどの新しい人生という言葉に繋がりますが、保育士ではない新しい仕事をしたくて、オーシャン専門管理局を選んだのですか?」
「あー……うん。そういうことにしておくね」
梨羅の歯切れの悪さを揚羽は見逃さなかった。
口ぶりから推測するに、本当の理由は別にあるのだろう。円満退職ではなく、退職を余儀なくされる出来事があったのか。梨羅は穏やかな性格だから、女性社会にありがちな人間関係のトラブルに巻き込まれてしまったのかもしれない。
「私、瀬戸さんの話も聞いてみたいな」
思考していた揚羽は、梨羅の言葉にピクリと眉が動く。
ココアを飲み、申し訳なさそうに笑う。
「申し訳ないのですが、先輩のようにお話しできるような人生は過ごしていません」
「そんなことないよ。あ、瀬戸さんは真面目だし、テストはいつも一位だったとか?」
「そうですね。自分でも成績は良かったと言えます」
やっぱり、と梨羅は笑う。
自分の身の上話をするために来たのではない。今日はこの辺で切り上げて、潮可夢偉についてはまた今度聞くことにしよう。揚羽はココアの最後の一口をぐいっと飲む。
「今日はこのあたりでお邪魔します」
「もう帰っちゃうの? まだゆっくりしていいのに」
「いえ、先輩のお話を聞いて元気を分けていただきました」
ご馳走様でした、と揚羽は鞄とジャケットを手に取り、足早に玄関へと向かう。
「気をつけてね。今度またゆっくり話そうね」
「お気遣いいただきありがとうございます。明日もよろしくお願いします」
家を出て揚羽は帰路に着く。
忘れないうちに、揚羽は梨羅についての情報をパソコンに纏めた。
入江梨羅。沖田祢音と同じようにオーシャンの公式マスコットキャラクター・マリンに誘われ、オーシャン専門管理局に所属。穏やかな性格で、癖のあるオーシャン専門管理局の面々を支えている。前職は保育士。なにかしらのトラブルに巻き込まれて退職を選んだ。
揚羽は振り返り、今頃片付けをしているであろう梨羅の部屋を見る。
彼女――入江梨羅はあまりにも善人だ。人を疑うことを知らないのではと思うくらいに。
揚羽は街灯に照らされた道を一人、静かに歩き始めた。




