1.海の世界
『君は、オーシャンでの生活を楽しんでる?』
街頭広告から呼びかけたのは、オーシャンの公式マスコットキャラクターのマリン。
可愛らしい人魚の姿をしたマリンは、四角い画面の中を本当の海のように自由に動き回っていた。マリンの愛らしい挙動に信号待ちをしている人々、そうでない人々も視線を奪われていた。
マリンはふーっとシャボン玉を吹くように泡を作り出し、浮いている泡の一つを指先でつんとつつく。
すると、割れた泡の中から『今日の運勢』とポップなタイトルロゴが現れた。
『それじゃあ、今日の運勢を発表するね! 一位は魚座のあなた! 今日は思いがけない出会いがあるかも!』
弾けるような笑顔のマリンは、一転して眉を八の字に下げる。
『最下位は牡羊座のあなた……。今日は大きなミスをしちゃうかも……』
つんつんと指先を合わせて俯くマリン。『でも大丈夫!』とすぐに表情をころりと変えて、満面の笑みを見せる。
『ラッキーアイテムはラムネだよ! しゅわっと爽やかに、アンラッキーを吹き飛ばしちゃおう!』
マリンはまるでアイドルがファンサービスをするようにウインクを飛ばす。
『さぁ、君もオーシャンに飛び込もう!』
その言葉――オーシャンのキャッチコピーを最後に画面が切り替わり、アナウンサーが今日のニュースを伝え始める。マリンが画面からいなくなった途端に、人の波が一斉に動き始めた。
(……占いなんて非現実的だし、信憑性の欠片もないじゃないですか)
チェーン店のコーヒーショップでスーツ姿の彼女――瀬戸揚羽は一人、窓側の席に座っていた。焦茶色のボブヘアを丁寧にハーフアップにして黒いスーツを纏った揚羽も、先ほどの街頭広告をガラス越しに見ていた。
占いは所詮娯楽に過ぎないし、バーナム効果も甚だしい。科学的にも証明されていないものに一喜一憂するなんて馬鹿馬鹿しい。揚羽は大きく溜め息をつく。
くだらない。思わず口をついて出そうになった。
「ねぇねぇ、私一位だって!」
「おめー! いい出会いあるはずだよ」
隣の女子高生グループの話題を耳にして、慌てて口を塞ぐ。危うく冷たい目で見られるところだった。
「てかさ、新アバター出たよね。うさぎのやつ」
「見た見た! 可愛くてすぐ買っちゃった!」
「あれリアルでも買えるらしくてさ、みんなで買ってお揃いにしようよ」
「いいね! チャットにURL送っとくね!」
年頃の女子の話題は尽きないなと思いながら、揚羽はブラックコーヒーが入った紙コップを口につける。
(そろそろ時間ですね)
そのまま残りのコーヒーを飲み干し、鞄を持って立ち上がる。
立ち上がったとき、カラン、という軽やかな音で、鞄の中のあるものを思い出した。
数秒間の沈黙。
揚羽の頭の中の自問自答は、空のコップを捨ててから店の外まで続いた。
これは先日コンビニで偶然見かけて久しぶりに食べようと思っただけ。そう、効率よくブドウ糖を摂取するため。だから決して占いの結果を気にしたわけではない。
言い訳にも近いあれこれを並べ立てながら、揚羽はラムネを一粒口に入れた。
それは、揚羽がオーシャン専門管理局で勤務する初日の朝の出来事だった。
オーシャン。
公開されてから数年で利用ユーザー数が五億人を超えたインターネット仮想空間の名称。
《海を超えた繋がり》をモットーとしていて、世界中とのチャット機能やネットショッピング、ゲームはもちろん、オーシャンに目をつけた各企業や医療分野の参加、そして行政の各種手続きなど、ありとあらゆるものがオーシャンで完結するようになった。
スマートフォンやパソコンなど、インターネット環境があれば簡単にアカウントを作成できる。誰でも気軽に利用できるという便利さから、オーシャンはあっという間に日常と密接な関わりを持つ仮想空間となった。
「ここで合っていますよね……」
揚羽が立っているのは、とあるターミナル駅――の外れのタクシー乗り場――のさらに外れにあるファミレスの前。都会の中心かと思いきや、こんな辺鄙な場所が待ち合わせなのかと、揚羽は腕時計型の端末に表示されている地図を何度も確認する。
【マリン:オーシャン専門管理局ってところで働かない?】
オーシャンの公式マスコットキャラクターと同じ、マリンと名乗る人物からの個人チャットが届いたのは、つい先日のことだった。名前からして、巨大な仮想空間であるオーシャンを管理する業務だというのは揚羽も想像がついていた。
揚羽はオーシャンの裏側を知りたいと思っていた。生活と密接に関わっているオーシャンは、一般ユーザーが知らない膨大なデータと複雑なシステムで成り立っている。なのに、運営は一切表に出てこない。リリース以降大きなトラブルもなく、平和が保たれている。
だからこそ、オーシャンの裏側を知りたかった。一体どんな人物が管理をしているのか。
そんな中でのスカウトに揚羽は感謝した。これでオーシャンの管理側に関われる。
(流石に早かったですね……)
待ち合わせ時間にはあと三十分もある。張り切って来すぎたと、揚羽はふっと笑う。
大人しくここで待っていよう。間違っていればなにかしら連絡が来るはずだ。
しきりに時間を確認する揚羽の様子は、年齢より少し幼く見える容姿とスーツ姿が相まって、乗り換え途中、もしくは目的地に向かう途中で迷子になった就活生や新入社員のようにも見えた。
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