彼
私は、この山奥の村でたった一人の生徒として、小学校に通っていた。四年生になった時から、私は一人だった。寂しい?最初はそう思っていた。でも、すぐに慣れた。だって、私には『彼』がいたから。
『彼』は、私にしか見えない友達。いつも一緒に遊んでくれた。授業中も、休み時間も、放課後も。他の人には見えないけれど、私には確かに『彼』がいた。
でも、周囲の人たちはいつも一人の私のことを気にかけていた。とくに先生はいつも心配そうな顔で私を見ていた。「有里ちゃん、学校で一人で遊ぶのもいいけど、たまには外に出て遊んだら」と。でも、私には『彼』がいれば十分だった。
卒業の日が近づき、小学校が閉鎖されることが決まった。私は『彼』に言った。「私、もうすぐここを出て行かなきゃいけないんだ」
『彼』は何も言わなかった。ただ、いつものように優しく微笑んでいた。
卒業式の後、私は『彼』に別れを告げた。「今まで、一緒に遊んでくれてありがとう。私、あなたのこと、ずっと忘れないから」
あれから15年。私は中学、高校、大学と進み、都会で就職した。でも、時々、あの村のことを思い出す。そして『彼』のことを。
ある日、私は休暇を取り、あの村へと向かった。目的はただ一つ、近々取り壊されることになった小学校を訪れることだった。
錆びついた門をくぐり、校舎へと続く道を歩く。木造の校舎は、ひどく老朽化していた。窓ガラスは割れ、壁は剥がれ落ち、まるで廃墟のようだった。
かつては子供たちの笑い声で溢れていたはずの校庭には、雑草が生い茂り、ひっそりと静まり返っている。私は、ゆっくりと校舎の入り口へと向かった。
ギィ…
軋む音を立てて扉が開く。埃っぽい匂いが鼻をつく。人気のない廊下を歩いていると、ふと、教室の一つから物音が聞こえた。
誰かいるのか。
私は息を潜め、音のする教室へと近づいた。
ガラガラ…
教室の扉をゆっくりと開ける。
そこには、『彼』が立っていた。あの時のままの姿で。
「久しぶり」
『彼』は、私が誰だかわかっているようだった。
「久しぶり…」
私はそう言うと、後は言葉を失った。
「僕は、ずっとここにいたよ」
『彼』はそう言うと、寂しそうに微笑んだ。
「私…あなたのこと、忘れたことはなかった…」
私は正直に言った。
「また有里が会いに来てくれて嬉しいよ」
『彼』はそう言うと、私に近づいてきた。
「ねえ、また一緒に遊ぼうよ」
そう言って笑みを浮かべた『彼』の顔は優しさに満ちていた。
私は『彼』が誰なのか知っていた。
私には6歳年上の兄がいた。だが私が生まれてすぐに事故で亡くなっていた。
私が小学生のときにはもちろん『彼』が兄だとは思いもしなかった。
大きくなり、親から亡くなった兄の写真を見せられたときに『彼』が兄であることに気づいた。
「お兄ちゃん、私は大丈夫。私はもう一人じゃないから」
『彼』の顔からさきほどまで浮かんでいた笑みは消えていた。
私から少し離れた『彼』は私に訊いた。
「ほんとに。ほんとにもう寂しくないの」
「うん、友達もいっぱいできたから」
私は逆に『彼』に訊いた。
「お兄ちゃんは、ずっとここにいたの?寂しくなかった?」
『彼』は少し間を置いてから答えた。
「最初は寂しかった。でも、有里が時々思い出してくれたから。それが嬉しくて、ずっと待っていたんだ」
「そっか…」
私は『彼』の気持ちを思うと、胸が締め付けられるようだった。
「でも、もう大丈夫だよ。私も、お兄ちゃんも、もう一人じゃないから」
私はそう言って、『彼』に微笑みかけた。
『彼』もまた、安堵したように微笑み返した。
「ありがとう、有里。もう、心配ないよ」
『彼』の姿が、だんだんと薄れていく。
「お兄ちゃん…」
私は思わず手を伸ばしたが、届かなかった。
『彼』は最後に、優しい声で言った。
「さようなら、有里。元気でね」
そうして、『彼』は完全に消えてしまった。
私は、もう誰もいない教室で、一人立ち尽くしていた。
窓の外を見ると、夕日が校庭を赤く染めていた。
私は、もう二度と『彼』に会うことはないだろう。
でも、寂しくはなかった。
『彼』は、私の心の中に、大切な思い出として生き続けるから。
私は、もう一度、『彼』に聞こえるように言った。
「さようなら、お兄ちゃん。ありがとう」
私は、もう誰もいない小学校を後にした。
振り返ると、夕日に照らされた校舎が、静かに佇んでいた。
私は、新しい未来へと、歩き出した。




