第6話
朝の森は静かだった。
鳥たちのさえずりが聞こえ、小さな風が葉を揺らすたび、木漏れ日がチラチラと足元を照らす。
家の窓から差し込む光は優しく、まるで「おはよう」と声をかけられているようだった。
ベッドからそっと起き上がり、小さく伸びをした。
まだ少し夢心地だったけれど、手元のティーポットが現実の証拠だ。
昨夜淹れたカモミールティーの残りが、ほんのりと甘い香りを残している。
「うーーん……ここに来てから、よく眠れるなぁ」
ふかふかのベッドの上で、ゆったりとした朝の余韻を楽しむ。
この世界の夜は、虫の音と木々のざわめきが子守唄のように続く。
あの都会のアパートとは比べ物にならない。
薄い壁越しに聞こえていた隣人の咳も、深夜のクラクションもない。
思い出すと、胸の奥が少しだけきゅっとなる。
でも、それもどこか遠い世界の話のように思えた。
――あの頃。
毎朝、スーツに袖を通し、アパートから駅までの道を小走りで駆ける。
都心近くは家賃が高いので、少し離れた郊外から満員電車に押しつぶされながら会社へと向かう。
会社についても人と話す時間より、パソコンの画面を見る時間の方が圧倒的に長い。旅行代理店の企画なんて、お金と所要時間の計算ばっかり、企画書の提出期限に追われ、上司の顔色に神経を削る毎日。
帰宅はいつも夜遅く、冷めたコンビニ弁当と、静まり返った部屋。
ハーブティーを淹れる時間だけが、唯一“自分”を取り戻せる瞬間だった。
「……毎日、戦ってたんだなぁ。今思えば」
布団から抜け出して、窓を開ける。ほんの少しひんやりとした朝の空気が頬に当たった。
目の前には、小さな畑――と言えるほど整ってはいないけれど、それでも少しづつ雑草を抜いて、土を耕して整えている。今日は、昨日より緑が増えている。
《草木育成》のスキルが効いているのだろう。目を凝らすと、レモンバームの若葉がつやつやと朝日に光っていた。
「よし、今日はハーブをちょっとだけ採ってみるか」
かごを片手に、庭へと踏み出した。
まだ土の匂いが強く残るこの場所に、小さな芽吹きが点々と広がっている。ひとつひとつが、小さな希望のように見えた。
きっと、何もかもを忘れてしまいたかったわけじゃない。
ただ――少しだけ、立ち止まりたかっただけなのかもしれない。
「うん……今日はミントも摘もう。新しいブレンドティーを試してみるのも良いね」
そう口に出してみると、自分の声がこの世界にすっと溶け込んでいくような気がした。
ここには、あの“戦場”のような毎日はもうない。
誰の顔色を窺うことも、無理に笑うことも無い。
今はただ、香る葉を摘んで、お茶を淹れて、自分のために微笑むだけ。
それだけで、十分だった。
庭のレモンバームをひとつ摘んで、鼻先に近づける。
柑橘のようなさわやかな香りが、ふわっと広がった。
「やっぱり、こっちの世界のハーブって、香りがすごい……」
葉を指先でこすったときの感触も、どこかしっとりとしていて、柔らかい。
レモンバームをかごの中にそっと収めて、続けてミントやポワルラ草も少しずつ摘み取った。
前の世界でも、こうやって休日にベランダの鉢植えから摘んだハーブで、ブレンドティーを淹れていた。
独学だったけど、本やネットでレシピを調べては試して、味を比べて、メモを残して。
会社帰りに寄った書店で見つけた「ハーブ療法入門」が、最初の一冊だった。
「……この世界でも、役に立つかな」
摘み取ったばかりの葉を並べて、手のひらにそっと載せる。
集中すると、体の奥から、ふわっと光が広がる感覚があった。
《鑑定》発動:レモンバーム(上質)/リラックス・消化促進・軽度の鎮静作用あり
《鑑定》発動:ポワルラ草(良)/体温調整・喉の調子を整える/香り:ほのかなハチミツ
「へぇ……すごい。香りまで出るなんて」
魔法じみたこの世界の“鑑定”スキルは、ハーブの知識とすんなり組み合わさるように感じた。
集めたハーブを乾燥させるために、日当たりの良い窓際に並べると、小さな部屋がほんのりとハーブの香りに包まれた。
いつかこんな空間を作りたいと、前の世界で思い描いていた。「働きながら、週末は小さなハーブの専門店とか開けたらいいな」――そんな淡い夢。
だけど、現実は忙しすぎて、鉢の世話すらままならなかった。
「ふっ、この世界なら、本当に叶うかもしれないね」
自分のつぶやきに、思わす小さく笑みが広がった。
ああ、そうだよ、本当に叶うかもしれない。たしか、隣の作業部屋にハーブの種とかドライハーブとかもあったね。たぶんユリカさんは趣味としてハーブを育てていたのかも知れないけど、私の場合、これで、オリジナルブレンドのハーブティーを作って販売できないかな。
「ふっふふ。それが出来たら楽しそうだな」
窓の向こうでは、森のざわめきと鳥のさえずりが変わらず続いている。
遠くで何かが飛び跳ねる音がした。たぶん、あの丸っこいリスのような動物。
お湯を沸かしながら、乾燥前のフレッシュハーブを少しだけカップに入れる。
ミントとポワルラ草の香りが前面に立ち、後からレモンバームの柑橘の香りが、立ち上がる蒸気に乗って漂った。
「前の世界には無かったハーブを使った、最初のブレンドティーだね」
ティーカップを持って、窓辺の椅子に腰掛ける。
一口すすると、甘く、ほんのりと涼やかな風が口の中に広がった。
ふむ。おいしい……
――何かをやり直すためでも、逃げたかったわけでもない。
でも今は、確かに言える。
この場所で、ようやく心がほどけていく――そんな気がしたんだ。
◇ ◇ ◇
お昼ご飯は、昨日、クロワさんから貰ったパンにあうスープを作ることにした。
昨晩から水に浸けておいた豆を鍋に入れて、ハーブや野菜と一緒に煮込む。ひよこ豆のトマトソース煮だ。
あ、そうそう。トマトとかひよこ豆とかは日本語と同じで通じるようだ。いや、たぶんだけど、本当は同じな訳が無いと思う。
これは、昨日、クロワさんやエマちゃんと話して気が付いたけど、“パン”とかって、私は日本語で話しているつもりなんだけど、
何らかの力で変換なり翻訳なり、されているのではと思ったんだ。
“パン”を文字で表すと、日本語風だと二文字、ローマ字風だと三文字だと思うけど、こっちの文字では五文字になるんだよね。
明らかに長いのに口に出すと二音っておかしいよね。
私が文字で書いた時もおかしい。パンって二文字で書いたつもりだけど、いつの間にか五文字も書いている。
何かと不思議な事が多いけど、細かいことは気にしても仕方がない。何とか暮らせているから良しとしよう。しかし、昨日は、せっかく村に行ったものの、着替えの事を忘れたのは失敗だった。せめて金額ぐらいは調べておけば良かった。
まあ、その代わりと言っては何だが、色々な話をクロワさんから聞けて良かった。エマちゃんともお友達になれたしね。
で、その金の話だが、私は、クロワさんにこの国で使われている通貨を見せてもらったんだ。日本のような紙幣は無く、全て硬貨だった。
物価などから想像すると、百円、千円、一万円、十万円に相当する感じで、銅貨、鉄貨、銀貨、金貨があった。その上に大金貨というものがあるようだけど、日常生活で見る事は無いそうだ。
着替え一式を購入するのにいくら必要か分からないけど、せめて銀貨一枚はあった方が良さそうだね。
うーーむ。しかしだ。私がお金を稼ぐ方法ってなんだろう。前任者のユリカさんを見習って薬草を育てる? 需要はあるだろうけどね。
ユリカさんが薬草を栽培して売っていたのは四十年ほど前の話だった。それから今まで栽培する人が居ないのか? そんなはずはないよね。
今では誰かが栽培しているのだと思う訳よ。だったら、今更、そこに横入りするのも気が引けるよね。
そんなことを、グダグダと考えながら、グツグツとひよこ豆を煮る。お玉……いや洋風だからレードルか、とにかく、それで時折混ぜて出来上がりだ。
お昼ごはんは、クロワさんから頂いたパンとスープ、採れたて野菜のサラダ。
今日は、ちょっと贅沢な気分。