第16話
コトコト……。
どこか遠くで、鍋の煮える音がする。
ふんわりと鼻をくすぐる、甘くて香ばしい匂い。
私は目を覚ました。
木の壁と、ふかふかの毛布。温かい隣の気配。
……そうだ、今日は村長のランバートさんの家に泊まったんだった。
隣でユイナちゃんが、小さな寝息を立てている。夜中に何度か寝返りを打ちながらも、私にぴったりくっついて寝ていた。
窓からはやわらかな朝日が差し込んで、部屋の中を黄金色に染めている。
家の中から薪がパチパチと爆ぜる音が心地いい。
「ふぁ……」
大きく伸びをして、毛布をそっとめくる。ユイナちゃんはまだすやすやと眠っているので、起こさないように静かにベッドを抜け出した。
素足で歩く床は、ほんのり冷たくて気持ちいい。
昨夜買ったばかりの新しい服――生成り色のシンプルなワンピースと、藍色のエプロンを身につける。
普段より少しだけきちんとした気持ちになる、不思議な感覚だった。
寝室の扉を開けると、廊下の向こうから台所の音と、温かい匂いが流れてきた。
台所では、アデルさんが朝食の支度をしていた。
大きな鉄鍋からは、スープのような香り。パン焼き窯の中からは、ほんのりと甘い匂いが漂っている。
ランバートさん家には小さめのパン焼き窯があるので、焼き立てのパンが食べられるのだ。
「あら、リセさん。おはよう。よく眠れた?」
アデルさんは、やさしく微笑みながら振り返った。
手には木製の大きなスープスプーン、エプロンには少し粉がついている。
「はい。とても……。こんなにぐっすり眠れたのは久しぶりかも」
私が答えると、アデルさんは嬉しそうに目を細めた。
「よかった。朝ごはん、すぐできるから、座って待っててね。……あ、もしよかったら、パンを一緒に運んでくれる?」
「はい、もちろん!」
窯の近くの木棚には、焼き上がったばかりの小さな丸パンが並んでいた。
香ばしい匂いに誘われて、思わず頬が緩む。
パンをそっと籠に入れながら、私は思った。
この村の、こういう小さな一つ一つが、胸に染みる。まるで、ここが本当の故郷みたいに。
しばらくして、まだ眠そうな顔のユイナちゃんと、村長のノアさんも起きてきた。
「おはよう、リセさん。いい朝だな」
ノアさんが大きなあくびをしながら椅子に座り、ユイナちゃんはぼんやりした顔で私に抱きついてくる。
「リセさぁん……おなかすいたぁ……」
「ふふ、もうすぐだよ。がんばって起きて」
みんなでテーブルにつくと、アデルさんが温かいスープと、焼きたてのパン、甘い果物のジャムを並べてくれた。
温かい湯気の立つ朝ごはん。
どれも素朴で、手作りの味がして――私は朝から胸がいっぱいになった。
「うん、やっぱりアデルさんのパン、美味しいです……!」
感動して思わず呟くと、アデルさんは嬉しそうに笑った。
「ふふ、ありがとう。まあ、クロワさんみたいに本職には勝てないけど、焼き立てパンを食べるには自分で焼くしかないのよ。私の食い意地の結果よ」
アデルさんは笑いながら言った。ふふっ、クロワさんの店からでは三十分はかかるからパンも冷えてしまうね。カラ袋で量は運べても完全に保温は出来ない。多少ゆっくりにはなるけど、やはり冷えてくる。
だからアデルさんの言う通り、焼き立てを食べるには自分で焼かないと駄目なのか。
私も元の世界でオーブンを使ってだけど、自分でパンを作ったことがある。こっちでも出来るかも知れないね。これも、そのうち実現したいな。
「昨晩、頂いたお茶も美味しかったから、きっと、リセさんの料理もおいしいだろうね」
ノアさんが、豪快にパンをちぎりながら頷く。
「……リセさん。昨日のお茶、村の人たちに振舞う気は無いかね? あれは旨かった。しかも体に良いのなら、なおさら村人に飲ませてあげたいんだ」
リセは驚いて、手にしていたパンを落としそうになった。
「えっ、そんな、大したことじゃ……」
「いやいや、こっちの人間が普段飲んでるお茶とは、やっぱり違った。味がいいだけじゃなく、身体があったかくなったり、よく眠れるとか……薬のようだが、薬とは違って飲みやすい。この村には娯楽のような物が無いんだ。それでも男連中は酒でも飲めばある程度は良いが、女性陣も何かあると良いなぁと思っていたんだよ」
ノアさんは笑いながら、口元を拭った。
「それでな、ちょっと考えたんだ。村の広場の近くに、誰も使っていない小さな店があるんだが――そこをリセさんに貸してみるのはどうかって」
へ? 突然の話にびっくりした。
アデルさんが、にっこりと笑いかける。
「お茶のお店、って感じでね。もちろん、いきなり大きな商売をする必要はないわ。まずは、村のみんなに少しずつ馴染んでもらう感じで」
「場所も悪くないし、広さも手頃だ。初めは店番をしながら、村の暮らしに慣れるのにもいいだろう。どうだい? ワシは村の活性化に繋がってくれれば良いと思っているんだ」
ノアさんの提案は、リセにとって思いもよらないものだった。
だが、心のどこかで、それを聞いた瞬間――ふわりと胸が温かくなるのを感じた。
……自分だけの、小さなお店か……
それは、元の世界で夢見たことだ。まさか本当に実現出来るとは思っていなかった遠い夢だった。
私は、そっとパンを置き、両手を膝の上でぎゅっと握った。
「私、やってみたいです。……もし、ご迷惑でなければ」
ノアさんとアデルさんは顔を見合わせ、そして揃って笑った。
「もちろん、歓迎だよ、リセさん」
「私たち、応援するわ」
ユイナちゃんも隣で、ぱんっと小さな手を叩いて喜んでいる。
こうして、私は――この異世界で、初めて「自分の場所」を持つことを決めたのだった。
「良し! そうと決まれば、まずはリセさんに現状を見て貰った方が良いな。あー焚きつけておいて、こんな事を言うのも何だが……店舗の状態は、そんなに期待しないでくれよ。随分放置していたから、かなり痛んでいるんだ」
ノアさんは頭をかきながら言った。
「はい。コツコツとやっていきますので大丈夫です!」
私とノアさん、そしてユイナちゃんは朝ごはんを食べ終えると、さっそく広場にある店舗を見に行くことにした。




