半強制的会社見学
夕飯の買い物に出掛けていた、ある日の午後。
「あれ、サユちゃん?」
と、よく通る女性の声で呼ばれた私はそちらに振り向いた。
「──え? あ、所長さん!」
「久しぶりねぇ、買い物?」
この人は父の知り合いで、私の家の近くにある保険会社の所長をしている人だ。会うのは数年ぶりだというのに、よく私に気付いたものだ。肩までのショートボブにゆるいパーマをかけたヘアスタイルと、仕事のためだと思われる少し濃い目の化粧は昔から変わっていない。目尻には、営業スマイルによるものとも年齢によるものとも受け取れる細かい皺が目立っていた。
「うん、所長さんも?」
「私は営業よー。平日のこんな時間にぶらぶら買い物なんてしてらんないわよ!」
「それもそっか〜。あはは」
「そうそう、お仕事中なんですよ! ──あ、ところでサユちゃん。今、何かしてるの?」
「今? え〜っと……」
(なんて言えばいいかなぁ……)
少し考えて、私は今の生活のことを所長さんに話した。子供や借金のことをうまく要点だけ話すのに苦労したが、なんとか簡潔にまとめることに成功した。
「へぇ〜、そうなの。大変ねぇ……。あ、そうだ! サユちゃん、ちょっと会社見学してみない?」
「え?」
「うちの事務所、人手不足でさぁ。まぁ無理強いはしないけど、見るだけ見てみなさいよ」
(う〜ん、意外な展開……。どうしようかな……?)
「見るだけはタダなんだから! どう?」
所長さんは自慢の品を見せたいような口調で言う。
「そ、そ〜だね……」
(相変わらず押しの強い人だなぁ……。「はい」って言わなきゃ、ここから動けなさそう……)
「じゃあ、見るだけ……」
「あらそう! じゃ行きましょう!」
「えぇ? 待って、今から?」
「そうよ、善は急げっていうじゃない! あ、何か予定あった?」
「いや、別に……」
言いかけて『しまった』と思った。勢いに圧倒されて、つい正直に言ってしまった。
「それなら大丈夫ね! そんなに時間取らせないからさ」
「う、うん。じゃあ……」
(あ〜あ、まんまと所長さんのペースにはまったなぁ。でも行くだけだし、いっか)
ここから所長さんの勤める保険会社までは目と鼻の先だ。父に電話して簡単に事情を説明し、私たちはそのまま会社へ向かった。
ビルの中へ入り、奥にあるエレベーターに乗る。建物の外観は何度も見ていたが、こうして中に入るのは初めてだ。事務所のある階に到着すると、所長さんは「ここよ」と言いながら歩を早めた。
所長さんの肩越しに部屋を見ると、意外と広い事務所だった。十台ほどの事務机が三列に並んでいて、奥に一台だけそれらを見渡せる向きに置かれた机がある。たぶん所長さんのものだろう。間仕切りの向こう側にも同じように机が並び、何人かは机の上のパソコンに向かって黙々と仕事をしている。
こちら側には、タイトな濃紺のパンツスーツに身を包み、大きめの黒いバッグにせっせと書類を詰め込んでいる女性がひとりだけいた。その人が私に声を掛けてくる。
「こんにちは〜。新しい人?」
「あ、いえ。ちょっと今日は見学に……」
「そうなんだ〜。今うち、人がいないからさ。ぜひ働いてね! じゃあ所長、私も行ってきま〜す」
先ほどの所長さんと同じようなことを言って、その人は軽快に事務所をあとにした。
「はーい、いってらっしゃーい。──さて、じゃあ説明しましょう! 適当に座って」
意気揚々と言いながら自分の机の抽き出しを開け、所長さんは会社のパンフレットを数枚取り出した。
「あ、他の人は……?」
「ん? 外回りに決まってるじゃない。この仕事は足で稼ぐのよ! ここにいたってお客さんは取れないんだから!」
……なんだか熱くなっている。すぐには帰れない気がしてきた。
椅子に腰掛けると、所長さんは仕事の内容を説明し始めた。
「この仕事って、別に難しいこと何もないのよ。お客様に商品勧めて……」
「一応ノルマはあるけど、初めは全然……」
「ひと月ぐらいは先輩に付いて……」
会社見学だったはずが、面接のような雰囲気で話が進んでいる。私は所長さんの話を一旦止めるために、仕事内容とは関係のない話を振った。
「あの〜……」
「ん? 質問? どうぞ!」
「あ、いや……昼間の仕事だと、何かあった時に子供の面倒見られないかなぁ〜と思って……」
「あぁ、大丈夫よ。そういう人たち多いから。休みたくなかったら、ここに連れてきてもいいし」
「え? そうなの?」
「そうよ。だから安心してちょうだい」
「へぇ〜……」
結局、一時間ほど話を聞いた。きっと仕事の良い面しか説明されていないだろうが、確かに難しいことはなさそうだ。それに、やはり子供たちと一緒にいられる時間が増えるのはとても魅力的で、そのことだけでも働きたいと思った。
だが……。
(どうしようかなぁ……)
一年前なら迷わず勤めるのだが、今は早く借金を返したい。それさえなくなれば、ユヅキやジョウとたくさん一緒にいられるから。
手っ取り早く稼ぐには、キャバクラのほうが断然いい。だが稼げるとはいえ、養育費もこれからは倍になるし、同時に借金を返していくとなると先の見通しが立たないので、本当に手っ取り早いのかは正直わからない。夜の仕事に就くことで、また子供たちに寂しい思いをさせてしまうことにもなる。
「まぁ、気が向いたら連絡ちょうだいね。待ってるから」
「あ、はい。ありがとう、所長さん」
所長さんから名刺をもらい、私は家に帰った。
夕飯を食べながら父に今日の出来事を話してみると、すぐに賛成してくれた。昼間の仕事であると同時に、自分の知り合いの職場だから安心できるという理由もあるだろう。
父の返事を聞いて、やはり子供たちとの時間を増やすことを選んだ。二人がまだ小さいからこそ、生活は苦しくても一緒にいてあげるべきだ。
寝る前に所長さんへ『働きたいです』とメールを送った。もう十一時を過ぎていたので返事は明日だろうと思っていると、三十分ほどで返信があった。
『わかりました、ありがとう。明日でも明後日でも、都合のいい時に来て下さい。来る前に一度、連絡下さい。』
私はすぐに行こうと思った。先延ばしにする理由などないし、他の人が入ったりしたら困る。
『じゃあ明日行くので、よろしくお願いします。』