パンドラの箱
月曜の朝。ついに今日で放射線治療が終わる。いつものように放射線室へ行き、五分間の照射を終わらせる。
この時間、やはり小泉先生はいなかった。決して一昨日までのような疚しい気持ちがあったわけではなく、もう一度ちゃんとお礼を言いたかったのだ。しかし、この大きな病院で偶然会う確率は低いだろう。
(しょうがないか。あとでメールだけ送っとこ)
放射線治療が始まって以来、私の胸の真ん中には常に黒いバツ印が描かれている。これは放射線を当てる位置を印したものだ。
初めのうちはこの印を見て、治療というより被験体になったような印象を抱いた。だが、明日この印が消えるかどうかで退院が決まるので、見た目で結果を示してくれる役割を担っているかと思うと、今さらながらその印象はなくなっていた。
病室に戻り、Tシャツの襟元を引っ張って改めてバツ印を見ていると、O先生がやってきた。
「……何やってんの?」
「え? あ……あはは、なんでもないよ! ちょっとバッテン見てただけ」
「バッテン? あぁ、照射のね」
「そうそう。あと、入院してから胸も小さくなったな〜、って」
「……今さらそんな……」
「──なんですか?」
「いや、なんでもないです」
「先生、それは男としてあるまじき発言じゃないですか?」
「すいません、失礼しました」
ごく自然にこんな話をして、笑っていられる。それがこの病院の環境の良さのひとつでもある。
「今日で放射線も終わったね。お疲れ様でした。明日、造影CT撮るよ」
「ありがとうございま〜す。CTの結果で退院決まるんでしょ?」
「そうだね。楽しみでしょ」
「うん、もちろん! 絶対効いてると思う!」
「僕もそう願ってるよ。じゃあ明日、結果が出たらお話ししましょう」
「は〜い」
翌日の午前中に造影CTを撮り終え、結果が出るのを待つ。その間、今までのいろいろな出来事を思い返していた。
──痛みが出始めた時のこと。
──入院を告げられた時のこと。
──治療の説明を聞いた時のショック。
──長い長い抗ガン剤治療を受けている間の、つらさや寂しさ……。
……今の体の状態を考えると、すべてが悪夢のようだったとすら思える。それだけ私は今、元気だ。しかし、体の内側のことはわからない。CTの結果を見るまでは、やはり少し落ち着かない気分だ。
昼過ぎになり、O先生が書類やCTの写真が入っているらしき大きな封筒を持って、神妙な面持ちで──私の気持ちがそう見せていたのだと思う──こちらへ歩いてくる。ベッドの脇に立ち止まった先生は、軽く会釈をした。私もつられてそれに習ったが、いつもと違った先生の様子に嫌な緊張感を感じ取っていた。
「……別の部屋で話そうか」
ドクン、と心臓が瞬間的に、普段より多く血液を押し出す。
「はい……」
先に立って歩く先生のうしろへ付いて、ひと言も話すことなく別室へ移動した。
先生が立ち止まったのは、抗ガン剤治療の説明を受けたあの小さな部屋の前だった。
(この部屋か……)
悪い印象しか残っていないこの部屋の前に立つと、良い結果が想像できない。それに良い結果なら、わざわざ部屋を変える必要があるのだろうか……?
先生がドアの引き手に指をかけると、無意識に足がすくむ。
──パンドラの箱。
神話の中では、開けると幾多の災厄が飛び出してきたといわれる、あの箱。
しかし箱の奥深く、最後に残っていたものは希望であったともいわれている。
私は今、そのひと握りの希望に賭け、それだけを手にしたいと願いながら、ゆっくりと箱の中へ入っていった……。