天啓
だいぶ体調も良くなり、治療が始まって約一ヵ月、久しぶりに外へ出られることになった。
クール間は外泊もできるので、当然家に帰ろうと決めていた。朝、父に帰宅することを電話して荷物をまとめ、外泊許可証を提出してエレベーターに乗った。
ロビーを抜けて出入口の自動ドアが開いた瞬間、蒸し風呂のような外気が体を包み込む。もう七月も半ばだ。病院の中は快適な室温に保たれているので、外がどれほどの気温なのかはテレビなどの天気予報からでしか知り得ない。昨夜の予報で大体の暑さは予想していたが、実際に外気に触れるとそれ以上で、たったひと月で夏の暑さを忘れてしまったかのようだった。
しかし、とても気持ちがいい。目が眩むほどの快晴。ひと月ぶりに吸う、新鮮な空気。私は少しの間、太陽の光を浴びながら深呼吸していた。
(う〜ん、やっぱり外はいいなぁ〜! 気持ちいいっ!)
こうしていると、もう治療はすべて終わってこのまま家に帰るだけ、と錯覚してしまう。『病院に戻ってきたくない』という気持ちがそう思わせているのだろう。
昨日までの出来事が、とても昔のことのように感じられる。──なんて現実感のない日々だったろう。抗ガン剤なんて、もうやりたくない。
しかし三日後にはまたここに帰ってきて、つらい治療を受けなければいけない……。
(……せっかく外出たんだし、今は忘れよう! 美味しいものたくさん食べて、たくさん笑って、好きなことして楽しもう!)
気持ちを切り替え、私は歩き出した。
バス停までは、普通に歩けば十分ほどの距離だ。だが体調は良くなったとはいえ、体力までは回復していない。少し歩いただけで息が切れ、動悸もする。
「はぁ……はぁ……」
(……まだ、ちょっとしか歩いてないのに……疲れた……)
二十分もかけ、ようやく目的のバス停に着いてベンチでひと休みする。しかし休んでいても、息切れや動悸はなかなか回復しない。
自宅まではバスを乗り継いで、徒歩を含めて約一時間。先ほどと同じく、この数字は健康な時の私が要する時間だ。
(この調子だと、家までどのぐらいかかるかなぁ……?)
一旦疲れが表に出ると、バスの乗り降りもひと苦労だ。乗り継ぎのバスが来ても乗るのが面倒になり、二本ほど目当てのバスを見送った。
結局、普段の倍以上の時間がかかった。二台目のバスを降りたあとは、病室と隔離部屋を行き来した時のように前傾姿勢でゆっくり団地の玄関まで歩いてきた。
エレベーターに乗ってボタンを押し、そのまま壁に凭れ掛かる。だが、すぐにその行動は間違いだったと気付かされる。エレベーターはあっという間に私の部屋の階に到着したので、壁から体を引き剥がすのに余計な体力を使ってしまった。こんな些細な動きで体力が奪われるなんて、信じられなかった。
腕の力で体を動かすように廊下の縁に手をかけながら、やっとの思いで部屋までたどり着き、鍵を開けて中に入る。
久しぶりのわが家。何も変わっていない。
(……って、一ヵ月じゃ変わらないか。でも懐かしいというか、なんというか……)
ふらふらとベッドに歩み寄り、そのまま体をどさっと正面から倒す。文字どおりダウンだ。もう一歩も動きたくない。
「はぁ……はぁ……」
体を投げ出した時に左腕が目の前にくる恰好になったので、見たくなくても注射や点滴の痕が目に入る。まだ生々しく残る、いくつもの小さい痕。内出血でどす黒いような青紫色に変色した部分もあり、自分の腕ながら痛々しい。
(あ〜……何やってるんだろ、私……)
いくもの痕を見ていると、今の自分の状況がとても空しく感じられた。気持ちを切り替えるために目を閉じると、不意に過去の出来事が堰を切ったように頭の中に溢れてきた。思い出したくないことまでも、勝手に浮かび上がってくる。
わからなかった。なぜ急に、昔のことなど思い出したのだろう……。とにかく今は、何も考えたくない。私は瞼に力を入れて、そのまま眠ってしまおうとした。だが、過去の映像はいつまでも消えない。追い払おうとすればするほど、どんどん記憶が遡ってゆく。
(あ〜、もういいから寝かせてよ……)
誰にともなく苛立ちをぶつける。すると、ある言葉が浮かんだところで私は無意識に反応し、記憶の流れもぴたりと止まった。
『神様は、乗り越えられない人に試練を与えない』
誰から言われたのかは憶えていないが、言葉自体はよく憶えている。
神様なんて、本気で信じているわけではない。ただこの時はきっと、何かに縋りたかったんだと思う。
誰かに今の気持ちをわかってほしかった。この空しさを埋めてほしかった。しかし、そんなことができる人は私のまわりにはいない。たとえシュウでも、それは無理。これは、体験した人にしかわからない気持ち……。
私はその言葉を天啓と思い、目を開いてもう一度左腕を見た。
(この痕は、私が頑張った印だね……)
「次も頑張れー、ファイトだ」
声に出すと少しだけ心が潤うような気がしたので、何度か繰り返して自分を元気づける。いくらかの安心感を得た私は、知らぬ間に眠っていた。




