一番恐れていたもの
翌日、先生の言ったとおりこの病室を出られることになった。
ベッドから足を降ろし、スリッパを履いて立ち上がる。十日間──病室を出る時に看護師さんから聞いて、ここに十日間いたことを知った──で歩いたのは、ベッドとトイレの間のわずかな距離だけだ。ふらつく足をゆっくり、一歩ずつ前に出す。若干腰を前に折らないと倒れてしまいそうだったが、ここに来る時のように点滴台にしがみつくことはなかった。
もとの病室の前に着いて入り口にあるネームプレートを見ると、家に帰ってきたような気分になった。そこにはちゃんと私の名前が書かれている。嬉しいことではないが、隔離されているより遥かにましだ。それに、捉え方によっては嬉しくも思える。──無事、ここに還ってきた。そう考えれば……。
中に入って、この部屋の〝住人〟に掠れ声で挨拶をする。
「ただいま〜」
「お帰りー! どうしたかと思ってたよー!」
「ホント、疲れたぁ……」
「ゆっくり休みなー」
「ありがと〜」
自分のベッドに腰を掛け、ひと息つく。本当にここが自分の家で、彼女たちが家族のようだ。
話したいことはたくさんあったが、まだそこまで喋る元気はない。隔離されていた時のことを少しだけ話して、枕に頭を落とそうとした。しかし、枕の数センチ手前で動きを止める。
少し前から、枕にやたらと髪の毛が付くようになった。洗っていないせいもあるだろうが、それにしても普通に抜ける量ではない。……私が一番恐れていた副作用が、とうとう現れ始めたのだ。
髪が抜ける時は、痛みも何もない。だからこそ、余計に怖い。起き上がって枕を見ると、頭の大きさの窪みの中に数十本、まとめて髪の毛が落ちている。それに気付いた時から、頭を触ることができなくなった。
今の段階でも、すでにもとの半分以上は抜けていて、残りの髪はただ頭から落ちないようにしているだけ。洗うことなんてできない。鏡を見るのも怖い。
今までの副作用も、とてもつらく苦しいものだった。しかし抗ガン剤を流していない今は、あれほどの苦しみが嘘のように消えようとしている。薬が体に作用してさえいなければ、こうして普通に過ごせるのだ。しかし、髪は……。
髪が全部なくなった時のことを考えると、急に不安が湧き上がってきた。私は助けを求めるように、シュウにメールをした。
『髪の毛、なくなっちゃうよぉ……。今、抜けないようにしてる〜。』
私はいつも、彼を困らせることしか言わない。
(でも、わかって……。どうにかしてほしいんじゃないの……)
ただ、安心するような言葉が欲しいだけ。それをわかってくれているように、シュウからの返信は十分ほどで来た。
『髪がなくなっても、サユはサユ。大丈夫だよ、髪の毛なんてすぐ伸びるんだし!』
捉え方は人それぞれだろうが、私はこのメールで少し気が楽になった。
(どうせ抜けちゃうんだし、いつまでも怖がってたらきりないよね。ちょっとやってみようかな……)
ブラシを手に取り、髪に通してみる。上から下へ軽く撫でただけで、ごっそりとブラシに毛が絡みついた。一瞬ぎょっとしたが、開き直って二度、三度とブラシを通してみる。何度か動かしているうちに、ほとんどの髪が抜け落ちた。
『がぁ〜ん……髪の毛、全部なくなっちゃったぁ〜。』
先ほどのシュウのメールに、あまり深刻さを出さないような言葉で返信した。
『まっ、一生に一度の坊主頭だ。いい思い出になったんじゃない?』
彼も私の気持ちを汲んで、そんな返事をしてきた。お蔭で怖さは薄れたが、自分の頭を手で撫でてみるとやはりいい気分はしなかった。思い切って鏡を見てみたが、二秒もしないうちに目を逸らす。シュウはああ言ってくれたが、とても見せられたものではない。
私はまたメールした。
『カツラ買お!』