その夜
……──誰かに物凄い力で左腕を掴まれた
《──痛っ。何……?》
驚いて振りほどこうにもまったく離れない
《ちょっと、離してよ》
相手の顔を見ようにも常に私に背を向けているので後頭部しか見えない
《……誰……?》
あたり一面に黒い靄のようなものが立ちこめていて男女の区別すらつかない
《ねぇ……?》
怖くなって必死にその黒い腕を叩き引っ掻き噛み付く
《もう、なんなのよ! 離して!》
だが相手の腕はぴくりとも動かず驚くことにかすり傷ひとつ付いていない
《なんで!?》
今まで感じたことのない恐怖に私は助けを求め叫んだ
《いや、助けて! シュウ!》
──つもりだったがいくら叫んでもひゅうひゅうと息が漏れるだけだった
《シュウ! 助けて! シュウ!》
ふと目に入った私の右手にはいつの間にか大きな鉈が握られていた
《何、これ──》
考えるより先に目をつぶり黒い腕めがけて思い切りそれを振り下ろす
《もう、離せっ!》
だがなぜか鉈は黒い腕を通り抜けてしまう
《──えっ?》
二度三度と往復させるが当たった感触はない
《切れろ、切れろ!》
声無き叫びを上げながら何度も何度も取り憑かれたように鉈を振り続けた
《切れろ! きれろ! キレロ!》
しかしいくらやっても鉈は空を切り右腕からも徐々に力が失われてゆく
《……! ……! ……!》
汗と涙と鼻水と涎で顔をぐしゃぐしゃに濡らして放心状態になった私は
《……あ……そういう……》
最後の力で右手を頭上いっぱいに振りかぶり
《……コト……》
自分の左腕めがけて勢いよく鉈を振り下ろした──……
──ひっ、と自分が小さく息を吸い込む音で目を覚ました。
あたりは真っ暗で、どこにいるのか一瞬わからなくなる。数回まばたきをすると、私の瞳は大きな正方形がいくつも描かれた灰色の壁を映した。素早く両目を左右に往復させ、今いる場所を確認する。
まわりはピンク色のカーテンに囲まれていて、灰色の壁に見えたのは実際は白い天井で、廊下から漏れ入ってくる電灯のかすかな光が、暗い部屋にある白を灰色に見せていただけだった。
ようやく病室にいることを認識し、安堵のため息が口から漏れる。
(はぁ……夢かぁ。……あっ!)
私は勢いよく頭を上げると、左腕を見た。
(──ある。良かったぁ……。それにしても、やな夢……)
酷い悪夢だった。全身から力が抜け、また枕に頭を落とす。静かな病室の中で、まだ正常なリズムを刻まない自分の心臓の音だけがバクバクと鼓膜に響く。胸に手を当てると、パジャマ代わりに着ていたTシャツが肌に張りついた。喉元にずらした手を、わずかに汗が湿らせる。
(初日からこれじゃ、先が思いやられるなぁ……)
枕元に置いていたタオルで額と首から胸までを拭い、再び目を閉じる。まだはっきりと脳裡に焼きついている映像は、夢だとわかっていても私を身震いさせた。私はよく夢を見るほうだが──嫌なことがあった日の夜はとくに──、こんなに鮮明に残っているのは珍しい。
時間が経ってもなかなか消えない悪夢に、「あの黒い腕は誰だったんだろう」とつい真剣に考えてしまっていたが、そうしているうちにいつの間にか眠っていた。