決意
──耳元でけたたましい音が鳴り響く。
(……ん……)
いつの間にか眠ってしまっていた。時計はいつもと変わらず七時を示している。俯せのままアラームを止め、体を転がして仰向けになる。右手の甲を額に当てて短いため息をつくと、頭が冴えてくると同時に昨夜のことを思い出し、また少し涙ぐむ。
(……泣いたって、何も変わらないよ。──そうだ)
体を起こして携帯を探す。枕元に置いたまま寝てしまったので、枕の下敷きになっていた。恐る恐る携帯を開いてみると……何も来ていない。メールも、着信も。
(そうだよね……。たぶん余計、別れたいと思ったよね。だって一緒にいても、そのうち私、いなくなちゃうかもしれないんだもん。ただ別れるんじゃなくて、死に別れちゃうんだもん……)
肩が震え、目に溜まっていた涙が頬を伝う。泣くまいと努力しても、抑えきれずに溢れ出てくる。
──彼の優しさと笑顔に惹かれ、私の一方的な想いから始まった恋。
──初デートで見た、海や夕陽。彼と一緒だったから、あんなにも綺麗に見えた。
──二人も子供がいるのに付き合ってくれた彼。毎日が楽しかった。
──いつも優しかった彼。それに甘えた私。甘え過ぎた、私……。
シュウと出会ってからの出来事が、次々と思い出される。目の前には涙でぼやけた、真っ黒に塗りつぶされた携帯の画面。自分のものとは思えないほど掠れた声で、私は小さく彼に別れを告げた。
「バイバイ……シュウ……」
ひとしきり泣いたあと、病気と闘うための最初の気力を奮い起こす。まず、この腫れぼったい目をなんとかしなければ。
部屋のカーテンを勢いよく開けると、飛び込んできた真っ白な世界の眩しさに目を細めた。昨晩の雨は止んでよく晴れ、窓に残った雫がキラキラと光っているのが綺麗だ。
顔を洗う前に、子供たちの寝顔を覗く。小さな寝息を立てて気持ち良さそうに眠る二人は、まるで天使のようだ。
(頑張らなきゃ……強くならなきゃ。生きなきゃ!)
何度も心の中で繰り返しながら、いつもより長く、そして強く顔を洗い、鏡に映る濡れたままの自分の顔を見る。滴る雫はもう、涙なのか水道の水なのかわからない。
(──もう大丈夫。いこう)
タオルを顔に当て、優しく香る洗剤の匂いをゆっくりと吸い込んだ。もう一度鏡を見て、泣いた跡が消えたのを確認してから子供たちのもとへ向かった。
「ユヅキ〜、ジョウ〜。朝だよ〜」
二人の寝顔もしばらくおあずけ。もう少し眺めていたかったが、病院へ戻るまではできるだけ遊んであげたい。もっとも、休日に早く起こされる子供たちは迷惑がるかもしれないが。
「う〜ん……。ちゃーちゃん、おはよ〜……」
口をいっぱいに広げて大きなあくびをし、眠たそうに目を擦りながらユヅキが起きる。つられてジョウも一度は目を覚ますが、寝返りを打ってまた瞼を閉じてしまう。
普段と何も変わらない、可愛いだけの二人。こんな病気になったのがこの子たちじゃなくて、本当に良かったと思う。
「おはよ、ユヅ。今日はいい天気だよ。どっか遊び行こっか!」
「うん、行く〜」
「じゃあ朝ごはん食べて、早く行こっ」
「は〜い」
朝食の準備──今日は簡単に、トーストに目玉焼きで済ませた──も終わった頃、父も新聞を片手に椅子に座り、ユヅキがジョウを起こしてきて揃って食卓につく。
ユヅキはパンを小さくちぎって、ジョウに食べさせるのが好きだ。
「ユヅもお姉ちゃんになったね」
「うん!」
何度も言ったセリフだが、ユヅキは言われるたびに喜ぶ。それを見て私も、こんなに弟思いのお姉ちゃんはいないだろうな、と親馬鹿に微笑む。
不意にテーブルの隅に置いていた携帯が鳴り、意識を子供たちに向けていた私は少しびくっとした。
(こんな早くから誰だろ。──もしかして……!)
携帯を開くと……思ったとおり、シュウからのメールだった。慌ててメール画面に切り替える。
『昨日はごめん。正直、なんて言っていいかわからない。
でも、サユが大きな病気に立ち向かおうとしてる時に、あんなこと言ってごめん。
何ができるかわからないけど、昨日のメールを見て俺も頑張っていこうと思ったよ。』
──出し尽くしたと思っていた涙が、また溢れそうになる。私は急いでトイレに逃げ込み、そこで泣いた。
(ごめん……ごめんね、シュウ……。ありがとう……ありがとう……)
彼のことを、何もわかっていなかった。わかったような真似をして、勝手に悲しんでいただけだった。彼だって悩んでいたんだ。あんなことを急に言われたら、誰だって悩むだろう……。
すぐにでもシュウに電話をしたかったが、時計を見て仕事が始まる直前に送ってくれたメールだとわかり、そのまま返信だけすることにした。いろいろと伝えたい気持ちはあったがうまく言葉にできず、短い文章の中に『ありがとう』と何度も打って、精一杯の想いを込めて送信した。
シュウのお蔭で、昼間はとてもすっきりとした気分で子供たちと遊べた。とはいえ、日ごとに疲れやすくなっているこの体では十分と二人に付き合えず、あとはベンチに座って休みながら、時折「ちゃーちゃーん!」と手を振る二人に応えることしかできなかった。
しかし元気な子供たちを見ていると、明日からのことなど考えずに楽しい時間を過ごせた。
夕方になり、病院へ戻らなければならない時間になった。昼間たくさん遊べたからか、子供たちは一昨日ほど悲しい表情を見せなかった。それを見た私は安心して、自然な笑顔で「またね」と言うことができ、そうすることで二人も安心したようだった。
その晩、病室でシュウからメールの返信があった。時間が遅かったので電話はできなかったが、何度かメールのやりとりはした。声が聞きたいという気持ちはもちろんあったが、朝のメールで伝えきれなかった想いも言葉にできたし、何より彼とまた繋がっていることが心強かった。
ひとりで頑張らなくていい──。そのことが今の私に、何倍、何十倍もの勇気を与えてくれた。
シュウがいる。子供たちがいる。
(生きるんだ)
朝よりも強く、決意に満ちた気持ちでそう思えた。