2-3 フィリスは敵を知らない
「それにしても、ディルさんに気に入られるなんて、フィリス様はさすがですねえ」
「そんな……気に入られるようなことは、特に何もしていないんですよ」
「そうかもしれませんけどお、ディルさんって怖いんですよ。あたしが水汲みにいくと厨房を出るまでずっと見てくるんです」
「へえ、そうなんですか」
「水を汲んだ桶って重いじゃないですかあ。一回転んでシルヴァン様のお食事にぶちまけたことがあるんで、あたしも悪いんですけどー。でももう何年も前のことですよお?」
あれほど料理にこだわるディルが、食事に水をぶち撒かれたらそれは怒るだろう。完全に自業自得なリサの話に苦笑しつつ、フィリスはされるがままに新しいドレスを着せられる。
ここへ来てから、同じ服を着たことがない。どれだけあるのだろう。戦場では同じ服を着続けていたフィリスは、こんなことにも贅沢を感じてしまう。
(私ばっかり贅沢をして……皆のためになることをしなくちゃいけないわ)
戦場で今も身嗜みなど二の次な生活を送っている仲間を思えば、その気持ちは使命感に結びつく。と言っても、今のフィリスにできることは優雅なジャム作りくらいなのだが。
「フィリス様、お茶を飲みましょう。厨房でお湯を貰ってくるので、少しお待ちくださいねえ。ディルさんったら、お湯くらい自分で沸かせるのに、あたしには何にも触らせてくれないんですよお」
火の周辺を触らせて何かあったら大惨事だからだろう。ディルの思惑に大いに共感しつつも、フィリスは口には出さずにリサを見送る。身の回りの世話を何でも巧みにこなすリサだが、厨房周りには弱いらしい。
(人には得手不得手があるものね)
気付けば魔人のことを「人」として扱っているフィリスだったが、あまりにも自然な心の動きで、本人もそれは自覚していないのだった。
リサを待つ間、ぼんやりと窓の外を眺める。何度見ても不思議な光景だ。窓からは陽が射してくるのに、外に見えるのは瘴気の壁である。
(……あら? あれは……)
黒い霧のような瘴気に埋められた外の景色に一点の鈍色が混ざる。見間違いかと思って目を擦ったが、その点は徐々に大きくなる。完全な円ではなく左右に羽を広げた形。鳥を模した流線形の体の下に荷物を下げている。見慣れた姿に驚き、フィリスは慌てて窓に駆け寄った。開けると同時に、ひゅん、と風を切る音がして部屋に飛び込んでくる。フィリスはそれを胸の前で捕まえた。
「……配達鳥じゃない」
鳥型の魔導具である。戦場では見慣れたものだ。頭の部分の空洞に相手の体の一部を入れると、その人目掛けて飛んでいくという優れもの。騎士の家族には無償でいくつか与えられるため、差し入れや手紙を持たせて戦線まで送ってくるのだ。
「でも……誰が私に?」
聖樹の根本で生まれたフィリスに、家族はいない。差出人を確かめるため、魔導具の下方に着けられた荷物を外そうとして……フィリスは顔を顰めた。
「瘴気の影響ね。酷いことになっているわ……」
元は銀色に輝いていたのだろうボディは、すっかり錆び付き鉄色の地肌が覗いている。荷物を包む布もぼろぼろで、少し指を触れただけで穴が開いた。
瘴気の中を通ると、あらゆるものが腐り落ちる。フィリスの聖なる力がないとこうなってしまうのだ。
聖なる力をもってしても抗えなかったシルヴァンのあの瘴気、あれを浴びたらどんな見た目になってしまうのだろう。考えると怖気が走り、フィリスは頭を揺らして嫌な想像を振り払った。
布の中に入っていた紙は、ぎりぎり腐食を免れていた。少し黄ばんだそれを広げて見る。
「リナルドの字ね」
少し右上がりの癖がある字は、フィリスの見慣れたものだった。戦場で長い時間を共にした仲間、第二王子リナルドのものである。
「相変わらず何を書いているのかよくわからないわねえ」
彼との別れもたった数日前だというのに、もう懐かしさを感じる。こんな風に長々と何を書いているのかわからない手紙を出してくるのは、彼の常だった。
フィリスは一応中身に目を通してはいたが、何やらごちゃごちゃ装飾を重ねた文章は意味が分からず、適当に読み流すことが多かった。本当に大切な用なら直接言ってくるだろうと思っていたのだ。何しろ、リナルドは自ら戦線に臨み、フィリスと共にずっと行動していたのだから。
大体、手紙を渡してきた翌日に「読んだか? どうだった?」と妙にそわそわした様子で聞いてくる。「嬉しい手紙をありがとう」と答えると喜ぶので、フィリスはそう言うようにしていた。
しかしここではリナルドには会えない。魔王城へやって来たフィリスにわざわざ送ってきたのだから、さすがに重要な内容の手紙だろう。フィリスは鏡台前の椅子に腰掛け、真剣な眼差しを手紙に向ける。
『あの日、愛しき花が己の手から離れて行くのを見る他なかった無力な剣は喪失の沼に沈んだ。国を照らす聖樹の光に翳りはなく、花の命が繋がっていることのみが暗き沼の底に射す一筋の光。剣と花を繋ぐ愛の糸を頼りに、この文が矢となって闇を切り裂かんことを願って送る。……』
ここまで読み、フィリスは眉間を押さえて俯いた。リナルドの手紙はいつもこうなのだ。どこから本題かもわからない。
少し休憩してじっくり読もうと手紙を鏡台の引き出しへしまったのと、扉が開いたのは同時だった。
「お待たせしましたー。……あれえ、フィリス様、それ何ですか?」
「えっ? あっ、これは……!」
外から連絡が来たなど、知れたらまずい気がする。慌てるフィリスが制止する前に、入って来たリサは床に落ちた配達鳥の側へ屈み、不思議そうに眺める。
「鳥の形……おもちゃにしては可愛くないですねえ」
(あれ? 知らないんだ……)
リサの反応は、これが配達鳥だとは知らない人のものだった。安堵すると同時に、違和感を覚える。魔導具は、人々の生活になくてはならないものだ。水を出すにも火をつけるにも、何をするにも必要である。配達鳥だってよく空を飛んでいるから、知らない、見たこともない人などいない。
「これ、フィリス様のですかあ?」
「あ……そうなんです。どこかに飾っておこうかと思って」
飾るとして、どこから持って来てどこにしまっていたのか。突っ込みどころしかないフィリスの嘘だったが、リサは「へえ、そうですかあ」と疑いなく受け入れてくれた。
「どこに飾りましょうねえ。思い出の品ですかー? 見えるところにおいた方がいいですよねえ」
「……いえ、そこにあるだけでいいので、端っこのほうでいいですよ」
「それならー、部屋の雰囲気にあんまり合わないので、このへんに隠す感じで置いちゃってもいいですかねえ」
「はい、そうしてください」
(良かった……!)
リナルドから連絡が来たことについては、怪しまれずに済んだ。フィリスはひとまず胸を撫で下ろす。もっと慎重にしなければならやかった。あの手紙は夜、リサと就寝の挨拶をしてから読むことにしよう。
***
「おやすみなさあい、フィリス様」
「おやすみなさい、リサさん」
夜である。就寝の挨拶を交わすと、蝋燭の灯りを消してリサは部屋を出る。フィリスは足音を立てぬようこそこそ寝台を抜け出し、鏡台の引き出しを開ける。手紙を取り出し、開いた。
(何も……見えないわ……!)
月明かりは窓から射し込むが、ほんのりと明るい程度で字がよく見えない。窓辺に近寄り、僅かな光で目を凝らしたが『愛しき花』という文字しか判別できなかった。愛しき花はもういい。リナルドが花を好きであることより、今は本題が知りたいのに。これでは無理だ。
諦めたフィリスは鏡台の引き出し奥深くに手紙を戻し、すごすごと寝台に帰る。あの手紙を読むために、どうしたらいいだろう。
夜リサが出て行く時、「今夜は少しやることがあるから蝋燭の火は点けておいてくれ」と頼むか。しかし理由を問われたらうまく答えられないし、いつもと違う行動を怪しまれても困る。明るいうちに読むしかないだろうか。部屋でひとりになれる機会があればいいのだが。
「うーん……」
思考を巡らせながら、フィリスはごろりと寝返りを打つ。読書灯があれば、こんなことで迷わなくていいのに。あれは便利な代物だ。小さな範囲にだけ、字が読める程度の明るさの光を投げかける魔導具である。布団を被って使えば光も漏れ出さないため、恋人に手紙を書く騎士は寝床に読書灯を持ち込むのだ。
(そんなものがあるとは思えないわね……)
何しろ、城内の夜の照明はどこを見ても蝋燭ばかりだ。そもそもこの城の中で、魔導具を見たことがない。魔導具を知らないリサといい、手作業で全てを行うディルといい、魔導具の存在そのものが無いようにも思える。
なぜ魔導具を使わないのだろう。そんな疑問を抱えたフィリスは、翌日厨房で、ディルに聞いてみることにした。
「ディルさんは、どうして料理に魔導具を使わないんですか?」
「そうですねえ……お嬢さんは、どんな時料理に魔導具を使うんですか」
鍋で食材を煮ているディルに質問を返され、フィリスは少し考えた。作業台の上にはクッキー生地が平らに伸ばされている。ディルが作った木製のクッキー型を生地に押し付け、型抜きをする作業の途中である。
型を押し込むと、少しの抵抗を感じた後に生地が抜ける。ディル特製の木枠は、抜かれた生地の中央が凹む。ここにジャムを入れるらしい。
「例えば……この生地を作るためにさっき水を汲みましたが、水を生み出す魔導具はいろいろあります。ここは湧き水があるのですぐ汲めますが、そうではない場所で料理をする場合には汲みに行く手間が省けます」
「そうなのですね。他にはありますか」
「ええと……クッキーを焼くときには、焼き器が使えます。火は魔導具が生み出すものなので、このかまどみたいに薪を使って火加減を調整する必要はありません。決められた時間放っておけば焼き上がりますから、その間に他の作業ができます」
「つまり、魔導具は手間を省くためにあるのですね」
「はい、そういうことです」
「では、ぼくの仕事に魔導具はいりませんね。あったら困ってしまいます」
魔導具があって困る仕事などあるだろうか。よくわからなくてフィリスが首を傾げると、ディルは穏やかに微笑んだ。
「ぼくは作物の管理と坊ちゃんの料理を作ることに専念したいと思って、マレーナ達に仕事を振り分けています。もしぼくが魔導具を使ったら、自分の仕事にかかる手間が減って、城の皆さんへ食事を作る余裕が生まれてしまうかもしれません」
「生まれてしまう……? 余裕があるのは、良いことではないのですか」
「ぼくが皆さんの食事を作るようになったら、マレーナは何をしたらいいんですか?」
「それは……他の仕事を」
「魔導具があったら、他の仕事も手間が減ってしまいますよね。一部の人員で仕事が回るようになったら、手が空く者が出て来てしまいます。それでは困るのですよ」
「なぜですか?」
手が空く者がいれば、さらに多様な仕事へ振り分けられる。そのような余裕を生み出すのに、魔導具は便利だというのに。
「ぼく達はこの城にずっと居なければならないのに、仕事もなかったら暇すぎて気が塞いでしまうじゃありませんか」
「この城にずっと居なければならない、ですか」
魔人達は魔王城から出られない。そういう考え方をしたことがなかったので、フィリスはその意味を確かめるように復唱してみる。
「……それは、角があるからですか?」
「ええ。ぼくの角は立派なものでしょう。マレーナの角もしっかりしています。アリャとサムはまだ子供なので角も小さいですが、いずれ大きく育つでしょう。ぼく達みたいに角がしっかりしている魔人はどう頑張っても角を消せないので、外にも出られないんですよ」
「……それって、角を消せる人もいるってことですか?」
「ええ、力の弱い者は角が小さいですから、消すことができますよ。そういう者は城を出て街に住むんです。ですが、街もそう住み心地の良い場所ではないそうで……自ら望んでここに残る者もいれば、ぼくのように居ざるを得ない者もいます。昔ぼくの師匠がどうしても外のドーナツを食べたくて街に出たら、角を見るなり大騒ぎになったと聞きますよ。そんな騒ぎの中心になりたくはありませんからねえ」
「そうなんですか……」
角を消せる魔人が居て、街で暮らしている。それはフィリスにとって驚くべき事実だった。隣人が魔人かもしれないと想像しながら暮らしている人など、ひとりも居ないに違いない。
「幸いにしてこの城は広いですから、ここに暮らしたい魔人全員が生活するだけの空間はあります。けれど、掃除や洗濯をするにしたって仕事は限られていますからね……限られた仕事を、できるだけ多くの手で分担しているんですよ。誰かのために役立っているという気持ちが、生活に張り合いをもたらすでしょう?」
「……確かに、そうですね。魔導具が要らない理由がわかりました。教えてくださってありがとうございます」
「いえいえ、お役に立てたのなら何よりです」
新事実の発覚に受けた衝撃はともかく、ディルの説明は理解できた。人手を節約する必要のないこの魔王城に、魔導具は必要ないのだ。
「お嬢さんも大変ですね。ぼく達の暮らしは、外で暮らす人間の皆さんとは大きく異なるのでしょう。いくら坊ちゃんに惚れ込んだからって、そうすぐには慣れないのではありませんか」
「はい、なかなか慣れませんが……でも」
ディルと話して、魔人達の暮らしぶりを知った。何人もの魔人達と触れ合ううちに、彼らの人となりを知った。この数日間の経験を振り返りつつ、フィリスは続きを紡ぐ。
「魔人の皆さんのことを知れて嬉しいです。もっとたくさんのことをお聞きしたいですし、いろいろな話をしてみたいと感じます」
魔獣を送り込んでくるだけの敵だと思っていた魔人達にも、気持ちがあり考えがあり、生活がある。彼らについて知っていくことで、シルヴァンにどう持ちかけたら戦争を終えられるか、考える手掛かりも得られる気がする。
それに、彼らについて知るのは純粋に興味深い。人と話すのは好きなのだ。新たな考えを知ると新しい自分になれる気がする。魔王城で聞けるのは新しい話ばかりだから、聞いていて飽きることがない。
「相手方の家族に向かってそう言えるのだから、お嬢さんは素晴らしい伴侶になれますよ。ははっ、おふたりの結婚式が楽しみですねえ。……おや、型抜きは終わりましたか。では昨日作ったマルベリージャムを窪みに載せていってください」
クッキーの焼き加減はまあまあであった。ディル曰く、「話し込んでしまったせいで生地がでれた」とのことである。次は喋らずに完成させることを約束し、今回の失敗作はシルヴァンではなく城の者達に振る舞われることとなったのだった。