1-4 グレアムの忠告
(お風呂、気持ち良かったなあ……)
暗くなった魔王城の廊下を、フィリスは足元に気をつけながら進む。壁に等間隔で設置された蝋燭が唯一の灯りだ。久々に広い湯船に浸かって体もすっかり解れたというのに、揺らめく小さな炎によって心まで緩んでくる。
移動式浴槽というものがあり、フィリスも何日かに一度、それには入っていた。戦場では、入浴と食事が英気を養うということで大切にされていたのだ。しかし、あまり大きいと移動しにくいからだろうか、筒状の浴槽は腕を畳まないと入ることができなかった。それに比べ、この城の浴槽は聖教会のものと遜色ないほどに広い。しかもそれを独り占めにできるというのだから、フィリスの満足感は格別であった。
(こんなに良い思いをしていていいのかしら)
夜の闇に浸っていると、夜営での見張りの時間を思い出す。魔獣は昼夜問わず襲ってくるため、夜番を立てるのだ。
今だって、皆寝心地が良いとは言えない寝台で眠り、昼夜関係なく討伐にあたっているはずだ。それを思うと、魔王城にありながらのんびり過ごしていることが申し訳なくなる。
(私も、何かしなくちゃいけないわね)
そもそも、瘴気の壁を抜けて魔王城へ到達することは、フィリス達の目標のひとつだった。魔王城へ乗り込み魔王を倒せば、長きにわたって続いた戦争がいよいよ終わると信じていたのだ。
その願いに変わりはない。200年に渡るという人魔戦争を終わらせ、平和な国を成したい。リナルドと共有した願いを叶えたいという思いは、フィリスにもまだある。
(ここにいるからこそ、できることはきっとあるはずだわ)
魔王城にいるからこそ、シルヴァンと直接話せるからこそできることは、きっとある。フィリスは自分の命のためだけではなく、皆の命を背負ってここにいるのだ。そのことを忘れてはならない。
何から始めたら良いだろう。思いを巡らせながら自室に到着すると、部屋の前に黒い影が見えた。蝋燭の灯りだけでは誰だかわからない。「聖女様」と呼びかけてくる低く凛とした声で、グレアムだとわかった。
「グレアムさん、どうされたんですか?」
「……風呂の加減はいかがでしたか」
「とても気持ち良かったです」
少ししか接していないが、グレアムの有能さは何となく伝わっている。彼が無意味にフィリスの部屋の前で待つとは思えない。一体何の用だろう。薄暗い中では表情もよく見えず、顔色を窺うことはできなかった。
「……あなたは人間であり、我らが同胞を長年闇に返してきた聖女であります」
「……はい」
フィリスは緊張し、肩を僅かに強張らせる。
シルヴァンは何故だかフィリスを受け入れてくれたが、グレアムの反応こそが自然なのだ。フィリスは、彼らにとって明白な敵である。恨まれていてもおかしくはない。
「魔王様はお優しいのです。たとえあなたが人間で、聖女であろうと、ご自身を慕う者には慈悲をお与えになります」
「……そうですね」
あんなに何度も無慈悲に殺されたのに、愛していると叫んだ途端、シルヴァンの態度は軟化した。それが優しさゆえだと言われれば、そうなのかもしれない。
「あなたが何を目論んでいるのか知りませんが……魔王様に危害を加えようとするのなら容赦はしませんよ」
ただでさえ低い声が地を這うように低くなる。背筋を震わせる冷たい声。それは警告だった。
「万が一のことがあれば、全てを尽くして報復します。心しておきなさい」
言うだけ言って、グレアムは方向をくるりと変える。彼のしゃんとした後ろ姿が、闇の中へ消えていった。
(暗殺か何かを企てていると、そう思われているのね)
だから警告に来たのだ。彼の警戒は真っ当だとフィリスは思う。実際、この城への侵入が叶ったことで、魔王を倒して戦争を終わらせる……という想像が、全く過ぎらなかったわけではない。しかし。
(命を奪うなんて無理だわ)
フィリスは既に、そう結論付けていた。
まず、シルヴァンの力は強大すぎる。聖女ゆえに瘴気に強いはずのフィリスをすら呑み込み、殺めるほどの瘴気。あれを生み出せるシルヴァンの命を奪うことは、そう容易いことではない。
それに何より、人殺しはできない。
フィリスが今まで戦場で相手してきたのは、波のように押し寄せる魔獣達だった。知性を感じさせないぎらついた瞳や剥き出しの鋭い牙、唾液を撒き散らして吠えかかる様は正気を失った獣のものに他ならなかった。言葉なんか通じない、油断すれば襲われて死ぬ。だから、皆の命を守るために彼らの魔石を射抜くことに呵責は感じなかった。
しかしシルヴァンは違う。シルヴァンだけでなく、城で出会ったグレアムやリサ、ディルという魔人もそうだ。言葉を交わし分かり合える相手の命を奪うなんて、「命を慈しめ」と教えられてきたフィリスには考えられない。
(安心してください。殺すことなんて絶対にしませんよ、グレアムさん)
グレアムが消えた闇に向かって心の中でそう伝えてから、フィリスは自室の扉を開けた。
「フィリス様、おかえりなさいー。お湯加減はどうでしたかあ?」
「気持ち良かったです。あんなに広いお風呂に入ったのも久しぶりで、つい長湯してしまいました」
「ですよねえ、あたしも毎日お風呂に入るのが楽しみなんですう。……あはっ、いいですねえ。しっかりお風呂に浸かったから、お肌がもっちもちですよお」
流れるように鏡台の前へ座らされ、頬の感触をふにふに、指先で押して確かめられる。相変わらず、よく回る口以上によく働く手だ。傍の棚から小瓶を取り出し、リサはその柔らかな手のひらに香油を伸ばす。
「これは、お肌に水分を閉じ込めて、朝までもっちもちにする効果があるんですう。ついでにマッサージもしますねえ、お顔のむくみが取れるのでー」
香油を塗った指が頬に触れたかと思うと、柔らかなタッチでぐいい、と肉が持ち上げられる。それが全く痛くないのだ。むしろ心地良い。頬肉だけでなく、目の周りや額、顎先から首筋まで、リサの指が丹念に流してゆく。
「……気持ち良いです……」
「ですよねえ。あたしも以前ライラ様にして頂いたんですけど、あんまり気持ち良くって、途中で寝ちゃいましたあ」
「わかります……」
顔が蘇る感じ、と表現したらいいのだろうか。香油の馴染んだ肌はぷるぷると照り光り、顔全体の筋肉が解放されたように軽い。リサの指が触れた先からぽかぽかして、顔だけでなく全身が解れていく気分だ。
「終わりましたあ。鏡、見えますかあ? 可愛らしさに磨きが掛かりましたよねえ」
「……すごい、ですね」
部屋の灯りは蝋燭だけ。かなり薄暗い中ではあるが、その中でもはっきりわかるほど顔つきに変化があった。目はぱっちりとし、顎周りがしゅっと引き締まった気がする。
「次は髪を手入れしますねえ」
頭皮に触れるように指先が差し込まれ、やや強い手付きで揉み込まれる。これがまた、たまらない感覚だった。凝り固まった頭の奥が柔らかくなっていく気分である。
「……リサさん」
「はあい、何でしょうか?」
鏡越しのリサと、フィリスは目を合わせる。
「シルヴァン様は、何がお好きなんでしょうか」
「シルヴァン様の好きなもの、ですかあ?」
「はい。私にできることで、喜んで頂けたらと嬉しいなと」
「うーん、シルヴァン様の好きなもの……ライラ様ならご存知かもしれませんが、あたしはあんまり詳しくないんですよねえ……少し考えさせてくださあい、思い出したら伝えますう」
「はい、ありがとうございます」
これがフィリスの当面の作戦であった。
幸いなことに、シルヴァンとは言葉を交わせる。もしかしたら、話し合いによって戦争を終わらせられるかもしれない。しかし性急に終戦を打診すれば「そのために愛を嘯いたのか」と思われてしまうだろう。その先に待つのは死。慎重にならなければならない。
だからまずは、彼への愛が本物であると認めてもらうこと。シルヴァンだけでなくグレアムも納得するような愛を示せれば、フィリスの話も聞き入れてもらえるかもしれない。
(好きなものを贈って喜んでもらえたら……少しは私の愛を信じてもらえるかも)
騎士達の中には、愛する恋人や妻を持つ者も何人もいた。彼らが限られた時間の中で、相手を喜ばせようと手紙を書いたり魔導具を作ったりしているところをフィリスは見てきた。愛する人を喜ばせたいと思うのが、普通の心理なのである。
シルヴァンを喜ばせたいという姿勢を見せることで、彼への愛を信じてもらう。人魔戦争を終えるという願いに向かって、今のフィリスにできそうなことはそこからだった。