7-2 誤解
「フィリス様ー、鏡を見てくださいってばあ」
「ああ、ごめんなさい、つい」
「外に何かあるんですかあ? あたしには、いつもと変わんないくらーい景色しか見えませんよー?」
身支度を整えてくれるリサにもう何度目かの注意を受け、フィリスは謝りながら顔を鏡台に向ける。
「……フィリス様ったら、また外見てますう」
「ごめんなさい……ちょっと気になって」
「何かあるんですかー? ほんとにもう、困っちゃいますよお」
「何にもないわ、ごめんなさいね」
城で暮らす魔人達に事細かに伝える必要はないということで、リナルドとの詳しいやりとりの内容はリサ達には伏せられている。謝るフィリスだったが、自然と視線は窓に吸い寄せられる。
瘴気の壁の向こうへリナルドを送り出して、既に3日以上経つ。リナルドは3日おきに配達鳥を送ると言っていたのに音沙汰ないので、フィリスは気が気ではなかった。
(大丈夫だと思うんだけど……)
何より、リナルドにはあの聖樹の涙を託してある。命を落とすことはまずないはずだ。わかってはいても、心がそわそわとざわめく。
「落ち着かない様子だな」
食事中にもしきりに外へ視線を向けるフィリスを見かねたのか、シルヴァンが声をかけてくる。
「はい。大丈夫だとは思うんですが……万が一のことがあったらと思うと、居ても立っても居られなくて」
「万が一の時のために指輪を託したのだろう?」
「はい。……その万が一も、なければいいのですが。死の瞬間は苦しいですから」
フィリスの頭に、あの時何度も繰り返した死の瞬間が蘇る。瘴気に包まれ胸が潰れる死の感触は、思い出すと背筋が震える。
遠い目をして過去に思いを馳せるフィリスは、隣のシルヴァンが何か言いたげな眼差しをじっと向けていることに気が付かなかった。気持ちを整えるためのたっぷりとした沈黙を取ったあとで、シルヴァンはフィリスの肩をつん、と指先で突いて気を引く。
「おい」
「あっ……すみません、ぼーっとしてしまって」
フィリスの瞳に一瞬宿った怯えの色は、す 彼の青い瞳を見るとすぐに消え去る。フィリスを何度も殺したシルヴァンは、ここにはいないのだ。フィリスの前にいるのは無慈悲な魔王ではなく、優しくて皆に慕われるシルヴァンなのだ。
安堵するフィリスとは裏腹に、シルヴァンは沈痛な面持ちで眉間に皺を寄せる。
「やはりお前は、死の瞬間を知っているのか」
「えっ? あ、いえ……その」
シルヴァンの問いかけに一瞬置いて、フィリスは己の失言に気づく。反省した時には、もう遅かった。シルヴァンは、フィリスの瞳の奥を真っ直ぐに射抜く。
「お前を殺したのは、俺なのだな」
質問ではなく、それは確認だった。彼の放つ真剣な雰囲気に飲まれたフィリスの首が、自然に、こくりと頷く。
肯定。
シルヴァンはそれを確かめると、視線を己の手に落とし、深く長く息を吐いた。
「……婚姻は、白紙に戻そう。幸いにして俺達は、まだ寝室を共にして居ない……ああ、お前がそう仕向けたのか」
再度視線を持ち上げ、シルヴァンはこの場に似つかわしくない微笑を浮かべる。その笑みは、何とも寂しげだ。
「俺はもうお前を殺せない。城を出て幸せになると良い。本当はあの男を愛していたのだろう? 演技が上手いな……すっかりやられてしまった」
笑顔で、何気ない会話のように紡ぐからこそ、その裏に隠れた絶望がひしひしと伝わってくる。
誤解だ。
彼にこんな、辛そうな笑顔を浮かべてほしくない。
言うべき言葉はまだ何もまとまらなかったが、そんな願いがフィリスの口を開かせた。
「違います!」
「もうよい。俺はもう、お前を殺せぬと言っただろう」
「それは知っています。そんなシルヴァン様だから、私も好きになったんです」
「またそれか……いきなり愛しているなどと言い出した訳にも、漸く合点がいった。殺されることを避けるため、自分の身を差し出したのだな」
「そうじゃなくって……」
言いながら、フィリスは覚悟を決めた。もう洗いざらい話すしかない。たとえその結果殺されてしまうとしても、シルヴァンのその辛い表情を、どうにか払拭したかった。
「……認めます、シルヴァン様。最初に『愛している』と言ったのは、確かに嘘でした。私は何度もシルヴァン様の瘴気に包まれて殺されて、それを何度もやり直して……どうにか、死の運命を変えたかったんです」
「……だよな。お前の口からそう聞けて良かった」
シルヴァンは噛み締めるように言い、つきものが落ちたような顔をする。
伝えたいのはそれではない。フィリスは首を左右に振り、言葉を続けた。
「あの時の私は、シルヴァン様のことを何も知りませんでした。この城に来て、皆に慕われていることを知りました。私の言葉を信じようとしてくれて、優しくしてくれて……そして私を、本当に愛してくれています」
「はは、そうだな。そうなってしまった」
自嘲的に笑うシルヴァン。彼の考えを変えるくらいの力を込めて、フィリスはぐっとシルヴァンを見据えた。
「私は……今では、最初に発したあの言葉が嘘だったことを悔いています。あんな嘘つかなければ良かった。初めから、本当の気持ちでシルヴァン様と触れ合えたら良かった」
「それは無理だろう。お前と対面した時点で、俺はお前達を殺そうと考えていたからな」
「ええ。でも今はそれも、不幸な行き違いだったとわかっています。差し向けられる魔獣は、人間の生活に必要なものであり、魔人達を守るためのもの。シルヴァン様なりの愛だったのに、私はあの時、それを憎しみで返そうとしていましたから」
「……俺だけではない。代々の魔王がずっと成してきたことだ」
「伝統を盲信するのではなく、シルヴァン様は自分で見極めようとしたんですよね。わかっています。そんなシルヴァン様を……好き、になったんです。確かに初めは嘘でしたが、今は本当なんです」
愛している。本来ならばそう言い放ってしまいたかったのだが、フィリスの喉の奥がつかえて言葉が出なかった。嘘だったその台詞を口にしたら、また何もかもが嘘になってしまう気がして。
「……嘘を真にしてしまうとは、お前らしい」
そう答えるシルヴァンの目から険しさが抜ける。伝わったらしい。フィリスの強張っていた肩からも、ふっと力が抜けた。
「シルヴァン様は、やっぱり私の言葉を信じてくれるんですね」
「ああ……信じないとお前は悲しい顔をするだろう? 俺は、お前にそんな顔をさせたくはないのだ」
「私もさっき、シルヴァン様には辛い顔をさせたくないと思ったんですよ」
「似た者同士なのかもしれぬな、俺達は」
「そうかもしれませんね」
そこで会話は途切れるが、二人の間には穏やかな空気が流れる。
(仲直りできたわ……)
フィリスの胸には、安堵と喜びが込み上げる。シルヴァンとの関係が悪化しなかったという、その点に喜びを覚えている自分に気が付き、フィリスは口元を緩めた。
死への恐怖、シルヴァンへの恐怖が動機なのではない。フィリスはとっくに、彼に思いを寄せていたのだ。
こつん、と軽い音がしたのはその時である。フィリスは音のしたほうを見やり、ぱっと立ち上がった。
「配達鳥!」
見慣れたフォルムの配達鳥が窓を突いている。駆け寄ったフィリスは窓を開放し、飛び込んできた配達鳥を受け取った。急いで包みを開き、手紙を取り出す。
「……そっか、王都からここまで届くのに時間がかかるのね」
手紙の冒頭に記された日付を確認し、フィリスは納得する。そういえば、騎士達に家族から贈られた手紙も届くまでに何日かかかっていた。
それから、フィリスは中身に目を通した。かつての装飾過多な文面は何だったのかと思うくらい、今回も読みやすい文章である。そこには、とにかく無事に城へ着いたということが書かれていた。思いの外行動を監視されているので、3日おきに連絡するのも無理かもしれないということも。
「その顔を見るに、良い知らせだったようだな」
「はい! 無事だそうです」
「……そうか」
シルヴァンは緩い笑みを浮かべ、フィリスの傍へ歩み寄る。背後から、フィリスの持つ手紙の文面を覗き込む姿勢だ。
「お前は以前、ライラに嫉妬したことがあったな」
「え……はい」
突然の指摘に少々戸惑うフィリスであったが、ライラの一件こそ、フィリスがシルヴァンへの思いを自覚した時である。思い出せば恥ずかしく、耳元で囁くシルヴァンの声が急に気になって耳の端が赤く染まる。
「ならば俺が今、何を感じているかもわかるな?」
「何をというのは……ひゃっ」
ひんやりした心地良い温度が、フィリスを背後から包み込む。柔らかな肉体の感触。自身の前面に回された腕を見て、フィリスは抱きすくめられているのだと理解した。
「な、な、な、何を」
「何を動揺することがある。夫婦なのだから、この程度の触れ合いは当然であろう」
「でも、でも、どうしていきなり」
「他の男の無事を喜んで、今までで一番の笑顔を見せられたのだ。嫉妬しない筈がなかろう」
「嫉妬……」
嫉妬するということは、そこに好意があるということ。改めてシルヴァンの思いを突きつけられれば、フィリスの胸はどきどきとうるさいほどに高鳴る。
「はは、急に熱くなったな」
耳元で笑われ、恥ずかしさとときめきと、感情が渦巻いてよくわからなくなる。とにかく一旦離してほしい。そんな気持ちで、フィリスは思いついた言葉をそのまま口走る。
「駄目ですってば……リナルドは今だって、危ない目に遭っているかもしれないのに!」
「奴は無事だぞ。俺が保証する」
「保証するって、どうして……」
「あの指輪には俺の角を使ったのだぞ。持ち主が危機を感じたら、俺の角と共鳴するように祈りを込めた」
「そうなんですか?」
完全なる初耳である。恥ずかしさも忘れてきょとんとするフィリスに、シルヴァンは頷きを返した。
「愛する者を守るためなのだから、当然だ。今のところ角は震えておらん。だから奴は無事だぞ」
「すごい……そんなことがわかるなんて」
深く感心するフィリスの言葉に、シルヴァンはやや不服そうに鼻を鳴らす。
「ふん。俺でも一生にひとつ作れるかどうかという品なのに、お前は簡単に奴に渡すのだから困ったものだ」
「それは……そんなものとは、知らなかったので」
「知っていても渡したであろう。俺も納得はしている。守れる命は守ってやるべきだ。……だが」
きゅ、とフィリスを締め付ける腕の力が強まる。
「それほどの思いを込めた大切なものを、こうも簡単に人へ渡された俺の気持ちを、お前は慰めるべきではないか?」
「すみません……ええと、何か、考えます」
「お前に任せたらまた菓子が出て来るに決まっている。菓子も良いが、俺の望みはそれではない」
シルヴァンの吐息が耳にかかる。こんなに近い距離になったのは初めてではなかろうか。いくら動揺していても逃げるわけにもいかず、フィリスは緊張で体を固くしたまま、ただシルヴァンの低い囁き声に耳を傾ける。
「今夜は寝室で、寝ずに待っていろ」
「えっ? 起きていればいいんですか?」
突然の夜更かし指示に驚くフィリスの反応に、呆れたシルヴァンはため息を吐いた。
「お前は本当に何も知らないのだな」
「……?」
「そんなところだろうと思っていた。俺がいちから教えてやる。覚悟しておけよ」
意味がわからずぱちぱちと不思議そうに瞬きするフィリスは、この晩シルヴァンにしっかりと思い知らされるのであった。




