フィリスの決意
「婚礼の儀は、準備が済み次第行う。グレアム、頼むぞ」
「……畏まりました」
ひどく苦々しい顔をしているが、グレアムは頷く。「フィリスが魔王を愛しているのなら、人間を滅亡させる必要はない」という魔王の説明は、彼にとって納得のいくものだったらしい。なぜだかわからないが、フィリスにとっては有難い話だ。
「ああ、紹介が遅れたな。こいつはグレアム。俺の腹心の部下だ」
グレアムは、無言でぺこりと頭を下げる。何も言わないのがせめてもの抵抗なのだろうということは、不機嫌さの滲み出る表情から伝わってくる。
「改めてグレアム、こいつが聖女……まだ名を聞いていなかったか。何という」
「フィリスです。家名はありません」
「フィリス……綺麗な響きの名だ。俺のことはシルヴァンと呼べ」
「はい……わかりました」
そうおいそれと呼び捨てにできるものか。そう思いつつも、フィリスは頷いた。繰り返し殺されるうちに芽生えたシルヴァンへの畏怖が、未だフィリスに敬語を使わせているのだ。敬意というよりは、敬遠である。
「フィリスの私室は、ライラが使っていた部屋でよかろう。グレアム、支度ができたら呼びに来い。フィリスには、ここで茶でも飲ませておく」
「自分が準備をします。魔王様のお手を煩わせるわけには」
「魔王の妻に相応しい部屋に仕上がったか、お前の目で確かめてほしいというのがわからんか」
「……っ! 失礼致しました。仰せのままに」
張り切ったのか、随分とキレの良い動きでグレアムが部屋を辞すと、部屋はシルヴァンとフィリスのふたりきりになる。
「……婚礼の儀に向け、やらねばならぬことがある。その首飾りを貸してくれ」
「首飾り、ですか」
「ああ」
シルヴァンが言っているのは、フィリスが首に下げている宝石のペンダントのことである。
「これは……」
フィリスは、一瞬惑う。
シルヴァンの放つ瘴気に何度も何度も殺されたあの時、フィリスの胸元で何かが壊れる音がした。間違いなく、この宝石が割れたのだ。
胸元に白く輝く涙型の宝石。フィリスが聖樹から生まれ出たとき、手のひらに握っていたという代物だ。何だかよくわからないが、とにかくフィリスのために聖樹が与えた加護だろうということで、ペンダントの形に加工されたものを幼い頃から肌身離さず着けている。
その加護は確かにあったらしい。フィリスが死ぬ度にこの宝石が割れ、死に戻ることができたのだから。死から守ってくれるこの宝石を、敵に囲まれた魔王城で離すのは恐ろしい。
「案ずるな、決して傷つけることはしない」
「……はい」
しかしそう言われてしまったら、断ることはできない。断るのに妥当なだけの理由が思いつけない以上、渡さなければ不自然だ。そうなれば、フィリスの愛が嘘であることなどすぐに見抜かれてしまう。
首から外したペンダントを差し出す手が震えそうになるのを、フィリスは腕に力を入れて堪えた。
「確かに預かった。大切に扱わせてもらう」
「よろしく、お願いします」
死を防ぐ宝石は、魔王の手に渡った。ここからは、ひとつの踏み間違いも許されない。フィリスの頬が緊張で引き攣る。
「……どうした? 妙な笑い方をしているぞ」
青い瞳で見据えられ、ひゅっと喉奥が鳴りそうになるのをフィリスはすんでのところで堪えた。
(愛する人に見つめられて、悲鳴をあげるはずないじゃない)
生き延びるために、人々を守るために今フィリスがしなければならないのは、全力でシルヴァンへの愛を表明することだ。皆の命を背負っていると思うと、強張った声帯も動き始める。
「愛する方とふたりきりになったら、途端に緊張してしまって」
「……ふうん、そんなものか。ほら、これを飲め。少しは解れるだろう」
「……ありがとうございます」
手渡されたのは、湯気の立つティーカップであった。薄緑色の茶は、青い香りを放っている。
そっと、唇を付ける。草原を思わせる爽やかな香りが、舌の上から鼻に向かって抜けた。
「あ……美味しい」
「だろう? ディルがホールで育てた草で作ったらしい。青臭いと厭う者もいるそうだが、俺は割に気に入っている」
温かく優しい風味の茶は、過度な緊張を解してくれた。カップを両手で包むと、じんわり広がる温もりが心地良い。
「美味いな」
「はい……」
沈黙である。発すべき言葉を見つけられないまま、茶を啜る音が微かに鳴る。
「……うむ」
茶を含む度、シルヴァンは僅かに口角を持ち上げ満足そうに頷く。時々響く、低く穏やかなその声が、気まずさのある沈黙をまろやかなものに変えてくれる。
(……妙に心地良いわ)
無理に話さなくて良いと言われているような、シルヴァンの呟き。フィリスの願望も反映されてしまっているとは思うが、この瞬間、執務室は穏やかで居やすい空気に満たされていた。余計な言葉を発したら雰囲気を崩してしまいそうで、フィリスは静かに茶を啜る。茶はぬるくなるほどに、ほんのりとした甘さを舌に伝えてきた。
コンコン、と扉を叩く音がしたのは、そこから程なくした頃だった。
「入れ」
「失礼致します」
相変わらずの機敏な動作で部屋に滑り込んで来たのはグレアムである。背筋を伸ばし、真っ直ぐにシルヴァンを見つめる。
「ライラ様の残した不要物を片付け、清掃まで終えました。いつでもお入りいただけます」
「わかった。夕飯まで暫くある。フィリスを部屋まで案内しよう」
「魔王様が行かれる必要はありません。リサを寄越しております」
「そうか。……では、任せよう。こちらへ」
「リサ! 入りなさい」
「はーい、失礼しまあーす」
のんきな間延びした声で返事があり、開いた扉の向こうから女性がひょこりと顔を出す。頬がぷくりと膨らむ柔らかな微笑を浮かべており、何となく親しみやすい印象だ。一見すると優しげな雰囲気のお姉さんだったが、よく見れば頭頂部に2本、親指くらいの長さの角が栗色の髪から覗いていた。
「シルヴァン様ー、ありがとうございますう。最近ライラ様が全然帰って来ないから、お部屋の掃除のしがいもなくて、暇で仕方がなかったんですよお。聖女様をおもてなしするっていう、大切なお仕事を頂けて嬉しいですー」
「フィリスは聖女として招いたのではなく、俺の伴侶として連れてきた。城のことをいろいろ教えてやってくれ」
「えっ! シルヴァン様のお嫁さん?」
両の手のひらを口元に当て、鳶色の瞳をくりくりと動かしてフィリスとシルヴァンの顔を見比べる。彼女の白い頬がぱっと染まり、笑顔を浮かべると胸の前で小さく拍手する。
「わあ……! おめでとうございますう。魔王様ったら、どうやって人間の聖女様と知り合ったんですかー? 馴れ初めをお聞きしたいですう」
「リサ。今はそのような無駄話をする時ではありません」
「あはっ、すみませーん。あたしったらお喋りだから、つい」
グレアムに注意され、舌をぺろりと出して後頭部を押さえる。そんなお茶目な仕草も似合う彼女は、フィリスを向き直り、しゃんと背筋を伸ばした。
「改めまして、聖女様……ううん、フィリス様! 侍女のリサですー、よろしくお願いしますねえ」
「はい、こちらこそ」
「わあ、声も素敵! ふふ、ふふっ、いーなあ、シルヴァン様のお嫁さん、可愛いなあ。……それじゃ、お部屋にお連れしてもいいですかあー?」
「頼んだ」
「はーい、お任せくださーいっ。どうぞ、フィリス様。こちらですー」
リサの案内で、フィリスは部屋を出て行く。残された男2人はどっと疲れた様子で顔を見合わせた。
「……ますますライラに似て来ないか? 彼女は」
「ライラ様よりはずっとマシです、魔王様。口はよく回りますが、仕事の手も早いので」
「ああ。リサに任せておけば心配ない。……先程のお前の剣幕では、世話係にも他の者を寄越すかと思ったが」
「……曲がりなりにも魔王様が伴侶と選ばれた方に、粗相をするはずありません」
ふい、と顔を背けるグレアムの態度に、シルヴァンはふっと唇を緩めた。
「それだからお前は頼れるのだよ、グレアム」
「……過分なお言葉に御座います」
***
(一度もこっちを見なかったなあ)
リサの後を歩きつつ、フィリスは先程のグレアムの様子を思い返す。彼の視線はシルヴァンとリサには向いたものの、フィリスのことは一瞥もしなかった。
認められないのは仕方ない。今までずっと争ってきたのに、いきなり現れて「愛している」などと嘯く人間を信じないのは当然の反応だ。グレアムだけでなく、ご機嫌に城を案内してくれるリサも、これから城内で会うかもしれない他の魔人たちも。
気は抜けない、と思った。どこで、誰が見ているかわからない。
「フィリス様は、魔王様といつからお知り合いなんですかー?」
「実は、つい先程なんです。城の前で初めてお見かけして……恥ずかしながら、一目惚れを」
「きゃあっ、一目惚れなんて素敵! それで伴侶にするって決めたんだから、シルヴァン様も一目惚れなさったんですね!」
「それは……どうでしょう。私が、一方的に愛をお伝えしただけですから」
「シルヴァン様だって一目惚れですよー、きっとそう。それにね、もしそうじゃなくっても、ライラ様が置いていった服はどれも綺麗で可愛いんです。あれをフィリス様が着たら、シルヴァン様も絶対にメロメロですよおー」
「そうなってくれたら、嬉しいです」
「あはっ、あたし張り切っちゃう。お部屋に急ぎましょ、夕飯までに着替えなくっちゃ」
だからこんな風に、誰の前でもシルヴァンへの「愛」を貫かなければならないと、フィリスは重ね重ね決意を固めるのであった。