第五幕
カーペットの上で気絶していたレイカは、うめき声のような音を上げると、床に手をついて体を起こした。長い髪に隠れた顔は青白く、生気もない。その上、不快感と混乱で満ちていて、重病患者みたいだ。彼女は息も絶え絶えといった様子で顔を上げ、窓の方を見た。カーテンが閉められているせいで部屋は薄暗いが、外はまだ明るい。カーテンの隙間からあふれる光からして、おそらくすでに正午を回ったのだろう。レイカは首を回し、机の上にあるデジタル時計へと目を転じた。それは、「13:55」と愛想もなく示している。彼女は、時計なんて見るつもりはなかったとでも言いたげに渋い顔をして、即座に時計から目をそらした。
外からは、彼女の注意を惹こうとしているのか、日常の音たちの大げさなまでに楽しげな歌声が聞こえてくる。しばらくの間、レイカは彼らの歌声に耳を傾け、呆けた顔で虚空を見つめていた。それを聞いているうちに、彼女の口角は次第にだらしなく上がっていき、肩は小さく揺れ始めていた。このまま放っておけば、今にも窓を開け放ち、彼らの一員として歌い出しそうな有様で――。と、レイカの肩から何かが滑り落ちた。彼女もその音と感触で我に返ったのだろう、先ほどまでの苦しそうな表情が戻ってきていた。
視線を落とした先にあったのは、支えを失ってクシャリと潰れたタオルケットだった。レイカは少し首をかしげながら、それを拾い上げて体を包みこんだ。そして、もう一度外から流れてくる合唱に耳を貸そうとした。が、その瞬間、ピコン、という通知音が携帯から鳴った。無機質なその音は、外の歓声を静まりかえらせ、内の沈黙を打ち破った。レイカはビクリと体を震わせた後、慌てて自身のスマホを手に取った。しかし、リョウからはもちろん、誰からのメッセージも届いていなかった。レイカは自嘲気味に笑い――、ピコン、とまた通知音。背後からだ。レイカは驚いた顔で勢いよく振り返る。そこにいたのは、リョウだった。いつの間に帰ってきていたのか、彼はベッドの上でうつ伏せになり、死人みたいに寝息も立てず眠っていた。
レイカは声も出なかった。口からは荒い呼吸のような吐息が漏れているだけだ。驚きのあまりというよりは、かれこれ十日も声を出していなかったからだろう。彼女の顔に投げ込まれた驚愕が、水面の波紋のように一通り行き渡ると、今度は歓喜の色が底から湧き上がり、その顔に広がった。レイカは砂漠でオアシスを見つけた旅人さながら、四つん這いでベッドに近寄った。よく耳を澄ませば、リョウからは微かに寝息が聞こえる。当然だが、本当に死んだわけではないようだ。眠っている恋人を一通り眺めたレイカの目は、彼の枕元で点灯している携帯電話のディスプレイへ、自然とフォーカスしていく。
“川端ランドの乾は極左らしい。犬を三匹も飼ってるからな”
ロック画面には、先ほど誰かから送られてきた、このようなメッセージの通知が表示されていた。ピコン、とリョウのスマホがまた鳴り、通知が追加される。
“ボストンに行った時の服って黒だったよな?”
何かがレイカの手に触れた。見ると、それは黒いボストンバッグだった。彼女の表情が凍りつく。レイカは緊張しながらもためらいのない様子でそのバッグをつかみ、ベッドの下から引きずり出した。そして、妙に迷いのない手つきでバッグのファスナーへ手を伸ばし――、
「レイカちゃん。ダメだよ、それは。君は絶対に触っちゃダメなんだ。」
レイカが驚いて顔を上げると、いつの間にか目覚めていたリョウと目が合った。彼はベッドに倒れたまま、顔だけレイカの方へ向けている。その顔にはまだ疲労が残っていたが、彼の声は寝起きだとは思えないほど、鋭くてはっきりとしていた。リョウは面食らって口を利けなくなっているレイカから、ボストンバッグを静かに取り上げた。
「なかなか帰れなくてごめん。いろいろ用事が重なっちゃってさ。」
恋人がそう言って曖昧に笑うのを見ているうちに、レイカの表情は少しずつ険しくなっている。リョウはスマホの通知を見て、手早くメッセージを返信すると、
「実はさ、急に仕事が入って。だから連絡もできなかったんだ、ごめん。」と続けた。
レイカが何も言わずに、ただひたすらにらみつけてくるせいか、リョウは彼女の機嫌をとろうとますます饒舌になっていた。
「炭鉱での仕事だったんだよ。ほら、レイカちゃんも前言ってたよね?炭坑夫って。あはは、大変だったなぁ。九州の方まで行くことになっちゃってさ。いやぁ、ツルハシが重くて、もう体中クタクタだよ。石炭とかのせいで顔も真っ黒になったんだ。ほら、俺の顔見てみて。分かる?あはは、シャワー浴びたから分かるわけないか――」
と、そこまでペラペラ話したところで、レイカがスッと立ち上がったため、リョウの言葉はそこで途切れ、彼の笑顔は引きつり、やがて困ったような、おびえたような顔になった。
「レイカちゃん?」
その呼びかけに答えるかのように、レイカは素早く動き、力尽くでリョウの腕にあったボストンバッグを奪い取った。およそ彼女のような可憐な女性からは、枯れ枝のような栄養失調の腕からは、想像もつかないほどの力だったようで、リョウは唖然と彼女を見上げている。が、すぐ慌てた様子で、
「触っちゃダメだって言っただろ!返してくれ!」と言った。
「どうして?」
確かにその言葉はレイカの口から発せられたものだった。しかし、彼女の声だとは到底思えない、しわがれた、老婆のような声だった。リョウはもちろん、レイカ自身もかなり驚いたようだ。彼女は何度か咳をして、再び言葉を紡いだ。
「ねぇ、私がどれだけ不安だったか、分かる?」かすれて不安定な声だが、いくらか元の声に近づいた。
「ごめん。暇を見つけて連絡すればよかったね。」
「この約一ヶ月間、私がどれだけ不安だったか、分かる?」
「…今回に限らず、仕事中の連絡をいつも無視してしまって、悪かったと思うよ、ごめん。」
それを聞いて、レイカはため息をついた。そして、
「ねぇ、このバッグの中を見れば、リョウ君がこの十日間、何をしてたか分かるのかな?」と言った。
「レイカちゃん、落ち着いて。悪かった、俺が悪かったから。だから、ね?そのバッグを返してくれないか?」
リョウは、凶器を持った犯罪者を説得する警官のようにそう言いながら、ゆっくりとレイカに近寄った。
「『川端ランドの乾は極左らしい。犬を三匹も飼ってるからな』。」レイカは出し抜けに言った。
「…どうしてそれを?」リョウの顔から血の気が引いていった。
「私ね、前の下宿が三条の方だったから知ってるんだ。川端通りにあるコインランドリー。川端ランドって、それのことかな?」
「俺のスマホを勝手に見たんだね?」
リョウがまた一歩前に出て、レイカは一歩下がる。
「乾っていうのは、イヌイじゃなくて、乾燥機のカンのことで、極左っていうのは一番左、犬を三匹っていうのは戌の刻のうちの三つ目の時間だから夜の九時。どう?合ってるでしょ?私が代わりに行ってきてあげようか?」レイカは油を差し忘れた機械のようにぎこちなく笑いながら言った。
「頼むよ、レイカちゃん。君みたいな子は、そんなものに触れちゃいけない。」
「どうして?ただのボストンバッグじゃないの。それとも、この中に何か秘密があるのかしら?」
レイカはゆっくりとチャックに手を伸ばす。
「レイカちゃん!どうしてそんなに俺を困らせたがるんだ!」
「それはこっちの台詞よ!」
部屋の中が静まりかえる。外からは、我関せずと言わんばかりに白々しい笑い声。
レイカはただでさえ不安定な声を、より一層弱々しく震わせながら続けた。
「ここ一ヶ月間、どれだけ私が不安だったか、分かる?あなたが浮気してるんじゃないかなんて妄想してた頃が懐かしいわ。あなたに対する愛情を信じてやまなかった頃が懐かしい…」とうとう、レイカの目から涙が流れ出し、頬を滑った。「もうあの頃には戻れない。苦しいの!一度あなたを疑っただけなのに!…それ以来、疑いはどんどん膨らんでいった。今ではもう、リョウ君のことを犯罪者に違いないって思ってる。どれだけあなたが否定しても、私はこの疑心を止められそうにないわ。でも、だから苦しいの!全部私の疑心に過ぎないことが!心の隅に、ひょっとしたら私の勘違いかもしれない、なんて希望が残っていることが!」
そう言って、レイカは床にへたりこんだ。そして、
「最低よ、不安になってる私も、心配してる私も…。」とだけ吐き捨て、声を上げて泣き始めた。
どこにそれほどの元気と水分があったのか不思議になるほど、大きな声と大量の涙だった。リョウはレイカの腕からボストンバッグを優しく抜き取って放り投げると、彼女の背を強く抱き、頭をゆっくりと撫でた。やがて、頭を撫でる手は止まり、彼はレイカの肩に顔を沈めた。顔が見えなくなるほど、深く埋める。彼もまた、涙を流していた。
二人が泣き止んだ時には、もうすでに日が暮れていた。外の光が無くなったせいで、内にある全てのものが輪郭を失って溶け合っている。リョウはレイカから離れると、ベッドの上で無造作に横たわるバッグを拾った。レイカは壁にもたれながら、疲れ切った目で彼を見ていた。
「それじゃあ、行ってくるから。」リョウはバッグをしっかりと肩にかけて、言った。
「本当に行くの?」とレイカは返したが、その声に制止は含まれていなかった。
「うん。…そして、もう二度と帰らない。」
暗闇の中で光る二つの目がレイカを見た。リョウは続ける。
「レイカちゃん。俺なんかのために不安になってくれて、俺なんかを心配してくれて、ありがとう。そして、ごめん。君を裏切ってしまって。君の想像通り、俺は魂の穢れた犯罪者なんだ。」
レイカは何も言わなかった。闇に浮かぶ二つの光は、数秒だけ彼女を見つめていたが、迷いを振り切るかのようにすぐ視線を切り、リョウは暗い部屋の中を突っ切って玄関へと歩いていった。レイカは彼の方を振り返ることもなく、ただひたすら、先ほどまで光の漂っていた闇を、残像を見るかのように眺め続けていた。
私、どうしてだろ、今とっても安心してる。前と同じくらい、ううん、前よりもずっと、リョウ君のことが好きになってる。あはは、変なの。犯罪者かもしれないリョウ君より、犯罪者のリョウ君の方が好きだなんて…。
ああ、もっと早く気づいていれば。問題なのは、あの人が犯罪者かどうかなんかじゃない。あの人を疑ってしまう心だってことに。そして、元気と勇気があったなら…。そうすれば、この先も彼と一緒にいられたのに。ああ、リョウ君を追っかけなきゃ。今ならまだ間に合うかもしれないから。
それにしても、馬鹿ね、私。考えなしにあんな強攻策に出ちゃって、後先考えずに泣きわめいて。おかげでもうクタクタ。立つ体力も、這う気力もない。それに…、あはは、私って本当に馬鹿。ここに越してきて以来、大学とこの部屋を往復してばかりだったから、ここが何町かも分からない。何もかもリョウ君に頼ってばっかで、道だってろくに覚えようとしなかったから。あの川端通りのコインランドリーが、ここから北にあるのか、西にあるのか、どこにあるのかも分からないなんて、呆れちゃうわ。
私、どうなっちゃうんだろう。たまくらのすきま風もさむかりき、とかなんとか、あんな風になるのかしら?冗談じゃない。私だってあそこまで愚かじゃないわ。だって、最後の最後で、本当にあの人のことを愛せるようになったんだもの。
あれ?光が、カーテンの間から光が差し込んで…。月が出てるのかしら?ああ、せめて、あの光だけでも。あの光が部屋を照らしてくれたら。彼の眼差しを、あの悲しそうで、つらそうで、孤独な眼差しを忘れられるかもしれない。あんなに苦しそうな瞳でお別れだなんて、今の私にはとても耐えられそうにないから――
窓から大きな満月が見える。あらゆるものが月明かりに撫でられていて、おぼろげだ。レイカは部屋にできた光溜まりの中にいた。ひどく乱れ、水気を失った髪は、それでも月光を艶やかに照り返している。彼女は目をつむり、寂しそうに、しかし、どこか幸せそうに笑っていた。
どれほど時間が経ったか、玄関から鍵の開く音がした。レイカは目をつむっている。静かにゆっくりとドアを開ける音がした。レイカはまだ目をつむっている。
「レイカちゃん。」
レイカは目を開き、声の方を見た。リョウが立っていた。月の薄明かりのおかげで、彼の表情もはっきり見えている。彼は申し訳なさそうな顔で立っていたが、レイカと目が合うと、恥ずかしげに笑った。






