第四幕
午後六時。春の太陽は名残惜しそうに輝き、その尾が窓から見える建物という建物を赤く染めている。くだんのカップルはと言えば、この時間には珍しく二人そろってワンルームの中にいた。レイカは、まだ部屋が明るいうちに大学の講義の予習をしているのか、およそ彼女ほどの年代の女性はまず手に取らないであろう、「批判法学の構造」という題の本を読んでいる。そしてリョウは、かれこれ一時間ほど前から難しい顔でスマホとにらめっこをしている。
「ねぇ、レイカちゃん。あのさ…」
リョウは重々しい、悩ましげな、決意めいた雰囲気でそう言った。このワンルームを外から見れば、人は平和でのどかな光景だと感じたかもしれないが、実際はその真逆だ。直前までは肌にかみつくような沈黙で支配されていたのだから。彼はその沈黙を破ったのである。その針のような沈黙を醸し出していたのも彼自身だったのだけれども。
レイカは本から顔を上げ、微笑みながら何気ない調子で、
「ん?なぁに?」と言った。
彼女は決して脳天気などではない。部屋の空気を敏感に感じ取り、リョウが何か問題に直面したということに気づいたはずだ。ひょっとすると、その問題が自身の悩み、すなわちリョウへの疑心に少なからず関係するものだということにも気がついたのかもしれない。いずれにせよ、恋人に面倒ごとが持ち上がったこと、それが自分にも飛び火するかもしれないことには感づいていただろう。なぜなら、彼女も難しい顔で本を見ていたが、神経は全てリョウの方を向いていて、ページを繰る手が完全に止まっていたからだ。
リョウは自身のつま先に視線を落とし、窓の向こうに目をやり、それからレイカの顔を見ると、ぎこちなく笑いながら口を開いた。
「あの、はは。レイカちゃんさ、俺が買った服とかアクセサリーとか、まだ持ってる?」
妙な切り出し方を変に思ったのか、レイカはかえって怪訝な表情になり、
「どうしたの?突然。」と声のトーンを落として言った。
「いやさ、何でもないんだよ。ただ、そういえば、俺がプレゼントしたものをレイカちゃんが身に着けてるところ、見たことないなって思って。」リョウはいくらか自然な、自然な影のある笑顔を浮かべながら言った。
「そんなことないよ。ほら、この前もらった指輪は着けてるもの」
リョウはそれを見て、ようやく嬉しそうに笑った。
「ああ、うん、とっても似合ってるよ。本当に、すごく綺麗だ。」
「あはは、そうだね。本当にとても綺麗で素敵な指輪。」レイカは顔を赤らめながら言った。
「違うよ。レイカちゃんが綺麗だって言いたかったんだ。君が着けるから、その指輪も素敵に見えるんだ。もし君の指から外れれば、ただの高価なドーナツみたいなもんさ。」それを聞くと、レイカはさらに真っ赤になり、うつむく。リョウは続けて、「本当に、一度だけでも見てみたかったな。」とつぶやいた。
彼の声に、レイカの一瞬の恍惚は即座に過ぎ去った。彼女はハッとして顔を上げる。リョウはすでに立ち上がり、玄関に向かって歩いていた。
「リョウ君?どこ行くの?」
それは恋人の身を案じているような声色だった。
「ちょっと知り合いから飲みに誘われて。遅くなるだろうから、先に寝てて。」
リョウはそう言ってドアに手をかけたが、ふと動きを止めて振り返ると、
「ああ、言い忘れてた。俺が贈った服とか、バッグとか、イヤリングとか…、この先お金が必要になったら、気にせず売っ払っちゃっていいからね。」とだけ言って、返答を待たずにワンルームの外へと出ていった。
何?何なの?リョウ君、どうしちゃったのかしら。知り合いと食事ですって?そんなわけない!それだけであんな鬼気迫る雰囲気になるわけないじゃない!だとしたら、何をしに行ったの?もしかして、お仕事?いや、ありえない。仕事のときは仕事だっていつも言ってくれるもん。だとしたら、一体何なの?
ああ、嫌な予感がする。どうしてプレゼントのことなんて、突然言ったのかしら?変よ、売っ払っていいなんて、そんな、売れるわけないに決まってる。ああ、神様、どうか彼の無事を…。
どうしてもっと早く、疑いを晴らしておこうと思わなかったんだろう。リョウ君、とっても悲しそうな顔だった。ああ!私の臆病のせいで、私はあの人に疑心を抱いたまま、あの人は何も打ち明けられず、ひとりぼっちのまま、何かとんでもないことが起きつつあるかもしれないなんて!ああ、彼が犯罪者かもしれない、なんて。ああ、彼が口封じのために私を殺すかもしれない、なんて。馬鹿馬鹿しい!そんなこと、もう二度とリョウ君に会えないことと比べれば、ちっとも…、ううん、本当は少し、怖い。あの人が犯罪者かもしれないなんて、あの人が私を殺すかもしれないなんて。でも、リョウ君を失ってしまう方がずっと怖い。
リョウ君、どうか、無事に帰ってきて。ああ、本当は今すぐ外へ飛び出して、彼を捜しに行きたい。でももしかしたら、私が心配してるようなことは何もないのかもしれない。普通に知り合いとご飯を食べてるだけかもしれない。そもそも、私はあの人がどこへ行ったのかさえ知らない。
もう!心配と不安で胸がはち切れそう!ああ、リョウ君、早く帰ってきて私を慰めて。私も、あなたを全部愛するから。この部屋の中で待ってることしかできないけど、お願い、無事に帰ってきて――。
その日、リョウはワンルームに戻らなかった。次の日も、その次の日も――。レイカはその間、ワンルームの中でひたすら待ち続けていた。食事はほとんど喉を通らず、睡眠だって体力の限界による気絶に過ぎなかった。彼女は大学にも行かなかった。
レイカの神経は常に逆立っていた。携帯からバイブレーションが鳴った気がしてはスマホに飛びつき、玄関から鍵の開く音が聞こえた気がしては転がるようにドアスコープをのぞきに行く。そのような具合だったせいもあるだろうが、一週間と経たないうちに、彼女は目に見えてくたびれていった。