第三幕
春が深まり、しだれ桜の花もほとんど散ってしまった、ある日の昼。恋人たちのワンルームには誰もいない。太陽は南を過ぎたばかりなので、さすがにその部屋もまだ明るい。しかしながら、どうしてだろうか。誰もおらず電気もついていない真昼のワンルームほど、侘しい場所はないように思える。今日のように天気のいい日ならなおさらだ。おそらく、外の活気がその疎外感、あるいは陰気さを際立たせてしまうのだろう。高校生や旅行客の談笑、バスだのバイクだのトラックだのによる重奏、風に吹かれて歌う木々。春の日差しは暖かく彼らに降り注いでいる。時には暑いこともあるようだが、それさえも太陽が彼らを愛しすぎるあまりのことで――。振り返って室内を見れば、窓辺にはキラキラ光りながら浮かぶ埃。冷蔵庫が時折いびきを立て、蛇口から垂れる水滴はいい加減な拍子を取っている。そして、灰色に染まった部屋。
マンションの廊下を歩く音がしてまもなく、その部屋のドアが開いた。ややあってドアは閉まる。玄関に立っていたのは、レイカだ。ベージュの薄いカーディガンの下はブラウスと色の濃いジーンズで、髪は大雑把なハーフアップといった具合に簡素な格好をしている。大学から帰ってきたところなのだろう。
レイカは背負っていたリュックサックをテーブルの脚に添えるように置くと、ベッドに座った。彼女の視線は一度窓の方へ向けられ、そして再び部屋の中に戻った。その目には、何とも言えないやるせなさが泳いでいる。彼女もワンルームの侘しさを、外への疎外を感じたのだろうか?しかし、もの悲しげなその瞳の中には、同時に別の感情もさざ波だっているように見える。安堵だ。ここに来てようやく一息といった感情が、その目に潜んでいる。何に対しての安堵なのだろうか?彼女はそれきり目をつむり、ベッドへ仰向けに倒れ込んでしまったので、それ以上は観察しようもなくなった。
五分ほど経った後、ドアの鍵の開く音がして、レイカのまぶたは操り人形のように、キッ、と開いた。その目は、恐怖とまでは行かないが、先ほどまでとは打って変わって、主に不安の色で揺らいでいる。レイカは息を潜めた。まるで、夜間に泥棒に入られた家の住民が必死に寝たふりをしているかのようだった。彼女はベッドの上でピクリともしなかったが、ドアが開くと同時に、弾かれたかのごとく跳ね起き、ベッドに座り直し、髪を整えた。
「おぉ、レイカちゃん、帰ってたんだ。おかえり、学校お疲れ様。」
取り澄ました様子でベッドに座るレイカを見つけて、リョウはそう言った。
「うん、ただいま。リョウ君もおかえり。」
レイカは無表情だった。不安から来る引きつった表情と無意識に湧いた微笑みが、打ち消し合ってそうなったのだ。
さしものリョウもその表情を変に思ったのか、心配そうに、
「どうしたの?体の調子でも悪い?」と言った。
「違うの!ええと、ちょっとうとうとしてたから、まだちょっとだけ眠くて…」髪の毛を撫でながらレイカは言った。
「あはは、そっか。ごめんね?起こしちゃって。」
リョウがそう言ってレイカの真横に腰掛ける。レイカは咄嗟に、彼から距離をとるかのようにベッドへ手をつきかけたが、これまた反射的に、その手を静止させた。所在なくなった両手が膝をさする。レイカは口を開いた。
「ううん、いいの、全然。でもびっくりしちゃった。てっきりお仕事に行ったのかと思ってたから。ほら、前のお仕事から三週間ぐらい経つでしょ?」
「あぁ、そう言えば、そうだね。でも今日は違うんだ。ちょっと買い物に行っててさ。」
「買い物?」
リョウはその言葉には答えずに、持っていたセカンドバッグを開くと、その中をのぞき込んだ。そして、数秒足らずで目当てのものを見つけて取り出し、
「ほら、これ。」と言いながら、ネイビー色の小さな箱をレイカに差し出した。
「…」
レイカは絶句した。その箱の中にあるものを直感的に理解したせいで、驚きに言葉を詰まらせてしまったのだ。今の彼女の表情を、特定の感情として言葉で言い表すことは困難極まる。その顔には、様々な感情が激しく入り乱れていて、さらにその感情たちは複雑に交ざり合っているのだから。一つの感情について言及しようものなら、他の感情も芋づる式に引っ張り出されてしまうような、そのような表情なのである。
「それほど立派なものは用意できなかったけど、受け取ってくれるかな?」と恋人が小さく、囁くように言った。
彼は、小箱の方に視線を注いでいたため、レイカの表情には気づかない。レイカは、彼から目を離せなかったため、その箱がゆっくり開かれつつあることには気づかない。視界の隅に重く光るものが見えると、レイカは吸い寄せられるように視線を落とした。
そこにあったのは、やはりと言うべきか、指輪だった。小さな箱の中に、小さな窪みがあり、そこに小さな指輪が刺さっている。その銀の輪は下半分を窪みに埋められていて、まるで晴れの夜空に浮かぶ上弦の月のようだ。リョウは指輪をそっとつまみながら、レイカの左手を優しくすくい上げた。まだ思考がまとまりきっていなかったレイカは、彼の一連の動作を呆然と眺めていたが、小指の先にひんやりとした金属の感触を受けて、ようやく正気に戻り、思わず左手を引っ込めた。
「ちょっと…!ねぇ!」
レイカの口から辛うじて発せられた言葉はそれだけだった。強い語気だった。しかし、そこに含まれていたのは、あくまでも制止であって拒絶ではなかった。
「レイカちゃん?」
信じられないものでも見るかのような恋人の顔が指輪の上にあった。未だかつて見たこともない悲痛な顔を見て、レイカは少しだけ冷静になり、口を開いた。
「ええと、その指輪さ、もしかして、その、婚約指輪とか、そういう系なの?」
「うん、まぁ…。そのつもり、なんだけどね。それに、今日でちょうど付き合って三ヶ月だろ?だから、記念日祝いも兼ねてさ。」悲しそうに笑いながら、リョウは言った。
「私たち、まだ付き合って三ヶ月よ?さすがに婚約とか、そういうのは早すぎると思うの。」
「そうかな?」
「そうよ。うん、せめて、一年か二年、こうやって一緒に過ごした後に婚約とか結婚とか、するべきじゃないかしら。」無難な笑みを繕いながら、レイカは言った。
「…そっか。ごめん、俺もそう思ってたんだ。けど、一週間後や一ヶ月後にはもう、レイカちゃんは俺に愛想を尽かせてるんじゃないかって思うと――」
「あはは、そんなわけないじゃん!もう、リョウ君ってば、心配性ね!」
そう言って、レイカは恋人の指から指輪をひったくると、その銀色の穴に自身の左手薬指を通そうとした。しかし、
「あの、リョウ君?本当に申し訳ないんだけど、この指輪、私の指にはちょっと小さいみたい。私の薬指、太っちゃったのかしら?あはは。」
指輪はちょうど薬指の第一関節あたりでつっかえてしまっていた。レイカは真っ赤な顔で、乾いた笑いを壊れた人形のように漏らしている。
それを見ていたリョウは相好を崩し、言った。
「えっと、それピンキーリングなんだ。だから、小指にはめてくれると嬉しいな。ごめんね、本当は薬指用で一番上等のものを買おうと思ってたんだけど、手持ちがなくて。」
「あぁ!ピンキーリング!なるほど!」とレイカは叫びながら指輪を外し、「小さくて、かわいくて、とっても素敵!これなら普段使いもできそうね!」と続けた。
「…うん、だから大学に着けていっても警戒されないと思うよ、きっと。」リョウは少し寂しそうな顔をしながら言った。
「うん、うん!そうね!着けるに決まってるじゃない!ああ、明日から楽しみ!本当にありがとう!」
レイカには恋人の不自然な言動に気づく余裕もなく、ただひたすら嬉しげにそう言った。
「喜んでくれて嬉しいよ。結婚指輪にはもっと上等なものを用意するから、もう少しだけ待っててね。」
「…え?本気なの?」レイカの顔は引きつり、困ったような笑顔になる。
「もちろん。でっかいダイヤモンドが載っかった指輪さ。」リョウは真剣な笑顔だ。
「あはは、そっかぁ、ダイヤモンドかぁ、あはははは。」
レイカは自棄気味に笑った。とにかく笑うことだけに集中しているようだった。震える指から指輪が落ちたことにも気がつかないほどに。そして、その指輪をリョウが拾って彼女の小指にはめても気がつかないほどに。
レイカは完全に忘れていたのだが、その日は二人が付き合い始めて三ヶ月目の記念日ということで、午後中デートをすることになった。レイカは化粧を直すと言って部屋に残り、リョウはタクシーを捕まえておくために、一足先に外へ出ていったのだった。
ああ、私ってば、どうしてこんなにほっとしてるの?ああ、違う、違うの、許して。私はただ、あなたを心から信じたいだけなの。まず疑ってみて、疑いたくなくても疑ってみて、それで何も問題なければ、そこでようやく、無邪気に、本当に、心の底の裏から、あなたにすべてを委ねてあなたを愛することができると思っただけなの。ああ、それなのに、私はいつの間にかあの人のことを本気で疑って…。あの人の無実を前提として、犯罪者じゃないかと疑ってたのに、いつしか、あの人の犯罪を前提として、無実であればと願ってしまっている!ああ、最近ではあの人の全てがうさんくさく見えてしまう。優しい声も、綺麗な顔も、品のある所作も、全部が私を油断させるためのものじゃないかって思ってしまうの。
でも、あの人のことが嫌いになったってわけでもなくて。あの人がいない部屋に帰ってくると寂しくなるくらいには、好き。…もうわけ分かんない。疑うの?信じるの?愛するの?拒絶するの?どっちかにしてよ!お願いだから、はっきりしてよ…。どうして私はあの人のことを犯罪者だと疑ってるのに、あの人のことを嫌いになれないの?どうして私はあの人のことを愛しているのに、疑うようになってしまったの?
もう!どっちかに徹さなきゃ、ダメじゃない!なにが婚約指輪よ!まだ付き合って三ヶ月なのに!リョウ君はいつもそう。付き合う前だって、私がバイト先に作ってた借金を全部引き受けて、それからも私の面倒も見てくれて…、好きにならないわけないじゃない!…違う、いつもいつも、無理矢理なのよ!そうよ!先に私の意見を聞いてくれてもいいのに!サプライズのつもり?ふざけないで!ああ、もう!どうして私も私で、嬉しくなっちゃってるのかしら!そんな、結婚なんて…。結婚?もしそうなったら、私は犯罪者と結婚することに…、違う、違う!まだ決めつけちゃダメなのに!
でっかいダイヤモンド。ああ、ねぇ、リョウ君。一体、そのダイヤモンドにどれだけの罪が詰まってるの?一体、そのダイヤモンドにどれだけの罪を食べさせてきたの?
リョウ君が待ってる、行かなくちゃ。彼、私の葛藤に気づいたから、婚約指輪なんて買ってきたのかな?どうなんだろ、分かんない。私自身の心さえよく分かってないないのに、あの人の考えてることなんて、分かるわけないよ。私はあの人の仕事さえ知らないって言うのに――。
レイカは、恋人の姿を脳裏にとどめながらも、体がベッドに倒れるのを止めることができなかった。そして、目から堰を切ったようにあふれてくる涙を止めることも。
二十分後、リョウが部屋に戻ってきた時も、レイカは未だに泣き続けていた。彼女はリョウに気づいていたが、もはや取り繕う余裕はなかった。一度爆発した感情は、そう簡単には収まりがつかないのだ。
リョウがレイカの手を握る。レイカはその手を強く握り返し、体を起こそうとする。しかし、うまく力が入らないようだ。リョウは彼女の背中に手を回し、起こしてやる。起き上がるや否や、レイカはそのまま彼に抱きついた。
それから十分間、レイカは口からも目からも感情を吐き出しながら号泣し、その後の二十分間は、小さな嗚咽を漏らしながら涙を流し、最後の三十分間は、より一層強く恋人を抱きしめながら静かに彼の肩を湿らせた。
窓の向こう側は、何も変わることなく、日常の、人々や自然の音で賑やかだった。