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監獄心中  作者: alIsa
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第二幕

 その日の明け方、外からは輸送トラックのうなり声だけが時報のように時折聞こえてくるだけの時間帯、レイカは目を覚ました。ただし、トラックの粗野な走行音によってではなく、自分のものではない衣擦れの音と鼻腔を刺激するコーヒーの匂いによって。彼女はそれに気づくと、目を開けるよりも速く体を起こした。まだ眠たげな視線が狭いワンルームをせわしなく走り回り、間もなくレイカは脚の短いテーブルの向かいに座っている恋人の姿を認めた。彼は薄明かりの中で頬杖をつき、幸せそうにレイカを見つめている。寝ぼけているせいか、コーヒーから立ち上る湯気のせいか、彼女の視界にはその顔が歪んで映った。

「リョウ君…。ごめんね、帰ってくるまで起きていようと思ってたんだけど、いつの間にか寝ちゃってたみたい。」

 レイカはそう言うと、ベッドの上に座りなおし、近くにあった毛布をたぐり寄せ、それで目と鼻を除いたほぼ全身を覆い隠した。寝起きの顔を見られるのが恥ずかしかったのだろう。

「いや、いいんだ。こんな時間まで起きてたら健康に悪いからね。」リョウと呼ばれた男性は答えた。

「今何時?」

「もうすぐ5時。ついさっき帰ってきたんだ。」

「そっか…」

 レイカは何気なく視線を落とした。きれいに整頓されたテーブル。目立ったものは、淹れたてのコーヒーぐらいか。と、そこに、十数枚の重なった一万円札が見えた。その途端、眠る直前に考えていた恐ろしい妄想が、彼女の脳裏をよぎる。レイカはとっさに顔を上げて、恋人を見た。彼女はあまりにも動揺しているのか、自身の顔が毛布から飛び出てしまったことにも気づいていないようだ。

「いや、ちょっとね。いろいろ大変だった割に給料は少なくて、骨折り損ってやつさ。だから、今日は十二万ぽっちだったよ。まぁ、埋め合わせはするって言われたから心配しないで。」

 彼女の視線と顔の動きを目で追っていたリョウは、申し訳なさそうに苦笑しながら、そう弁明した。

 レイカは彼の声にはっとすると、口を開いた。

「違うの!お金のことじゃなくて、いや、お金のことなんだけど。…ええと、あのさ、その、リョウ君ってどんなお仕事してるの?」

 一瞬間の沈黙。しかしレイカには、それが果てないもののように聞こえた。彼女が耳を澄ませていたのは、自身の内側にひしめく沈黙だったのだ。

「前にも言ったとおりだよ。」とリョウが言う。

「え?何?」とレイカが聞き返した。

「前にも言ったとおり、知人の手伝いをしてるんだよ。運送とか引っ越しとか清掃とかね。」

「それなら――」犯罪は?とあと少しで口からこぼれそうになるのを、レイカは思わずせき止めた。「…それなら、炭坑夫はやってないの?」

 恋人は一瞬だけあっけにとられた顔をしたが、すぐに愉快そうに笑った。

「炭坑夫?炭坑夫かぁ、うん、まぁ、たまにやってるよ。年に一度か二度。今年はまだだったかな?」

「ごめんなさい、変なこと聞いちゃって。まだ寝ぼけてるみたい。」

 レイカはうつむいた。その顔は真っ赤で、苦々しくゆがめられている。

「大丈夫だよ、危ないことなんてしてないから。安心して。」

 リョウのその言葉が自分に対する心からの愛情と敬意で満ち満ちていることを、レイカは肌で感じ取った。しかし、誠意は込められていたのだろうか。それは、彼女には分からなかった。あるいは、そもそもそれをくみ取ろうと努めていなかっただけなのかもしれない。

 レイカは恋人に背を向け、再びベッドに横たわった。それを見たリョウは、ゆっくりと立ち上がり、静かにカーテンを閉めた。もしその時、レイカが彼の方に一瞥でもくれていたのなら、自分を愛おしそうに見つめる恋人と目が合ったことだろう。そして、そこにたたえられた深い慈愛を認めることさえできたはずだ。しかし、レイカはあろうことか、恐怖と緊張の中間にあるような感情に支配されてしまい、目を固くつむることしかできなかった。

 部屋に漂うコーヒーの柔らかい香りと、おそらく床で眠っているであろう恋人の満足げな寝息。それらに囲まれながらも、レイカの目は冴え渡っていた。不安げに高鳴る鼓動を骨伝いに聞きながら、彼女は目を開く。




 眠たくなんかない、眠れるわけないじゃない!あああ、何が炭坑夫よ!私、本当に馬鹿になっちゃったのかしら?もう恥ずかしくてどうにかなっちゃいそう!はぁ、いくらなんでも、炭坑夫だなんて…。リョウ君は炭坑夫もやるって言ってたけど、さすがに冗談だよね。私が冗談言ったと思って、冗談で返しただけだよね。犯罪をしてるんじゃないかって私が疑ったことに、気づいてないよね?大丈夫だよね?

 あぁ、あんなに優しくてあれほど愛の深いリョウ君を疑ってしまうなんて、罪悪感でおかしくなりそうよ。本当に、なんて恩知らずの薄情者なのかしら!リョウ君がいなければ、まともに生活もしていけないのに!私だってあの人のこと、心から愛してる。それなのに、どうして疑っちゃうの?愛があまり余って、勢い余って、つい疑念にまで到達しちゃったのかしら?そんな馬鹿な!本当は彼のことを心から愛せてないだけに違いないわ!ああ、でもそうだとしたら、あんまりよ。これ以上、どうやって彼を愛せばいいの?どうすれば彼に対する疑いや不安を、霧払いできるの?

 ああ、怖い。もしリョウ君が私のこの疑いを察してしまったら?きっと不快にさせちゃうわ!そうしたら、もう一緒にいられなくなるかも…。もしリョウ君が私のこの葛藤をけどってしまったら?ああ、豹変するかもしれない。いつもの優しい顔が、犯罪を、強盗や殺人をするときの顔に変わって、私に暴力を、いや、ひょっとしたら、殺されて…。ああ!私、なんてことを考えてるの!ダメよ、こんな、ひどい、ああ、いやだ、いやだ――




 朝は着実にやってきた。四時から五時へ、五時から六時へと、無言のうちに絶えず回り続ける星により、朝がもたらされたのである。朝は比叡山からやってきた。左京区から伏見区まで、平安神宮から愛宕神社まで、不動のうちに絶えず爆ぜ続ける星により、京都市が満遍なく照らしあげられたのである。

 一組のカップルがいるワンルームもまた、太陽に照らされている。朝が訪れたのだ。夜闇は皆、焦がされて塵になり、空気に溶けてしまったのだろう。しかし、ただ一人、カップルのうちの女性、レイカの胸中だけには、霧のようなモヤがかかったままで、そればかりか、彼女の枕には霜さえ降りていたのだった。


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