第一幕
ワンルームの一室。物音一つないその部屋は、家具の少なさも相まって、まるで誰も住んでいないかのようだ。今日は月も出ていないせいで、夜闇に沈んだその部屋を照らすものは何もない。ベランダにつながる大きな窓の先から、断続的に車の走行音が聞こえてくることからして、まだそこまで遅い時間ではないようだ。おそらく、夜の十時頃といったところか。窓の奥に見える比叡山が、灰がかった夜の空を一層黒く切り取っている。
ふと、部屋の隅、ベッドの上で、ぼうっと光るものが見えた。そして、その光が一人の人間の姿を浮かび上がらせた。若い女性の姿だ。背中の半ばあたりまである長い髪の毛のせいで顔かたちはよく見えないが、漠然とした不安とそれによる居心地の悪さに苛まれていることは推測に難くない。なぜならこの女性は、かれこれ数時間前から、春の夕日が沈んだ直後から、すなわち午後七時頃から数分おきに、落ち着きなくスマートフォンのディスプレイをつけては、落胆したように消すというのを繰り返していたからだ。また、この部屋の暗さも彼女の憂鬱を加速させる原因なのかもしれない。しかし、夜に電気をつけることは、この部屋の主、つまり彼女の恋人に固く止められているのだった。
この若い女性、レイカは自身の恋人からの連絡を待っていた。どのような連絡か?何だってよかった。自分のメッセージに対するリアクションなら何だってよかったのだ。「いつ帰ってくる?」「今何してるの?」「リョウくん、忙しいの?」「既読だけでもつけてよー」「晩ご飯先に食べちゃうからね」「お願い」「おかしく」「なりそうなの」「お願い」「返信して」…。このように、画面上ではレイカからのメッセージだけが一方的に送られていて、まるで壁と会話でもしているようだった。
赤の他人がこの一部分だけを切り取って見せられたのなら、彼らを異常者だと考えるに違いない。例えば、レイカをストーカーと決めつけたり、あるいはリョウを薄情な浮気者と断定したり…。しかし、レイカがしきりに確認していたメッセージアプリにおける二人のやりとりを少し遡ってみれば、その考えを改めることになるはずだ。そこにあるのは至極平凡な若いカップルのやりとりなのだから。
あぁ、本当に頭がどうにかなっちゃいそう!既読だけでもつけてくれたら少しはホッとするのに!いつもそう言ってるのに!どうしてそれだけのこともやってくれないのかしら!…そんなに忙しいのかな?でも変よ。普段はあれだけ優しくて、連絡だってマメに返してくれるのに、一ヶ月に数回、仕事があるって日に限ってこんなに音沙汰なくなるなんて。本当にお仕事なの?隠れてほかの女の子に会ってるんじゃないの?…いや、そんなわけない。そう、だって、お仕事があった日はいつもたくさんお金を持って帰ってくるんだもん。たぶん今日もそうなんだろうなぁ。明日はそのお金でデートに連れてってくれるんだろうなぁ。でも、もしかしたらお金持ちの女の人に会ってお金をもらってるんじゃあ?ママ活?レンタル彼氏?って言うんだっけ?だって――、あれ?今スマホが震えた気がしたけど…、はぁ、気のせいか。
だって、そうよ。そもそも月に数回だけの仕事なんて、普通じゃないわ。まともなお仕事なわけないじゃない!あのお金だって、きっとまともな稼ぎじゃないんだわ!ママ活でもレンタル彼氏でもホストでも、なんでもいいけど、女の子をたぶらかして巻き上げてるに違いない!
…でもそうだとすれば、女の子に貢がせたお金を、ほとんど私のために使ってくれてるんだよね?学費も、生活費も…。リョウ君はほかの女の子をだましてでも、私の支えになりたいって、思ってくれてるってことだよね?誰よりも私のことを大事に思っててくれてるんだ…。それなら、ちょっとだけ許してあげようかな?でも、一応スマホは見せてもらわないと。リョウ君ってばかっこいいし優しいから、相手の女の子を本気にさせちゃうかもしれないもんね。ストーカーとか、最悪、殺人事件みたいな犯罪に巻き込まれるかも――、そういえば、最近、半グレ?って言うんだっけ?詐欺の受け子をしてた若い人がたくさん捕まったってニュースがあったけど…。そんな、まさかリョウ君はそんなことしてないよね?でも、そんな危ないことをしてるなら、連絡がつかないのも、お金をたくさん持って帰るのも、月に数回しか仕事がないのも、全部…。
いや、いや!そんなわけないじゃない!あんなに優しいリョウ君が、そんな、犯罪なんて…。でも、おかしいよ。給料を、あんな大金を口座じゃなくて手渡しでもらってるのだって、銀行に預けられないお金だからじゃ?それに、夜に部屋の電気をつけちゃいけないのだって、この部屋に人が住んでることを知られないようにするため?…あはは、そんなわけない。偶然に決まってる。あ、そうだ!炭坑夫なのよ、きっと!そう、それなら腑に落ちるわ!地下にいるんだから電波も届かないに決まってるし、大変なお仕事だからお給料もいっぱいだし、肺に負担がかかるから月に数回なのよ。お金をそのまま持って帰ってくるのも、きっと私を驚かせるためにわざわざ手渡しにしてもらってるから。電気にしたって、単に節約家なだけなのよ。電気代が高くなるってニュースでやってたし。なぁんだ、私ったら、変な思い込みで勝手に疑って、馬鹿みたい。はぁ、もう寝ちゃおう。リョウ君を待っていたいけど、とても眠たくて…。これを逃したら、あの人が帰ってくるまで、また何度も余計なことを考えちゃいそうだから――。
ポスン、とレイカはベッドに身を投げ出した。そして、次の瞬間にはもう寝息を立てていた。スマートフォンが振動し、陶器のようにつややかな白い手から滑り落ちたことに気づくこともなく。スマホのスクリーンから発せられた冷たい光は、部屋を投げやりに照らし、ちょうど一分後、何事もなかったかのように消えていった。
部屋は再び夜闇に覆われる。外からはもうほとんど何も聞こえない。時刻はとうに十二時を越えていたのだ。