隔てりとカーテンは破られる
6月1日
梅雨に入った。自転車だからかっぱが必須なのはもちろんのこと、もう一つ必須なものが折りたたみ傘。実は自転車を止めるところから校舎まで少し距離があり、そこは屋根がないため、傘がないとせっかく雨を防いできた通学路での努力が水の泡なのだ。これを称してバブルロードと言うらしい。(先輩曰く)
「ちょっと、傘入れさせてくんない?」
駐輪場に立ち止まる一人の男子生徒が声をかけてきた。この子は同じクラスの人だ。井原の席の前の男子。確か名前は秋本歩輝君。輝く金髪はこの雨の中でも、太陽に照らされていなくても輝いている。絵に書いたようにきれいにセットされた七三分けの髪がこの雨で崩れなかったのが不思議でならない。
「傘忘れたの?」
「持ってきたんだよ。記憶の中ではたしかに持ってきてたんだ」
「うん。…それで、今は」
「ないんだよね」
「忘れたってことだよね」
「つまりそうなるね」
あれ、この子ヤバい人?金髪のせいでてっきりチャラい系の人かと思ったけど、そこまでではなさそう。いや問題はそこじゃない。独特の喋りを見せるこの彼に感情が見つからない。
「まあちょうど良かった。校舎の中まで入れてよ。同じクラスでしょ君。名前は知らないけど」
僕の返事を待たずに秋本くんは僕の傘へと入ってきた。
よくズカズカ入ってこれるね…。まあ今の状況では仕方ないことなんだろうけど。それでも僕は嫌だ。人見知りだから周りの人から話しかけてきてほしいけれど、そんな自己利益だけで他人の心を考えないような人は嫌いだ。僕からあげる飴なら別によかったんだけど。自分から飴を奪うのは違うんじゃないかな。そんなの、誰かの自由が奪われてしまう。
昇降口まで送っていくと、ちゃんと御礼を言われて、特に話すこともないのに一緒教室まで行くことになった。結局気まずい沈黙が僕らを包んでいて、傘を指したい気分だった。
「お、珍しいコンビ」
教室に入るなり井原が言葉に出した通りの眼差しで見てくる。よほど気になったのか準備を途中やめにして僕に問いただしてきた。
「いつの間に仲良くなった?」
「なってないよ。むしろ僕は嫌」
「進学クラスは3年間一緒なんだが」
「僕はビジネスで仲良くするよ。ホントの友達になることはないだろうね」
嫌い…苦手とはいえ、悪口が聞こえてしまうのは良くないことだからさえずりのような声でボソボソ陰口を叩く。
秋本くんと目があってしまった。彼は某クラフトゲームのキャラのようにこちらへ来た。今にもワープしそうだ。あ、今一瞬しましたね。一回教室の外へ出て戻ってきましたね。
え?ほんとにした?!
「何の話してたの?」
「ねえ今ワープしたよね」
「ああ今今日の授業について話してたの」
「え、触れないの?今ワープしてたのに」
どうやら幻覚だったようだ。
「今日なんかある?」
「いや、特に何もないよ。なあ伊織」
「え?あ、そうだね」
今日はおかしな一日だ。
午前の授業が一通り終わる頃、雨はまだ勢いを増している。
「今日は部活なさそうじゃね?」
「超ラッキーじゃんそれ!」
窓辺では同じクラスのサッカー部の子と、違うクラスのサッカー部の子が想像上の話をしている。
まあ僕はサッカー部じゃないから関係ないんだけど。
「伊織、早く手洗い行くぞ」
「う、うん」
そんな2人を、尻目に僕は井原の後ろを付いて歩く。
雨音を学校中の生徒の声のせいでかき消されるせいで雨があまり降っていないのかと錯覚してしまいそうだ。
ここ、入りたくないな…。
手洗いから返ってくると、秋本くんがこっちをじーっと見てくる。まるでペットが餌をほしそうにしているみたいだ。
「ねえ、今日一緒にご飯食べようよ」
僕はえっ、と反応してしまいそうになったが、井原はノリノリのよう。
「いいよ。じゃあ机持ってきて」
「サンキュー」
少ない男子、僕たち三人を除けばもうサッカー部の人、そしてずっと休んでいる人と、バド部の人。その人数でさえまだほとんど話したことがない。
「二人は同じ中学だったの?」
「うん。話し始めたのは結構最近だけどね」
実際、まだ話し始めたのは一年も経っていない。ちょうど夏休みを超えたあたりから話し始めたから、もう少しで1年かな。
「だから最初から仲良かったんだ」
辻褄合わせで納得したのかこくんこくんと頷いて納得した。
「お前ちょっと態度に出すぎじゃね?」
またさえずりのような声が右から飛んできた。
「このくらいがちょうどいいよ。まだ初対面なんだし。それにこうでもしないと、多分離れてくれない」
少し露骨に出しすぎたかな…。
「徹底的だな」
鼻で笑われた。感心しているのかそうでないのかわからない。よかった。秋本くんには気づかれてない。これで気づかなかったら普通に大きな声で言っても気づかないんじゃないのかな。
どうせ、高校でたら終わる仲なんだ。なら思い出なんて作らなくたっていい。それくらいなら少ない人数でも濃い思い出を。
「ねえ」
少しトーンの変わった声に僕たちはドキッとする。慌てて顔を見ると秋本くんは真顔になっていた。
「ど、どした」
井原が僕の顔をちらっと見たあとそう声をかけた。
「ふたりは、学食使ってるの?」
思わず胸をなで下ろしてしまった僕。それを見逃さなかった井原が見えないところからバシッと叩いてきた。
「毎週金曜日に」
「今度俺も行っていいかな」
ああ、この子完全に僕たちと仲良くしようとしている。馬が合わない人に無理矢理話を合わせるようなことはしたくない。気を使って接するような人を僕は友達と呼びたくない。だから多分、あの人も僕の中では友達とは呼べていないのかもしれない。
「俺は構わない。伊織次第」
なんでこういうときに限って僕に回してくるかな…。
「別に、いいよ」
そっぽ向いて僕はそう答える。
「ありがと!」
わあ、とんでもない鈍感くんだ…。
これから、この子とも仲良くしていかなきゃ行けないのか。また心に1つ、僕を守る帳が降りてきたような気がする。自己韜晦の、そんな帳が。
帰りになっても雨は止んでいなかった。
「待ってたよ」
このとき僕は多分嫌というのが表情に出ていただろう。眉間にしわの寄った、それでいてしかめっ面。わざとじゃないにしろ、これは悪印象を与えたことになるだろう。
「なんで」
「傘、また借りようと思って」
僕は今一度窓の外を見る。
「この小雨で?」
「そうだね。せっかくだし借りようかなと」
「もう…。わかったよ」
こんなにも僕についてくるということは…。嫌ないか。この格好だし。声だって全然。容姿だってそうじゃないのに。
なんでだろを僕嫌われることは大嫌いなはずなのに。1度その怖さはこの体で、この心で感じたはずなのに。僕は人にやられて嫌なことを、人にやろうとしている…。今の僕、もしかして悪いやつ…?
「ごめん」
思いに至ったときにはもう声が出ていた。霧雨のカーテンに仕切られた手前で僕たちは向かい合うように立ち止まる。
「なにが」
「今日酷い態度とって。せっかく話しかけてくれたのに引き離すような言い方ばっかりして」
「ああ…」
今までを思い返すように後頭部をかく秋本くん。
「べつに。てかそんなことした?俺全然気づかなかったんだけど」
「な…」
「てか、可愛いとこあるじゃーん」
からかっている言い草に思わず怒りが出てくる。
「う、うるさい」
頬をふくらませることしかできずに、小さい声で言い返す。やっぱり僕、この人苦手。でも嫌われるのは嫌だ。そんな中途半端、誰も許してくれないだろうな。
「傘ありがと。次は忘れない。絶対に!」
そう言い残すと、秋本くんは自転車を、大急ぎで漕いで帰った。あれ、かっぱは?着てないの?
「は!」
僕の目の前にあるビニールカッパ。かっぱも忘れてきてたのか…。