雲間を縫う光
5月28日 午前9時
休みというのは何とも心地がいい。朝にゆっくり眠れるというのは最高だ。そして朝起きると好きな本を読み好きなアニメを見て、友達と遊んで、そんな楽しい1日を休日という。どれほど優雅に過ごしていても、夕方になるとさみしさが広がり、休みの終わりというのを知らされ何とも悲しくなってしまう。朝はそんなときが来るとは知らずに朝陽も顔負けの笑顔をしている。そんな朝のひと時を邪魔するかのように部屋のチャイムがなる。
「誰こんな朝早くに」
お母さんもお父さんも仕事で家にいない。居留守を使うという手をあるが、もし何か重要なものだとしたらと考えると出ざるを得なかった。それにこのチャイムの音的に玄関を直接鳴らしている。うちのマンションは二重ロックと言って、ロビーでまず部屋番号を入力し、自動ドアを開閉してもらう必要がある。しかし今回は違うようだ。稀に自動ドアを中から開けられると二重ロックを掻い潜れるが、僕は約束をした覚えはないし、宅配とかならどんなことがあっても必ず下から部屋番号を鳴らしてくるはずだ。
「はい」
インターホン越しに話しかける。
「あの、隣に越してきたものなんですが、挨拶に来ました」
引っ越し?ああ、そういえば最近引っ越しのラクダがよくマンションの前に止まってたっけ。あの引っ越し、隣だったんだ。そういえば家の前の道にブルーシートみたいなものが引かれてたっけ。
少しお待ち下さいと告げ、僕は目にも止まらぬ速さで服を着替える。流石に初対面のひとに寝巻き姿を見せられない。一応それなりの服着て、あ、この人おしゃれなんだみたいに思わせないと。僕はマンションでずっと暮らしてきたから知らないけど、こうやって挨拶に来るというのは他の…マンション以外の住宅地でもあることなのだろうか。
適当に服を着替え、ドアを開ける。
「お待たせしま…した」
笑顔が絵空事のように消えた。
え、なんでここに?
向こうも向こうで目を丸くしている。僕の目の前には同じクラスの赤田さんだった。その名通りの赤髪のロングヘアーは風になびく。そのひとコマでさえスローモーションに見える。多分向こうも気づいてるよね。この感じ。
「あの…隣に越してきた赤田と申しますが…」
「知ってます」
「ですよね」
さっきまで氷山のように硬かった表情が少し柔らかくなっていた。赤田さんの表情につられて少し口角が上がった。
そういえば、少し前に学校で『私引っ越すんだよねえ』ってクラスメイトが話しているのを盗み聞きしたのを今思い出した。
まさか…引っ越すって…ここに来たってこと…?!
「愛花?挨拶終わったなら荷造り手伝って頂戴」
隣の部屋からお母さんと思しき声が聞こえた。
「あのー。おーい」
どんだけ驚いてんだろ…。眼の前で手を振って声をかけても反応がない。
「は!?どうしたの?」
「それはこっちのセリフなんだけど…」
「愛花?あら、こんにちは」
「こんにちは」
隣の部屋から赤田さんのお母さんが出てきた。楕円の黒縁メガネに青紙のボブヘアをふわりと揺らしている。髪は遺伝に関係ないんだなと実感した瞬間でもあった。
「愛花、知り合い?」
「同じクラスの人…」
「あらほんとう。良かったわね仲いい人がいて」
「別に仲いいわけじゃ!…」
気を使ったのか、横目で僕の目を見てきた。
「まあ」
「仲良くないの事実ですから」
赤田さんのお母さんの口止めを図るように割って入る。事実以外の何者でもない。多分それは赤田さんだって、他の人同士だってわかっているはずだ。
「それはそれは」
赤田さんは手を組んで少し縮こまってしまった。
「そうだ、あなた名前は?」
「岡村伊織です」
「伊織くんね。私達遠くから来たの。だからこの街のこと知らなくてね。よかったら愛花を案内してあげてくれないかしら?」
顔の前でパンと手を叩きいいことを思いついたように言う。実際僕は嫌ではないけれど、彼女がどう言うか。
「愛花、行ってきなさい」
おっと、拒否権行使できず、か。行くって言っても…外雨降ってんだよね…。この状況で行くって…かなり厳しそうだけれど…。
赤田さんは僕に助け舟を求めてほしそうな目でこっちを見ている。
「行く…?」
赤田さんのお母さんの視線から断りきれない感じがしてしまった。
「じゃあ…行く」
じゃあって何じゃあって。行きたくないなら素直にそういえばいいのに。
部屋にお母さんが戻って行ったあと赤田さんがエレベーターに向かって行った。
「何してるの?行こうよ。ガイドさん」
ニヤッとイタズラ笑顔でからかわれた気分だ。
そして軽く荷物を取りに帰り下で赤田さんと合流した。正直名前呼びしたいんだけれど…。
「どこから教えてくれるの?」
「えっと…どこから知りたい?」
「わお、質問で返された」
両手のひらを開いて驚く姿はまるで子供のよう。
「そうだねえ。じゃあ岡村。くんがよく行くとこからでいいよ」
なんだろう…。お母さんがいなくなった途端態度が変わった気がする。さっきまであんなにおとなしい人だったのに。確かに学校にいるときとは違うなとは思っていたけど、こんなに人って変わるんだ。親って存在は色んな意味で偉大なんだ。
僕がよく行くところとして案内したのは公園だ。
「ここ?よく来るとこって」
「そう。ここ」
言わずとしれたこの場所はアサガオの溜まり場だ。集合も解散も今までずっとこの場所だった。15年間生きてきて家の次によく来ている場所と言っても過言ではない。小さな頃には親と。小学生の時にはサッカーや、友達と。中学になっても友達と、そしてもちろんアサガオのみんなとも遊んできた。僕の記憶がたくさん埋められている場所だ。
「よく来るんだ」
「うん。友達とね。毎回ここだよ。誰の目も気にしなくていいし、もう慣れちゃってるし。まあ他の場所に行くのが面倒ってのもあるんだけどね」
雨が降っていて地面がぐちゃぐちゃのため中には入らなかったが、雨降る公園もまた風情というものを感じられる。
「友達…って?」
「小学校からの友達なんだ。みんな優しくて面白くて、いい子なんだ」
思い浮かべると、そこにはひたすらに笑顔がある。「高校はみんな違うんだけどね」
こういうとき、必ずと言って良いほどアサガオを思い浮かべる。なんでだろう。他にもたくさん友達はいるのに、必ず最初はみんなを思い浮かべる。
「私が住んでた街にもこういうところあったんだよ。そこは沼公園なんて言われてたっけ。すごいんだよ?雨上がりに行ったら沈んじゃうくらいぬかるむの。だから酷い雨のあとは立入禁止になっちゃう。私もそこに入ってみたかったんだけど、その前に引っ越しが決まっちゃって。何人か行方不明になるくらいだから私が見つけてあげようと思ったんだけど…」
「引っ越し決まってよかったね」
まず行方不明者が出る公園を作るなと町に訴えたいところではある。中々個性的な街に住んでたんだ。
「ええやっぱそう思う?部活の人もそう言ってくる」
多分あなたがおかしいだけです。
あまりにも雨が強くなり、赤田さんの提案で店内へと入ることにした。案内にはちょうどいいと思い、近くのショッピングモールに来た。この街では1番大きい故、人が多いので知り合いに会う確率が高いのが懸念点だ。
「赤田さん。下の名前で呼んでもいいかな」
「いいけど、どうして?」
「親しみを込めてっていうか、下の名前のほうが呼びやすいから」
「井原くんは苗字呼びなのに?」
入ってすぐのところで、赤田さんがこの店に入りたいと言ったので、それに応じてカフェに入った。生まれてこの方ここは初めて入る。
お互いに注文を終えたところで僕が切り出した話題に針を刺してきた。
「井原は、そっちのほうが呼びやすいからそうしてるだけだよ」
言いたくない。本当のことは。出会って数10分のような関係のひとに、自分の本心を伝えたくない。紬にさえ7年かかったのに。
「私は別にいいよ。部活とかでは愛ちゃんって呼ばれる」
それは、そう呼べと言っているようなものじゃん。
ここまでで何個かわかったことがある。彼女は学校の先生やお母さんの前では極度に猫を被っているということ。学校で友達同士で話しているときは今と同じ口調である。最初から少し違和感があったのはそういうことだ。しかし先生やお母さんの前では大人しい子になっている。どっちが本性かは知り得ないが、猫を被っているという考えに間違いはないはず。
「愛ちゃん」
「ためらいないね」
「だめだった?」
「別に」
あ、いいんだ。
「岡村くんは、みんなから下の名前だよね」
慣れた呼び名が心に傷をつけないのは、もう傷に慣れているから。誰かの悪意なき言動で僕の心は傷つく。誰も悪くないから、だから余計にしんどくなる。今だってそうだ。
「岡村って、長いしね。それに名前呼びのほうが親しみあって嬉しい」
中学の時も、仲のいい人はもちろん、そうじゃない人も僕を下の名前で呼んでくれていてとても嬉しかった。
「だから、下の名前で呼んでほしいかな」