春時雨と水たまり
5月9日 午後11時半
入学してから一ヶ月が経ってもなお、環境には慣れれなかった。元々の人見知りが尾を引いているのかもしれない。クラスの中は以前犬と猿。僕たちが談笑できる日は訪れてくれるのだろうか。ゴールデンウィークは今日で終わり、明日からは当たり前のように当たり前じゃない毎日が始まる。昔は毎日のように隣りにいてくれた中学の友達も今はいない。それがなんとも心細くて、寂しさを引き立てている。
こんな気持ちになったのは初めて…。誰にも理解されないだろう悩みの種は実ることもなく、未だ僕の中で眠っている。そして初めて味わう感情は言葉で表しづらい、そう感じている。特別何かが嫌だとか、特定の誰かが嫌だとかは無い。ただ、中学の時と違う。いやそれは当たり前なんだけど…。とにかく、言葉で表しづらいものが、僕の心を支配し始めているということに間違いはなかった。
多分、またあの夢を見る。
5月10日 午前4時半
まだ朝日が眠っているとき、僕は夢から一瞬だけ目が覚めた。明晰夢を見た。その夢は僕の憧れであり夢であり、そうあるべき姿だ。逆に言えば今はそんな姿のすの字もない。あるべき姿とは間逆な自分。そんな自分現実にいないと知っている。刹那の目覚めは再び夢へと誘う。見るだけならいい夢なのに、目覚めれば悪夢と化す。だから、夢を見るのは嫌いなんだ。
「お、伊織おはよ」
扉が開いて、伊織が教室へと入ってきた。その限りなく白に近い銀髪には数学の先生を彷彿とさせる寝癖がついている。こいつの寝癖が治ってないのは滅茶苦茶珍しい。いつも嫌味か!っとぶん殴りたくなるくらいサラサラできれいな髪なのに。クシも持って来ているくらいだ。気にしていないはずがない。前髪で隠れかかっている目の下にはクマができている。
席に向かっていく背中は華奢であることは関係なしに心細い。
俺にはおはよの一言のみ。そして席につくなり、俺の前の席の男子を象徴させる眠りの体制に入った。
どしたんだよ〜。いつものド天然バカ伊織は?お前誰だ?
ここ最近、ゴールデンウィークが開けたあとからというもの伊織の様子はおかしい。強いて言うなら数学の授業を受けているクラスくらい暗い。いや…どんだけ数学嫌なんだうちのクラス。そんなことどうでもいい。さあ!本を読ㇺ…じゃなくて、伊織はどうした。まだ俺にも仲良く話せる人なんて伊織しかいないから、誰かに相談するようなことはできない。
「い、井原ー」
ん、死者の呼び声とはこれを言うのか。後ろを見ると、ゾンビの如く手を震わせながら伸ばしてきている伊織がいた。あ、ゾンビに食べられたからこんなになってるのか。
「どしたゾンビ」
「誰がゾンビだ誰が」
ああ、うーん。まだ常時の半分くらいのテンション。
「でどした」
「あれ、何言おうとしてたんだっけ。あ、そうだ、テスト勉強今度一緒にしよ」
伊織は机にくっついたままだ。そのまま押したら世界一周も夢じゃないかもしれないな!
伊織がそれを言うってことは、やる気が起きてないのか、わからないところがあるかのどっちか。
あえて俺は何も聞かない。多分どうせ寝不足〜とか言って誤魔化すって知ってるし。
「じゃあ宇宙集合で」
「図書館でいいでしょ」
あ、こりゃ重症だ。こいつがこのボケに突っ込んでこないというのはもはやそういうこと。原因も今何が起こってるのかもわからないけど、こいつはいま、病んでいる!明確な理由なんか知らないよ伊織じゃないんだもん。でもこのクラス、この学校なら他の誰よりも伊織に詳しい。伊織を語れる自信がある。
「今週?」
「うん。部活も短くなるし」
聞けば、テスト期間である2週間の間は部活が1時間で終わるらしい。まあ俺の問との因果関係ゼロだけどな!
「土日にするよ」
「おけえ」
このままこいつ机になるんじゃねえの?そんなことを考えると面白い。
結局、こんな感じのテンションが1週間くらい続いていた。伊織に演技の才能は皆無なのでこれはリアルだと思う。しかし、伊織がここまで落ち込んでいるのを見るのは中学生の時以来だなあ。まあポジティブに捉えれば感情豊かだからいっか!
5月24日 午後6時
なんだろう。地に足がついていないように生きている実感がない。生きているんだろうけれど…。なんだろうこの感じ。おかしいなあ…。5月からだ。こんなにおかしくなったのは初めてだ。背後にある黒色に吸い込まれてしまいそうだ。あの夢を見たからだろうか。いや違う。確かにそれに関しても常に悩んではいることだけれど、それじゃない。気持ちの整理がてきないのは、自分でも何が起こっているのかわかってないから。
登下校のルートは2パターンある。一つは河川敷を通るパターン。もう一つは橋を渡るパターン。どちらも所要時間は変わらない。敷いているなら河川敷は歩道が狭く、橋は少し坂を登らないと行けないといったところだ。今日は訳あって橋ルートで帰ってきている。自転車のスピードもいつもよりも遅い気がする。吐くのは全部ため息みたいだった。何も考えれない心は、僕の体を無意識に運んでいく。橋の上で止まると少しの恐怖に落ちる。
あの河川敷の川はここに流れて海になる。潮の音が耳に届いてくる。
「ひとりでなにしてるの?」
僕はビクッとしなかった。いつもなら多分してるんだろうな。それにもう一つ理由がある。
「誘われてるんだけどね…」
街灯は僕の横に立つ人を照らし出してくれた。紬だ。自転車を押している紬が話しかけてきたのだ。そう。今日は紬に呼ばれてここにいる。昨夜のメールで誘われて、互いの高校が近く、通学路が被っているからという理由でここになった。
「えへへ」
紬は笑った。そして自転車を止め、僕の隣まで来た。
「今日は月が出てないね」
「雲に隠れてるだけでは…」
ジョークなのか本気なのか区別がつかない。再び紬は笑う。僕はこんなことで笑うことすらもできなくなっていた。少し前なら僕だって一緒に笑えたかもしれない。本当に笑ったのはいつが最後だろうか。思い返せるほど印象的な記憶も無い。こうなった心当たりもない。いや、1つだけあった。発明を思いついたみたいに頭の横で電球が光った。
それは、少し前に井原と話していて言われたことだ。
その日はテスト対策の授業とされていて、僕を気にかけてくれていたのか、普段では絶対にありえないけど井原がこっちにきて一緒に勉強しようなんて言い出したのだ。その時は流石にびっくりした。
「自信ありけり?」
「テストの感じがわからないから。なんとも言えないけど、やばいと思うよ」
「おかしいよな」
井原がくすっと笑いながら言うのに首を傾げたくなった。
「何が」
「伊織、最近変」
僕は誤字を消している手を止めた。ペンを走らせている井原の手も止まった。
「失恋?」
「違う」
「不倫」
「違う」
「家焼かれた?」
「違う」
「喧嘩」
「違う」
「心当たりは?」
つい「違う」とつられてしまいそうになった。
心当たりと言われても。何も思い浮かばない。嫌なこと…も特に出てこない。強いて言うならに学校。居心地の悪さが僕にはストレス。
「5月病じゃん」
なにそれ。井原の言葉?聞き慣れない単語に首を傾げる気持ちになった。でもそれは聞き返すことはせず、ノートに単語を書き写すことに集中した。なんとか集中することはできたものの、寝れていない代償が回ってきて、時折夢現の狭間に陥ることがあった。
5月病、忘れに忘れを重ねた結果今になっても調べることはなかった。特に興味を持てなかったというのも理由の1つだけど。
「で、どうしたの」
「ちょっとね。聞きたいことがあって」
紬は後ろで手を組んだ。視界の端でその影が動いている。
紬から誘われることは珍しい。何か大切なことなのか。わからなくて、だから少しドキドキしていた。何を聞かれるのかとかを考える余裕はなかったけど、普段は僕から誘うのに。
「伊織は、トランスジェンダーなの?」
5月に降る雨