源氏物語について語る紫式部の手紙 ③
桐花武臣
後輩蒐書官が、自分たち蒐書官が属する巨大組織を示す誇り高き言葉「橘花」の敵であるとしたその名は日本という国が歴史に登場してから現代まで続く闇組織の現当主のものである。
そして、彼を頂点とするその一族は、江戸時代末期の開国と時を同じくして日本に突如出現すると一気に裏世界を飲み込んでいった橘花グループのオーナーである立花家とは常にライバル関係にあるのもこれまた事実である。
だが、藤見坂は後輩の言葉を一蹴する。
「ないな」
「こ、根拠は」
自らがおこなっている日頃の教育の成果ともいえる後輩蒐書官の瞬発力のある問いに薄く笑みを浮かべた藤見坂が答える。
「まず現在の桐花家当主は橘花に対峙する組織を統べる者にふさわしい器の大きい人物とされている。そのような者がこんなところでつまらない罠を用意するわけがない。さらにいえば……」
先輩蒐書官はそこで言葉を切り、コーヒーカップに手を伸ばす。
まず香り、それから味を楽しむように店主自慢のコーヒーに口をつけた彼がカップを持ったまま口を開く。
「鷲江君も聞いたことがあるとは思うが、桐花家当主桐花武臣は夜見子様に本気でほの字だ。そして、書に関する案件であるここで恩を売るのは夜見子様の気を引くのには絶好の機会である。そのような場で夜見子様の僕を罠に嵌めるなどという愚かな行為をおこなった場合、単にその希望が消えるというだけではなく、それ以上のお返しが待っていることは桐花家当主だってわかっているだろう。ついでにいえば、我々と武器を使った戦いで勝てるのは軍だけだ。だが、我々と戦うとは立花家と敵対するということであり、それはその国家が終わるということと同義語だ。立花家がどのような存在なのかということを前任者からの申し送りで伝えられている各国の指導者がそのような愚かな行為をするとは思えんな」
「たしかに。主義主張にかかわらずそれはありませんね」
後輩蒐書官が同意したのは、言葉どおり話の後半部分だけなのか、それともそのすべてなのかは不明だったが、藤見坂は拘らず話を進める。
「それに、鮎原さんによれば桐花家当主の紹介状にはこう添えられていたということだ。『ただし、本品については出品者がそう主張しているだけで確たる証拠なし。これがその主張通りの品かどうかについては、門外漢である当方は預かり知らず。購入の際は自らご確認を』。つまり、情報提供はするがそれ以上の責任は持てぬと彼ははっきりと宣言している。ここまで言われてはどんなハズレを引こうが相手の責任にはできない。まして、オークション会場に現れた我々に対して物理的な攻撃でもしないかぎり罠などとは言えんだろう。まあ、先祖伝来の品が実はまがい物だったということはよくある話だ。確認してハズレであればいつもどおり我々は金を払わず手を引く。残念ではあるが、ただそれだけのことである。だが……」
そこまで言ったところで先輩蒐書官の表情は黒味を帯びたものに急激に変わる。
「……夜見子様にオークションを紹介した桐花家はそうはいかんだろうな。桐花家当主桐花武臣は一見すると物腰は柔らかく温和に見えるがプライドが高く、さらに自分に楯突いた者は絶対に許さない。そして、その本質は冷酷で残忍。側近の男たちの狂暴性は言うまでもない。そのようなことになれば出品者本人だけではなく一族すべてが消えていなくなるだろうな。それがどれほどの名家であっても」
「そういうことであれば、本物であることを願うしかありませんね。各方面の明るい未来のためにも」
「そうだな」