尾行
次の日。
サナは仕事が休みだったので、朝からクッキーを焼いていた。
「あら、いい匂い。サナがクッキーを焼くなんて、珍しいわね」
甘い匂いに誘われて、祖母のローニャが台所に顔を出す。
「えへっ、ファイエルの家に持って行こうと思って」
一晩過ぎると、サナはいつもの元気を取り戻した。
まだ多少引っ掛かる部分はあるものの、気にしていても仕方がない。いつまでも落ち込まないのがサナの長所である。
「そう。だけど、あの子、甘い物はあまり好きじゃなかったんじゃないの?」
ファイエルがレリックの友人だと知っているし、交流している時間はサナよりローニャの方がずっと長い。熟知とまではいかなくても、だいたいの好みはわかっているのだ。
「あ、ファイエルに持って行くんじゃなくて、おばあちゃん達に。昨日、火事だったでしょ。お茶菓子を持って行って、おしゃべりすれば少しは気分が晴れると思って」
サナはイノン家の人達には受けがいい。明るい性格なので元々誰からも好かれやすいのだが、おばあちゃん子というのもあるせいか、特にファイエルの祖母マリエルに気に入られているのだ。
マリエルは足が不自由で、車イスに乗っている。編み物が趣味で、普段はもの静かな人なのだが、サナが来るととてもおしゃべりになるのだ。
「そう。サナが行けば、マリエルさんも喜ぶよ。あ、塩と砂糖は間違えてないだろうね?」
時々やらかすサナの失敗を思い出し、ローニャが確認する。
「大丈夫よ。ちゃーんとなめて確かめたもん。匂いだって甘いでしょ」
そうこうするうちにクッキーは焼き上がる。念のために試食したが、ちゃんと甘い。
ローニャの分を少し取り分け、サナはできたてのクッキーを持ってイノン家へと向かった。
我が家の垣根に火を付けられたのだ。家そのものには被害がなかったと言うものの、怖がっていないかと心配していたサナだが、マリエルも含めてみんな元気にしていた。
サナが来たことがわかると、いつものように迎え入れてもらう。
「昨夜、ファイエルが言ってたのよ。おばあちゃん達は何も心配しなくていいんだよって。ファイエルがそう言うんだから、私は安心しているの」
マリエルは笑いながらそう言った。他の人に対してはずけずけと何でも言うファイエルだが、祖父母に対してはこんなふうに優しい言葉をかけるのだ。
どうして他の人にそういう優しい言葉をかけられないのかしらね、あのヒト……。
マリエルとしゃべっている時、ファイエルの話になるとなぜかいつも「あの子は優しい子でねえ」という内容に落ち着くのだ。
その度に、サナは心の中で首を傾げてしまう。
周りから「性格が悪い」だの「口が悪い」だのと言われていても、実はあれで結構おじいちゃん・おばあちゃん子だったりするらしい。
ちょっと不思議で意外で信じられない気もするが、マリエルの話を聞いていると事実のようだ。
そして改めて、なぜその優しさを他に向けられないのか、と疑問に思うのである。
サナは一度、ファイエルの口の悪さを暴露してやろうかと思った。外ではこんな感じなのよ、と。
でも、きっとマリエルは「あらあら」などと言って笑うだろう。外でのファイエルを知らなければ、サナが何を言っても「まぁ、そうなの?」と言いながらさらっと流してしまうに違いない。サナが冗談を言っている、と思われて終わりだ。
あと、ファイエルから何を言われるかわからないから怖い、というのもある……。
サナはひとしきりマリエルやファイエルの母ローズィー、姉のディアナ達とおしゃべりをして、昼過ぎにおいとまをした。
みんな、元気でよかった。これで早く犯人が捕まれば、もっと安心できるのになぁ。
昨日はファイエルの言い方につい泣いてしまった。あれはきっと、見慣れない火事現場を見たせいで、多少なりとも感情が高ぶってしまったのだろう。
今になって思い返してみればちょっと腹が立つくらいなのだから、サナも完全に復活したらしい。
魔法使いの仕事だって言うなら、しっかり働いてよね。おばあちゃんに偉そうなことを言うくらいだし、今度同じことが起きたら、あたしが承知しないんだから。
ファイエルが聞けば、お前の方が偉そうだ、と言われそうだが、サナは本気で思っている。
そんなことを考えながらイノン家を後にしようとしたサナの視界に、ふと人影がよぎった。
そちらを見ると、この辺りでは見掛けない男がファイエルの家を窺うようにしてうろうろしている。
誰かしら、あの人。あ、もしかして昨日の放火犯? よく言うよね。犯人は現場に戻るって。どうなったかって、確かめに来たのかしら。あれが誰にしろ、あの素振りってすっごく怪しいわ。
寒くないどころか少し暑く思うようになってきたこの時期に、暗い色のコートを着て、ごていねいにフードまでかぶっている。そのフードの中からちらちら見える顔は、三十代後半から四十代くらいの男。細く、隙のない目つきで辺りを窺って。
コートを着ているので体型はわかりにくいが、たぶん細め。背は高くもなく、低くもなく。髪の色ははっきりしないが、たぶん暗めだ。
「ちっ」
イノン家の裏手へ行くのを見て、サナはこっそり後をつける。その周辺を見ていた男が舌打ちするのが、確かにサナの耳に届いた。
被害が最小限に抑えられているのを見て、いまいましく思った……としかこの状況では他に考えられない。
すっごく怪しーい。あ、もしかして……ファイエルにあんな手紙を送ったのも、あの人かしら。
脅迫状めいた、あの手紙。一瞬見えただけだし、筆跡で男女が見分けられるなんてことがサナにできるはずもない。
だが、こうして見ていると、あの男が関わっているような気になってくる。偶然にしては、タイミングが合いすぎだ。
……思い込み、というのは怖いものである。
サナが見ていると、男はその場を離れた。サナに見られていることには気付いてないようだ。
あの様子からして、男はこの放火に何かしらの関係が絶対にある……とサナは思った。
たとえ手紙は関係なかったとしても、火事には一枚かんでいそうだ。もしただの野次馬なら「ちっ」なんて舌打ちはしないはず。
人の不幸を喜ぶ人間という可能性はあるが、それならわざわざコートを着て様子を見に来るだろうか。この様子を見たのがサナではなく役人などだったら、絶対に「ここで何をしている」といった質問をされる。
どうしよう。あの男、犯人かも知れない。このまま見逃したら、また同じようなことをしでかすかも。だけど、誰かに知らせに行ってたら、見失うよね。
好奇心旺盛。強い執着心。ファイエル曰く、しつこい。
そういう性格で、こんなに怪しい人間をこのまま見送るなんでできる訳がない。
考えたのは、ほんの数秒。サナは男を尾行することに決めた。
自分一人で男を捕まえようなんて、そこまで大それたことは考えていない。自分が非力な女の子で、魔法や何かの術ができる訳ではないことくらい、わかっている。さすがにサナもそこまで無謀ではない。
男がどこへ行くのかを見届けて、こういう怪しい男がいた、どこそこへ向かった、という報告を後ですればいいのだ。
たとえ魔法使い達が駆け付けた時にあの男がその場にいなかったとしても、何か証拠になりそうな物や、行き先を示す物が残されている可能性はある。そこからは、魔法使いや役人の仕事だ。
昨日の今日だし、サナの証言が全く無視されることはないだろう。特にファイエルは気にかけるはず。
とにかく、サナはきっかけを作ればいい。
少し距離を置いて、サナはこっそりと男を追い掛ける。
男の足はそんなに速くなかったので、尾行するのも楽だった。どこかへ寄り道をするでもなく、人気のない裏通りをひたすら歩き続ける。
裏通りとは言え、まだ明るい中で暗い色のコートを着ている男はよく目立ち、見失うこともない。その足取りを見る限り、男はサナに尾行されていることにまったく気付いてない様子だ。
気が付けば、男はいつの間にかイエスミスの街を離れ、街の西にあるパレーズの森の中を歩いていた。
森の中かぁ。いかにも悪者の隠れ家がありそうよね。もしかして、この森のどこかに仲間がいたりするのかな。あの火事は魔法の火だって聞いたから、この先に術者がいて、あの男が現場を確認に行って……状況説明を聞いたら術者はまた違う方法で悪いことをするのかしら。
男を追いながら、サナはあれこれと想像をふくらませてゆく。行く手からは、何度も鳥の羽ばたく音が聞こえた。
どれだけ歩いただろう。似たような所をぐるぐる回っているような気がするが、ちゃんと帰れるか不安になってきた。森の中なんて、似たような光景ばかりだから心配だ。来慣れた場所ではないから、なおさら。
ファイエルにもよく「迷子になるなよ」などとからかわれるが、本当に迷子になったりしたら今度こそ一生言われ続ける。何度森で迷子になったら気が済むのか、と。
だけど、今更帰れないもん。ここまで来て、あの人がどこへ行くかを見届けないなんて、あたしにはできないよ。
やがて、男の行く先に小さな小屋が現われ、男は周囲を窺うことなくその中へ入った。小屋の向こう側へ回ったので、出入口の扉は反対側にあるのだろう。
何かしら、あれ。
木こりや森の中で何か仕事をする人が使う小屋だろうか。小さいが、割とこぎれいな小屋だ。その外見からして、最近建てられた物かも知れない。
サナのいる場所から見えている壁に窓はなく、中の様子は窺えそうにない。だが、明かり取りの小さな窓はあるから、あそこから覗けば少しはわかるだろう。
ここまで来たんだもん。ちょっと中を見て、見付からないうちにそっとここを離れれば大丈夫だよね。
サナは自分にそう言い聞かせた。
仲間が何人いるか、というくらいまで情報があれば、きっとファイエル達の役に立つはずだ。少しでも早く放火犯が捕まれば、マリエル達も安心して過ごせるようになる。
サナは自分ができる限りの注意を払って、その小屋へ近付いた。壁に耳を付けてみるが、中からはこれといった声は聞こえてこない。
この中にいるのは、さっき入ったあの男一人だけなのだろうか。それなら、会話が何も聞こえてこないのもわかる。
人間の顔サイズの明かり取りの窓がある所へ行くが、背の低いサナにはちょっと届かない位置だ。背伸びしても、真っ直ぐに中を覗けない。どうがんばっても見上げる形になってしまうので、そこから見えるのは天井くらいだ。これでは覗いてる意味がない。
サナはすぐそばに木の箱が転がっているのを、見付けた。何が入っていたのか知らないが、この上に乗れば楽々覗き込むことができるだろう。
そっと箱の上の方を押してみたがしっかりした造りのようだから、サナが乗っても壊れることはなさそうだ。
その箱を静かに窓の下へ持って来ると、サナはそっと箱の上に乗った。ギッという少しばかり不安な音をたてたが、壊れそうな様子はない。
つぶれたりしませんように、と祈りながら、サナは窓から小屋の中を覗いてみる。
そこはがらんとした狭い空間があるだけだ。男の姿はなく、イス一脚すらもおかれていない。家具の類が一切ないので、その陰に男が隠れている、ということはないはず。
なのに、誰もいない。そこから中は一望できるが、人影は見当たらなかった。
あれ、あの男がいない? どうして? さっき確かにコートの男が入ったはずよ。まさか知らないうちに外へ出てるとか……。
慌ててサナは振り返ったが、やはり誰もいない。扉が開閉した音は聞こえなかったし、知らないうちに小屋から出てしまったのではないようだ。
ほっとして、サナはもう一度窓の方に向き直った。
「きゃああっ」
出してはいけないと思いつつ、それは本能としか言い様がなく、サナは悲鳴を上げた。
明かり取りの窓から、男が中からこちらを見ていたのだ。全てを知っていたかのように。
現在、小屋の壁一枚を挟んで、サナは男と睨み合う形になっている。
一体、どこにいたのだろう。さっきは確かに誰もいなかったのに。隠れる場所などなかったのに。窓の真下だろうか。それなら、死角になっていたかも知れない。だが、こんな完全に気配を消せるものだろうか。
「いけないねぇ、お嬢さん。知らない男の後をつけて、こんな所まで来るもんじゃないよ」
男は確かに低い声でそう言った。だが、口が全然動いてない。
今、男はフードを取っていた。なので、顔が影に入って見えにくい、という状態ではない。細く黒い目、短い黒髪、やや歪んだ高い鼻など、顔はちゃんと見える。四十代くらいであろう男。
にも関わらず、目の前にいる男はまるで人形のようにまばたきすらもせず、しゃべったのにくちびるがピクリとも動かないのだ。
ただ、こちらを見ているだけ。
何、これ。変よ、この人。腹話術師……じゃないわよね。むしろ、人形の方みたい。声に抑揚はあったのに、無表情だし。
見付かった、ということより、男の異様さの方がサナには不気味で怖かった。
得たいの知れない何かがそこにいる……いや、あるような。