現れた男
エルパの森へ来ると、サナは手元にある紙と周囲にある草を見比べながら、薬草を探していた。だが、どれも似たような形に見えるし、そもそも黄色くない。
あのおじさん、すぐにわかるとか、たくさんあるような言い方したけど、どこにもそれらしいのがないじゃない。だいたい、黄色って一言で言っても、色々あるよね。薄いのか濃いのかもわからないし、白っぽい黄色なのか赤っぽい黄色なのか……。森って緑ばっかりと思ってたけど、案外たくさんの色があるから、もうわかんない。
探し方が悪いのか、探す場所が悪いのか。
サナは紙を握りしめながら、薬草を求めてどんどん森の奥へと入って行く。
……おかしいな。あたし、さっきから何だか頭にもやがかかってるような気分。どうしたんだろう。ずっと家の中にいたから、調子が戻ってないのかな。
自分であって、自分でないような。熱にうかされているような気分だ。
ぼんやりとなりながら、それでもサナは森の中を歩き続けていた。
そのうち、どこからか水の音がかすかに聞こえてくる。サナの足は、自然にそちらへと向いた。
水の音にひかれて歩いて行くと、小さな滝の前へ出る。きれいな水が落ち、そこから細い川が伸びていた。
サナは特に意識することなく川のそばにしゃがみ、水に手を入れてみる。冷たくて気持ちいい。
「あれ?」
その水の冷たさで、サナははっとなる。夢から覚めたみたいに、急に頭がはっきりしてきた。それと同時に、自分の行動に疑問を感じる。
あたし、どうしてこんな森の中にまで来てるんだろう。ここ、どこだっけ? えっと……あ、エルパの森だよね。それで……そうだ、薬草を探そうと思ってたのよ。だけど、どうしてそんなふうに思ったのかな。一人で勝手にこんな所まで来たりしたら、みんなに心配かけちゃうじゃないの。
そこまで考えて、サナは青くなった。
いっけない。おばあちゃんにも何も言わずに来ちゃってる。今頃あたしがいなくなったことに気付いて、絶対心配してるわ。
サナは慌てて立ち上がり、すぐに街へ戻ろうとしたが、踏み出したその足が止まる。
ぼんやりした状態で、ずっと森の中をさまよっていたのだ。今更帰ろうにも、森のどの辺りに自分がいるのか、皆目見当がつかない。目印になるような物など、一切記憶になく。
ぼんやりしていなくても、サナは迷子になりやすいのだ。そんな彼女に、自分の現在位置がわかるはずもない。
ちょっとお……これって、まさにパレーズの森の二の舞じゃないの。
この前も森へ入って帰れるかどうか不安だったが、あの時以上に不安になる。ここまで来てしまうと、恐怖とも言えた。
ど、どうしよう。そう何度もうまい具合にファイエルが助けに来てくれるとは思えないし、お兄ちゃんはファイエルにあんなことをした犯人を捜してるはずだし、他の魔法使いは……。無理! 誰にしたって、あたしがこんな所にいるなんてわかるはずないよぉ。
がっくりとうなだれるサナの目に、流れてゆく川が映る。
川……そうよ、この川に沿って下って行けば。うまくいけば、いつかは森から出られるかも知れない。どこかで途切れたりしなきゃいいけど。とりあえずこの森さえ出られたら、人のいる場所だって見付かるはずだわ。そうすれば、街へ帰れる。とにかく、森から出られさえすれば……。
気を取り直して、サナは再び歩き出そうとした。
「お嬢さん、教えてあげた薬草は見付かったかい?」
「きゃっ」
サナの行く手に、いきなり人が現われる。それまで全く気配がなく、足音もせず、あまりに突然だったので驚いた。
だが、よく見れば薬草のことを教えてくれた、ちょっとさえない感じのするあのおじさんだ。
「あ、あの時の……。いえ、まだわかんなくて。それに、道に迷ったみたいで困っていたんです。あの、街への戻り方、教えてもらえませんか」
「戻る必要はないよ」
その言葉に、サナはぎくっとなる。それまでとは違う、聞いた覚えのある声だ。
今のって……あたしがファイエルの家から尾行した男と、同じ声?
パレーズの森にある小屋で、サナを結界の中に閉じ込めた男。あの時に聞いたのと同じ声に思えた。
「逃がさないよ」と言った、あの声に。
そして、サナの記憶の正しさを証明してくれるかのように、目の前のおじさんの姿が変わってゆく。
「あなた、この前の……」
長い黒髪を持ち、鋭い目つきをした、二十代くらいであろう若い男。
そこにいるのは、パレーズの森で消える寸前にフードを取って顔を見せた、あの男に間違いなかった。
おじさんの姿が二つに、若い人の姿一つ。どれが本物の姿なのよ。
どれが本物であれ、危険な人物が目の前にいることに変わりはない。
「お嬢さん、知らない男の言葉をそう簡単に信じちゃいけないよ。悪い奴に何かされたらどうするんだい。周りにいる人達が心配するだろう?」
にせものの親切心でくるんだ悪意のかたまりの言葉に、サナは思わず後ずさった。だが、男は数歩も歩けばサナを掴まえられる位置にまで近付いている。
騙された。と言うより……またおびき出された。
商店街は人が多い。そんな所で何かされるはずはない、と誰もが思っていた。人の目がある所で、滅多な行動に出られるはずはない、と。
だから、レリックも祖母の同伴を条件に、買い物だけはいいと許可したのだ。
なのに、サナはこうもあっさり連れ出されてしまった。
どうしてこんな……。あ、この紙……この紙のせい?
ずっと手に握っていた紙を見て、サナは納得した。
思えば、薬草の絵を描いたこの紙を渡されてから、森へ行かなければと強く意識させられた。おかしいと疑うこともなく。祖母には声もかけずに一人で来てしまった。
森へ来たら来たで、頭の中がぼんやりとして帰り道がわからなくなる。それでも、惰性で歩き続けて。
水に手を入れて頭がすっきりしなければ、さらに奥まで入ってしまい、ずっとさまよっていたかも知れない。あのままでいれば、一体どこまで歩かされたのだろう。
「あなた、何が目的なの。あたしを……ううん、ファイエルに何をするつもり」
これまでのことを考えれば、相手がファイエルに対して悪意を持っているのは明らか。
サナが尋ねたところで答えが返るとは思っていなかったが、思いがけず男は答えた。
「俺と同じ目に遭わすのさ」
「同じ目……?」
「失うことの悲しみや、奪われることの悔しさをね。死ぬ直前にその気持ちをたっぷり味わってもらってから、奴の背中を押してやるよ。死の淵に立っているそうだからな。そんな奴が相手なら、指一本で押せばすぐに終わる」
「どうしてっ。どうしてそんなこと、ファイエルにしなきゃいけないのよ」
サナは当然の疑問を口にする。
きっと最悪のことを考えているだろう、とは思っていたが、本当にそのつもりだと聞かされると心臓が縮むような気がした。
「そりゃ、ファイエルは顔がきれいなくせに口はすっごく悪いし、性格もかなり悪いんじゃないのって思う時はしょっちゅうあるし、本気で殴ってやりたいって思うこともたまにあるけど」
サナはフォローがフォローになっていないことに、全然気付いていない。相手はあきれた顔をしていたが、そんなことはどうでもいいらしい。
「他の奴がどう感じていようと、こちらには関係ない」
「だ、だけど、人を殺すなんて、絶対によくないわよ」
「だが、あいつは殺したぞ」
「え……」
あまりに衝撃的な言葉を聞かされ、サナは絶句した。
うそ……ファイエルは人を殺したことがあるの? そんなの、聞いたことないよ。
「そんなの……そんなの絶対にうそよっ。ファイエルが人を殺すなんて」
絶対にそんなことはない。あたしを動揺させるための、この男のでっち上げだ。
いくらファイエルの性格が悪くても、そこまでひどいことをするはずがない。
「お前がそう思うなら、勝手にそう思えばいい」
男の口調に、感情は見えない。嘘なのか本当なのか。
「とにかく、そういうことさ。だから、俺も殺す。それだけのことだ」
そう言い切った時、サナには男の瞳が光ったように見えた。
この前はわからなかったが、今はすぐ目の前に立っているので男の瞳が青いのがわかる。ファイエルも青い瞳だ。でも、彼はもっと濃いし、同じ青でもこんな冷たい色じゃない。
冷たく見える時もあるが、ファイエルはこの男のように全く体温を感じさせない視線を人に向けることはなかった。少なくとも、サナはそんなふうに思ったことは一度もない。
この人……本気だ。本気でファイエルを殺そうとしてる。
男の視線と言葉に、サナは体温を奪われてゆく気がした。
「あの時……パレーズの森でも、ファイエルを殺すつもりでいたの?」
「うまくいけば死ぬこともあっただろうが、あの時はある程度脅せればよかった。予想以上の効果があったようで、俺としては万々歳といったところだ」
「なっ、何が万々歳よ。あの結界と魔物のせいで、ファイエルはひどいケガをしたのよ。それってあんたのせいじゃないっ」
相手の言い方に、サナは線が二、三本切れた音を聞いた。こらえきれず、男の胸ぐらに拳を叩き付けようとする。
だが、相手は叩かれる前にあっさりとサナの手を掴んでしまう。
「ああ、そうだ。俺がやったんだから、俺のせいだ。だが、あんなしょぼい手にあそこまで簡単に引っ掛かるくらいだから、奴の力量も大したことはないな。腕がいいなんて噂を聞いたが、全くアテにならない。所詮は顔だけで、周囲からは他もいいように見てもらっていたってところだな。あの結界は消されるだろうと予想はしていたが、この程度の傷で済んだぞ」
街の中で紙を渡された時、左手の甲に火傷のような傷があるのをサナは見た。その傷が目の前の男にもある。あの時の結界が消された時の反動でついた傷、ということだろうか。
だが、そんなものはどうでもいい。サナはファイエルを侮辱されたことが許せなかった。あんなに傷だらけになっても、ファイエルはサナを助けてくれたのに。
「そんなことないわよっ。ファイエルはすごいのよ。ケガしてたって、結界を二つも壊して、魔物だって消したもん。大したこと、なくないもんっ」
涙を浮かべながらサナは掴まれた手を振りほどこうと暴れるが、たくましくも見えないのに男の力は強い。力を込めてもまるで歯がたたず、サナは悔しくて相手の足を蹴ろうとしたが、まるでダンスでもするように回転させられ、気が付けば後ろから羽交い締め状態にされてしまった。
そんな格好にされて、サナは青くなる。
頭にきてつい殴りかかってしまったが、そうすることで自分から捕まりに行ってしまったようなものだ。ここは少しでもこの男から離れるべきだったのに。
「おとなしくしなよ、お嬢さん。何をしたって、俺からはもう逃げられない。あんたが奴と仲がよかったことを後悔するんだね。恨むなら、奴を恨め」
「あたしはあんたを恨むわっ。ファイエルは全然悪くないもん。あたしをどうするつもりよっ」
「さぁ。そんなことは、知らない方がいいんじゃないか?」
サナの耳元で、男が不気味な言葉をささやいた。