噂
パレーズの森から無事に帰って来られたものの、サナはずっと悔しいと同時にひどく落ち込み、また疑問に思っていた。
あたしに探偵みたいなマネゴト、できるはずがないのに。あたしって本当にバカだわ。ちょっと考えれば、わかるはずじゃないの。軽はずみにしても、程ってものがあるわよね。あたしがあんな男にのこのことついて行かなきゃ、ファイエルだってあんな目に遭うこともなかったのに。だけど……どうしてあの男はファイエルにあんなひどいことをするのかしら。あまりにも陰険すぎるわよ。
ぐだぐだ考えたところで、あの男が捕まらなければその理由はわからない。サナの頭で答えが導き出されることは、はっきり言って永遠にないだろう。自分でも悲しいが、それくらいの自覚はある。
かと言って、サナの手であの男を捕まえ、尋問することなど、不可能だ。後をつけていたのもばれてしまい、あんな簡単に閉じ込められてしまったのだから。
うまくいきすぎて、絶対にあの男は今頃大笑いしている。そう考えると悔しい。
あれこれと考えてしまうことはたくさんあるが、やはりサナの心を一番占めるのはファイエルのことだった。
会いたいよぉ、ファイエル。いつまでこんな状態が続くのぉ?
サナが助けられてから、今日でもう七日も経っている。
最初はレリックから「まだ危険かも知れないから」という理由で、外出禁止を言い渡されていた。もちろん、アイサでの仕事も当分休みだ。
あんなことがあった後でもあり、サナはおとなしくその言いつけを守っている。
だが、ずっと家に閉じ込めておく訳にもいかないというので、二日前からローニャと一緒に近所へ買い物に出るくらいなら、というところまで禁止は緩んでいた。
絶対に一人にはならない、という条件付きで。
それでも、ファイエルの見舞いに行きたい、というサナの唯一にして最大の要求だけは、レリックに強く反対された。
どこに彼を狙う犯人がいるかわからないからだ。まだ目星すらついていないらしい。
その犯人が「またファイエルを苦しめるためにサナを狙う」という可能性が否定できないので、今はイノン家に絶対近付くな、とレリックに何度も言われた。それこそ、耳にタコができそうな程、しつこく。
「サナがファイエルのことを心配なのはわかるよ。俺だって反対するのはつらいけど、これは二人のためでもあるんだ。この件が片付けば、またすぐに今まで通りに会える。もう少し待つんだ。いいね」
自分のせいでファイエルが負傷したと思っているサナは、渋々でもその言葉に頷くしかない。
ファイエルがまた目の前であんな風に倒れてしまうのは、絶対にいやだ。自分がその原因になってしまうのは、もっといやだ。
自分のせいで自分がケガをするのは、いわゆる自業自得。悪いのは自分なのだから、仕方がないとあきらめられる。
でも、自分のせいで大好きなファイエルがまたケガをするなんて、もう耐えられない。力なく目を閉じるファイエルを見たくない。
それなら、そうなってしまわないよう、おとなしく兄の言うことに従うしかなかった。会いに行かなければ、サナが危険な目に遭うことはない。結果として、ファイエルがケガをすることはなくなる。
だが、やっぱりファイエルに会えないのは淋しい。外出禁止より、面会謝絶状態の方が、サナにはつらかった。外へ出られるようになった今、余計に会えない苦しさが胸を締め付けるのだ。
しかも、街ではいやな噂が流れている。それがサナをますます暗い気分にした。
ファイエルが危篤だと言われているのだ。
魔法使い同士で戦い、相手の力を受けてケガをした。
誤って爆発物に触れ、ケガをした。
暴漢に襲われ、ケガをした。
蜂に尻を刺された馬が暴走し、その馬が引く馬車に撥ねられてケガをした。
一昨日、外出禁止令が緩んで街へ出た時、たった一日でこれだけの話をサナは耳にしたのだ。
最初に聞いた時はあまりの衝撃に呆然としてしまい、ローニャに肩を揺すられるまでサナはその場に立ち尽くしていたくらいである。
なぜだか原因がたくさんあるのだが、とにかくその全てが最終的に「ファイエルがひどいケガをした」ということで終わるのだ。
瀕死の重傷を負い、ずっと危篤状態が続いている、と。
もちろん、サナはファイエルがケガをした理由を知っている。自分が関わって、どういう状況であったのか、ずっと見ていた。
だが、外出禁止及び面会謝絶だったので、その後ファイエルがどんな具合になっているかはわからない。
それだけに、この「ファイエル危篤」という噂を、頭から完全に否定することができないでいた。
あの時は暗かったが、ファイエルの様子からして軽傷ではなかったはず。
こんな傷で死ぬかよ、などと言っていたが、単に強がっていただけ、とも考えられる。
弱みを見せたくない、という変な意地。
ファイエルならとてもありえそうだ。
あの時は本当にそこまでひどい傷ではなかったにしろ、もしかすれば、あの周囲によくない魔法がかかっていたとか、魔物の毒が身体に回ったとか、サナにはわからない理由で時間が経ってから寝込んでいるのかも知れない。
そうでも考えなければ「危篤」だなんて噂が流れるのは変だ。
元気なら外で見掛けることもあるだろうし、そうなればそんな穏やかじゃない噂は流れたりしないはず。
本当に危篤状態だから、レリックはサナにファイエルの所へ行くなと言っているのではないか。
そう思って、サナは兄にこんな噂を聞いたがどうなのかと尋ねた。自分でも驚く程、はっきりと。
もし……万が一にもファイエルが危篤で、億に一でもファイエルが本当に死んでしまうことがあれば……。
このまま会わないで別れてしまうなんて、絶対にいやだ。
もしレリックが一瞬でも真実を見抜かれてどきっとしたような顔をすれば、狙われるかも知れないなんて可能性など無視し、サナはファイエルの元へ走るだろう。
「まさか。あいつがそう簡単に死ぬはず、ないだろ」
サナは真剣に聞いたが、レリックは笑ってそう否定した。もしこれが演技なら、兄は今後魔法使いをやめても役者になれるだろう。
「……ごめんよ、サナ。今は本当の事情は言えない。だけど、ファイエルは元気にしてる。それは本当だ。もう少しの間、待ってくれ。頼むよ」
レリックは嘘をつかない。それは今までのことからもわかっていた。兄が妹に対して嘘をついたことなどないのは、サナが一番よく知っている。
しかし、内容が内容だけに、今回に限ってサナは完全にレリックを信用しきることができなかった。
ファイエルがケガをしたのは、ゴマかしようのない事実だから。目の前で起きたことだから。
妹を心配させないための、優しい嘘。
兄がそうしていない、と言い切れないのが悲しい。
本当の事情は言えないけれど、ファイエルは元気。
レリックの言葉が真実だとしても、こういう言い方ではかえってサナの気持ちを混乱させるだけだった。
「サナ、夕食の買い物に行こうか」
買い出しに出掛ける準備をしながら、ローニャが声をかけてくれる。普段は一人で出るのだが、外出禁止が一部解けた孫の気晴らしのために一昨日から連れて行ってくれるのだ。
「うん……」
暗い気分を晴らすために、サナはローニャと一緒に外へ出た。
だが、やっぱり気分は晴れない。持ち切り、という程ではないにしろ、街を歩けばファイエルの「重体説」や「危篤説」がどうしたって耳に入って来るからだ。
「ねぇ、奥さん。ご存じ? アイサのファイエル、重傷なんですって」
聞きたくない話に限って、サナの耳はやたらと聞き取ってしまう。自分はこんなに耳敏かったかと思ってしまう程だ。全然関係ないのに「ファ」という音だけでも反応してしまう。
「ああ、聞きましたわよ。何でも、天をつくような大男に叩きのめされたとか」
「あら、私は魔物に襲われたと聞きましたわよ。火の玉のような魔物に焼かれて、全身大火傷をしたとか」
「まぁ……あの顔が傷付くのはもったいないですわねぇ」
「魔物にしろ、大男にしろ、嫉妬したんじゃないかしら」
「そうかもねぇ。でも、その気持ちもわかりますわぁ。そこいらにいる女性よりもずっときれいですもの」
「本当、見ていてうらやましくなりますわよねぇ」
顔の話はともかく……一体、どこでそういう噂を仕入れてくるのか、聞いてみたい気もした。
ケガをしたという部分以外、どうしてこうも話がバラバラなのだろう。大男にしろ魔物にしろ、やられ方が全然違う。大男の描写がほとんど巨人だ。そんな大男に叩きのめされたら、重傷どころか死んでしまわないだろうか。
人の口に戸は立てられないと言うし、噂には大抵尾ひれが付くものだ。でも、ここまでくると滅茶苦茶な気がする。
「お嬢さん」
噂話に聞き耳をたてるのも疲れたサナに、誰かが声をかけてきた。
自分が呼ばれたと知ってそちらを見ると、目をしょぼしょぼさせた、さえない中年のおじさんが立っている。
「お嬢さん、確かケガをしたって魔法使いとお友達じゃなかったかい?」
「え……はい、そうですけど」
友達、という言い方が果たして正しいのかどうか。ファイエルはどういう意識でサナを見ているのか、難しいところだ。単なる親友の妹なのか、からかうのに適したおもちゃとか……。
どういう関係にしろ「知人」には違いないので、とりあえずサナは頷いておく。
サナと一緒に買い物に来ていたローニャは、八百屋のおばさんと楽しげに話し込んでいて、こちらには気付いていないようだ。
「ああ、やっぱり。わしは最近、この街へ来るようになったんだがね。お嬢さんがよくその魔法使いと一緒にいるのを見掛けてたもんで。大変なことになってるようだねぇ」
サナは他に返事の仕様がなく、ただ頷くだけ。
サナがファイエルと一緒にいるところは、二人を知る街の人ならよく見ているだろう。こちらは知らなくても、他人はよく知っている、ということは多々ある。
サナはこのおじさんを見たことはない。最近街へ来るようになったということだし、そんな中でサナ達を見掛けていた、ということだろう。
「心配だよねぇ。仲のいい友達がそんなことになってしまったら」
「……」
レリックの話では、元気……らしい。
でも、自分の目でちゃんと見ない限り、心から安心することはできない。まして、ケガをした原因が自分であれば、なおさらだ。
今のところサナにとって、真実は闇の中でしかない。
「実はわし、仕事で薬草を扱っていてね。ケガによく効く薬草があるんだよ」
「え?」
うつむきがちだったサナが、その言葉に顔を上げた。
「あぁ、と言っても、今は切らしてしまっているんだけどね。この街から東へ向かって行くと、エルパの森があるだろ? あそこにその薬草がたくさん生えているんだ」
「そうなんですか……」
薬草には明るくないサナ。言われても、そんな返事しかできない。医者や薬剤師でもなければ、薬草のことに詳しい人はそんなにいないだろう。
「もし時間があれば、採りに行ってみるといいよ。それがあるだけでも、ずいぶん治りが違ってくるからね。本当によく効くって評判なんだ。こんな感じの草だよ」
おじさんは懐から紙を出し、それにさらさらと薬草の絵を描いてサナに渡した。その左手の甲にあるのは火傷の痕だろうか。手の甲を横断するように傷跡ができている。
「形はこんなで、黄色なんだ。他の草とは違うから、見ればすぐにわかるさ。早く友達が回復するといいねぇ」
「あ、ありがとうございます」
おじさんは手を振って、人混みの中へ消えて行く。
噂をするだけじゃなく、こうして気を遣ってくれる人もいたりするんだ。
そう思うと、サナは少し気持ちが軽くなったような気がした。
渡された紙を改めて見てみると、全体的にギザギザした形の葉。大きさについては、紙に描かれたものが原寸大かは不明なので、現物を見て確認するしかなさそうだ。
サナはこんな薬草を見たことがない。知らないから、どこかで生えているのを見ても素通りしていたのだろう。森へなど滅多に行かないから、なおさらだ。
いくらレリックが元気だと言っても、ファイエルがケガをしているのは事実。少しでも早く治ってほしい。この薬草があれば、たとえ一日二日でも早く元気になれるのだ。
この薬草、探しに行こう。
サナはなぜか、唐突にそう考えた。
自分のせいで、ファイエルはケガをしたのだ。これくらいのことをしても、当然。なぜ今までおとなしく言われるままにしていたのか、そちらの方が不思議に思える。
そうよ。おとなしくしてちゃ、ダメだわ。ファイエルには早く元気になってもらって、あんな悪いことをするヤツなんか、さっさと捕まえてもらわなきゃ。薬草は黄色っておじさんは言ってたから、あたしにだって見付けられるはず。
サナは、一緒に買い物に来ていたローニャの存在も忘れ、エルパの森へ向かって歩き出した。
ローニャはまだ八百屋のおばさんと話し込んだまま。周囲の誰も、サナに気を止める人はいなかった。
紙を握りしめて足早に歩くサナ。
そんな彼女をずっと目で追っている何かがいることは、誰も気付かない。