二重結界
「ファイエル!」
チェムの叫びと同時に、ファイエルの身体がすぐそばの木まで弾き飛ばされた。
その音を聞いて、魔物と向き合っていたサナは驚いてそちらを向く。
「くっ……二重結界、か……」
ファイエルのこめかみから流れる血が、頬をつたって落ちてゆく。いつも髪を束ねている白いリボンが切れ、はらりと顔にかかった。
「小細工しやがって……」
ファイエルは、サナの周りに張られた結界ばかりに気を取られていた。だが、結界はもう一つあったのだ。
サナを囲む結界の外側。そこに、別の結界が張られていたのである。
サナを囲む結界は、中にいる者を逃がさないようにするため。
その外側にある結界は、中へ入ろうとする者を排除するため。
ファイエルは外の結界に気付かず足を踏み入れたため、結界の力に弾き飛ばされたのだ。巧妙にその気配が隠されていたためと、サナに、そしてさらには彼女の後ろでタイミングよく現われた魔物に気を取られたため、ファイエルはその結界の存在に気付かなかったのである。
これも奴の計画のうち、か……。
ファイエルは、相手が自分の力を誇示するため、サナを利用したと思った。
それは間違いじゃない。
ただ、うまくいけばファイエルを痛めつけよう、という目的もそこにあったのだ。
かなり強く叩き付けられた。それに、結界に触れたことで服の下には身体中に無数の裂傷ができている。
犯人はどこまでやろうというのだろう。動けなくなったファイエルの前で、サナが魔物に襲われるのを見せ付けるのも、目的の一つなのか。
仮にここへ来たのが別の魔法使いで、今のファイエルのようになっていたら。
それはそれで、ファイエルは精神的にかなりダメージを食らうだろう。この犯人を野放しにしていた自分の怠惰を悔やんで。自分がもっと早く処理するために動いていれば、余計なケガ人を出さずに済んだのに、と。
そんなファイエルを見れば、相手はその様子に少なからず満足するだろう。どういう形ででも、ファイエルを傷付けられさえすればいい、と。
「なめられたもんだぜ」
身体中のあちこちから血をしたたらせながら、それでもファイエルは立ち上がった。
「ファイエル……きゃああっ」
結界の外のできごとに気を取られていたサナだが、自分のすぐ後ろに巨大ナメクジが迫って来ていることに気付いた。結界の外で何が起きようが、魔物にすれば知ったことではないのだ。
慌ててサナはその場から離れるが、結界があるので移動範囲が限られてしまい、どうしても遠くへは離れられない。その姿のせいか、魔物がゆっくりとしか動かないのがせめてもの救いだった。
しかし、うがった見方をすれば、これさえも犯人の計画のうちかも知れない。
いくら魔物の動きが遅くても、閉じ込められた場所ではサナも疲れ果て、いつかは捕まる。そんな重圧をじわじわと加え、追い詰めてゆく。
それをファイエルに見せ付けようとしたのかも知れない。他の魔法使いが来ても、こうなっていただろうか。
「この……これで終わると思うなよ」
ファイエルは素早く呪文を唱えた。
派手にガラスが割れるような音がして、ファイエルを弾き飛ばした外側の結界がまず崩れる。本当のガラスが割れたかのように、破片がきらきら光りながら地面へ落ちた。こんな状況でなければ、きれいとさえ思える光景だ。
続けてサナの周りの結界を消すべく、ファイエルは呪文を唱えた。さっきよりもさらに大きな音が響き、結界が消える。
だが、魔法を使うことで、さらに身体へ負担がかかった。あちこちの傷が開き、血が吹き出る。堪えきれず、ファイエルはひざを付いた。
「サナ、早くこっちへいらっしゃい」
結界が消えたことを知らせ、チェムがサナを呼び寄せる。ナメクジから少しでも離れたいサナは、すぐにそちらへ駆け出した。
「伏せろっ、サナ!」
ファイエルに怒鳴られ、ほとんど転ぶようにしてサナは地面に伏せた。そんな彼女の頭上を魔物が飛び越す。
サナが恐る恐る顔を上げると、さっきまでのナメクジはどこにもおらず、でも身体の表面はナメクジみたいなネバネバしている別の魔物が、サナとファイエルのちょうど間の位置にいた。
今度は猿に近い形をしている。丸い頭で、シルエットだけならかわいく見えるだろうが、その目は黄色くらんらんと光っていた。ニッと笑ったように見える口元に、嫌みな程鋭い牙が並んでいる。
「変幻自在か。とことん楽しもうって腹のようだな」
魔物はサナではなく、今度はまっすぐにファイエルを狙って飛びかかって来た。傷の痛みですぐには動けないファイエルは逃げ切れず、その鋭い爪で左肩を切り裂かれる。
「ファイエル!」
ほとんど涙声で、サナがファイエルの名前を叫んだ。
どうして……どうしてこんなことになるの。こんな風になってほしくて、こんな森の奥へ来たんじゃないのに。
「……隠れてろ」
それだけ言うと、ファイエルは肩を押えながら立ち上がる。サナができるのは、ファイエルの足手まといにならないよう、近くの木の陰に隠れることだけ。
ファイエルを襲った魔物は、素早く近くの木に登って次の機会を窺っていた。
姿が変わると、動きもずいぶんと変わる訳か。……ふん、いつまでも俺がやられたままでいると思うなよ。
ファイエルは、低い声で呪文を唱える。その途端、木の上にいた猿がツルに絡まれた。
魔物にすれば、相手を見下ろせる有利な位置にいたはずだが、魔法使いにそんなことは関係ない。
「早かろうと遅かろうと、動きを封じればこっちのもんだ。覚悟しろっ」
魔物を睨み付け、業火の呪文を口にする。火の妖精であるチェムがその呪文に呼応し、大きな炎が魔物を包み込んだ。まるで綿菓子のように、その姿はあっという間に溶けて消えてしまう。
「……くっ」
また身体中の傷が開き、ファイエルは力を失ったように崩れて倒れてしまう。
「ファイエル!」
もう邪魔をしてくる魔物はいない。サナは木の陰から飛び出し、今度こそファイエルの方へ駆け寄った。
スカートの裾をためらうことなく破り、倒れたファイエルの肩に当てる。
「しっかりして、ファイエル。あぁ、チェム。どうしよう。ファイエルが……ファイエルが死んじゃう」
「どうしようって言われても……。とにかく、落ち着いて、サナ」
チェムも、サナに対してと言うよりは、自分に言い聞かせるような口調だった。
頼られても、チェムにだってファイエルの傷をどうこうできる力はない。治癒の魔法は彼女の専門外だ。
「これくらいで死ぬかよ、バカ……」
痛むくせに、ファイエルの口調はいつもと変わらない。
「バカって何よ、バカって」
かちんときて、サナは思わず言い返した。
「わめくな。傷に響く……」
「ご、ごめん」
静かに言われてしまい、サナは慌てて口をつぐむ。こんな物言いでも、ファイエルだってつらいには違いない。声から力強さが完全に失われている。
サナは両袖を破ると、額や頬を流れる血をそっとぬぐった。でも、こんなものでは間に合わない。服で見えないが、血がにじんでいるのだからその下に傷があるのは明らかだ。しみの大きさや数からして、その傷は一つや二つじゃない。
手などの見えている部分も、大小の切り傷がたくさんできているのが、チェムの出した明かりの下でもわかる。
「死ななくても、やっぱりこのままじゃ……。あたし、誰か呼んでくる」
手元には何もない。これ以上服を破いたら、ほとんど裸になってしまう。こうしてファイエルの横に座り込んでいるだけでは、応急処置すらもできない。誰かの手が必要だ。
サナは決心して、助けを求めに行くことにした。
だが、立ち上がろうとする彼女の手を、ファイエルが掴んだ。傷を負ってるとは思えない力に驚く。その手にぬれた感触がするのは、血のせいだろう。
「行くな」
「え……」
かすれた声より、その言葉に少しどきっとする。
「また迷っちまうだろ」
続けられたその言葉で、サナは一気に脱力してしまった。
「ファイエル……こんな時くらい、違うことが言えないの」
怒鳴りたいのを懸命にこらえ、それでも一応抗議する。こんな状況なのに、森で迷子になった昔のことを言うなんて、余裕があるところを見せたいのだろうか。
「……魔法使い達が、この森へ来ている。レリックも……。そのうち、誰か……ここまで来る。待ってろ」
からかった訳ではないらしかった。
確かにこんな暗い森の中では、誰かを呼びに行きたくても無理だ。サナは松明やランプなどの灯りは持っていない。こんな暗い中では、ファイエルが言うように迷ってしまうのがオチだろう。
ただでさえ、サナは方向オンチだ。それにうまくレリック達に会えたとしても、ここまでまた戻って来られるかもかなり怪しい。
「私が呼んでくるわ。二人とも、おとなしくしていなさいね」
小さな明かりをその場に一つ残し、チェムは森のどこかにいるであろう魔法使いを捜しに行った。彼女なら、サナが行くよりもずっと早く戻って来てくれるだろう。
チェムが姿を消し、急に静寂が二人を包み込む。
「……大丈夫?」
「んな訳ないだろ」
見ればわかるが……。一瞬、むっとしたものの、サナには他にかけられる言葉が見付からない。
よく知りもしないこんな森の奥まで来てしまい、サナは助かった時にどう言い訳しようかとファイエルが現れるまでずっと考えていた。そうすることで、閉じ込められた恐怖を頭から追い出そうとしていたのだ。
でも、実際には言い訳どころじゃなくなってしまった。
これなら、まだこっぴどく叱られていた方がいい。こんなことになるなんて、思いもしなかった。自分の軽率さがこんな事態を招いたのだ。
ファイエルが傷だらけになりながらもかわいげのない口調が相変わらずなのは、聞いていて少しほっとする。だが、その声に張りがないし、言葉が続かない。
ファイエルをこんな状態にしてしまって、サナは呼吸が苦しくなるくらいつらかった。
「サナ」
ふいにファイエルが口を開く。
「な、何?」
「悪いけど、ひざ貸してくれ。この体勢だと、ちょっときつい」
普段のファイエルなら、絶対に言わないであろう「きつい」という言葉。サナが思う以上につらいのだろう。
ひざ枕なんて、いつもなら恥ずかしくて絶対に拒否するところだが、今のサナにそんな権利はない。それに、助けが来るまで少しでもファイエルが楽になるようにしてあげたかった。
「う、うん……」
サナはファイエルの頭をひざに乗せた。動かすと肩の傷が痛むようで、かなり顔を歪めたが、落ち着くとファイエルは大きく息を吐く。
「どう? 少しは楽?」
「ああ」
楽とは言っても、やはりつらいに違いない。チェムが残して行ってくれた小さな明かりではっきりしないが、顔色もかなり悪い。着ている服も、時間が経つにつれて血に染まっている範囲がますます広がっているようだ。
赤い髪の広がりが、血の流れを連想してしまう。
「ごめん。服が汚れちまうな」
「いいよ、そんなの気にしなくて。痛むでしょ。もうしゃべらないで」
こんな時に変な気を回さないでほしい。こちらの方がつらくなってしまう。腹は立つけれど、さっきみたいな言い方をされてる方がずっとよかった。
「ケガ……してないか」
自分の方が明らかに重傷なのに、こちらの心配をされたら泣きそうになってしまう。
「うん。何ともないよ。さっきのは怖かったけど」
ナメクジにしろ、猿にしろ、魔物に直接攻撃はされなかった。巨大ナメクジに接近されるという気味悪さや恐怖はあったが、実害はない。あんなことがあって、よく無傷でいられたものだ、と自分でも感心してしまう。
「そうか。……悪かった」
「え? どうしてファイエルが謝るの」
意外すぎる言葉に、疑問がわく。
ファイエル達が捜しに来てくれることになった経過は、まだわからない。だが、こういう事態になったのは、サナがふらふらと知らない男を尾行したからだ。ファイエルが謝る要素なんてどこにもないのに。
「俺のせいだからな」
「どういう意味?」
ファイエルはサナを助けてくれた。それなのに、どうして「俺のせい」になるのだろう。
「俺がさっさと……終わらせ……なかっ……から……」
言葉が途切れがちになり、次第にかすれて聞こえなくなる。眠ったようだ。いや、この状態は気を失った、と言う方が正しい。
今日のファイエル、いつもと違うよ。いつもなら、一人でのこのこと森なんかへ来るな、とか何とか言うじゃない。絶対、そういう言い方で怒ると思ってたのに。悪いのはファイエルじゃなくて、考えなしのあたしなのに。何だかいつものファイエルじゃないみたいで……胸が痛いよ。
ファイエルの傷だらけの手を握り、少し苦しそうな寝顔を見詰めながら、サナは少しでも早く魔法使い達がここへ来てくれることをひたすら祈った。
そうするしかできなかった。