閉じ込められたサナ
そんなことよりも、ここから早く離れなきゃ。
サナはふと冷静になった。この状況は、間違いなくピンチだ。
ここから逃げ切れるかどうか、自信はない。運動神経はある方とは言えず、残念ながら足も鈍足に入るレベル。細くても大人の男性と、小柄で非力な女の子では、力の差は歴然。
だが、相手はまだ小屋の中だ。外へ出るまでの時間分だけでも距離がかせげるかも知れない。森の中なら、木の陰に隠れることだってできるだろう。
迷っている暇はなかった。サナは箱から飛び降りると、すぐに走り出す。
「きゃっ」
しかし、いきなり何かにぶつかり、走っていた勢いもあって、身体が景気よく跳ね返された。
「いったぁ……」
ぶつかったことと、跳ね返って地面に倒れたことで二重に痛い。
今の、何? どうなったの?
何にぶつかったのかと顔を上げるが、見てもそこには何もない。
だが、確かにサナは今、何かにぶつかったはずだ。
「逃がさないよ」
「きゃっ」
男の声がすぐ間近で聞こえた。小屋の中にいた男とは別の声だ。サナがびくっとして振り返ってみたが、誰もいない。サナ一人だ。
どうして? どうなってるの。まさか……あたしが今ぶつかったのって結界?
兄が魔法使いとは言え、実際に修行している訳ではないサナには、あまり詳しいことはわからない。
だが、見えない壁、つまり結界が張られたためにぶつかったのでは、という想像くらいはできる。
見たこともない、もちろん触ったこともない結界だが、そう考えれば何もない所で景気よくぶつかってしまったことも、それで説明がつく。
あの男、魔法使いなの? じゃ、あの男自身がファイエルの家に火をつけた術者?
サナはごくりと唾をのんだ。もう少ししたら、あの小屋から現れるのだろうか。
そう考えた直後、声にならない悲鳴を喉の奥であげる。
突然、さっきまでそこにあった小屋が消えてしまったのだ。まるで砂の山が崩れるように。
そして、さっき中にいた男だけが、その場に残っている。窓からこちらを覗いていた時は取っていたフードを、また深々とかぶっていた。男はゆっくりとそのフードを取る。
取るくらいなら、かぶらないでそのままでいればいいのに……などと、そんな場合ではないが、男の様子を見ていて思う。
だが、そこに現われたのは、さっきまでサナが後をつけていた四十代くらいであろう細い目をした男ではなかった。シルエットだけならあまり変化はないが、別人だ。
立っているのは、ファイエルとそんなに年が離れてなさそうな、若い男だった。長く真っ直ぐな黒髪を後ろに流して、うっすらといやな笑いを浮かべている。さっきの男程に細い目ではないが、目つきの鋭さだけは変わっていない。
どっちが本物なの……。
混乱するサナは、また悲鳴を上げる。
サナが見ている前で、さっきの小屋と同じように男の姿がさらさらと崩れたのだ。
じっくりと男の顔を観察する時間もなく、男は完全に消えてしまった。
消えた? あたしに何かするつもりじゃなかったの? だって、逃がさないって言ったのに……。
てっきり何かされるのでは、最悪の場合は殺されるのでは、と思っていたサナは、一気に力が抜けてしまった。
そこには、もう何もない。小屋も男も。
小屋が建てられるだけの空間がある草むらに、サナだけが取り残されていた。
だが、今は怖がっている場合ではない。あの男が戻って来ないうちに逃げなければ。早くファイエル達に知らせなければ。
サナは逃げることだけを考えるようにして、急いで立ち上がった。そして、その場を離れるべく走りだそうとしたが……また見えない壁に行く手を阻まれた。男はいなくなったのに、見えない壁は残っているのだ。
「うそ……出られない」
叩いてもビクともしない。試しにサナは地面に落ちていた石を拾って投げ付けてみたが、見えない壁に当たって跳ね返ってくる。この状態だと、透明な檻に入れられたようなものだ。向こうの景色は見えているのに、そこへ行けない。
「早く見付けてもらえるといいねぇ」
「ひっ」
どこからか、さっき「逃がさない」と言った男の声がして、サナは首をすくめた。
見回しても、やはり誰もいない。あの「逃がさない」という言葉は本気だった。本当にサナをここから逃がすつもりはないのだ。
まさか……もしかしてあたし、おびき出された? 自分の姿を見られたから、目撃者を消すために、とか。そんなぁ。
こんな状況になって、サナはようやく自分に起きた事態を把握した。
森の中で、しかもかなり奥まった所まで来ていると思われる。男の後をについて行くのに必死になっていたので、どれくらいまで奥に入ってしまったのか、サナにはまるで見当もつかない。
ただわかるのは、森の中を行き来するような人が通る道からはずっと外れた場所にいる、ということ。つまり、たまたま通りがかった人に助けを求める、ということがまず不可能な所へ連れ込まれているのだ。
しかも、悔しいことに自らの意志で。
「やだやだっ。ねぇ、ここから出して。出してよぉ」
半泣きになりながら、サナは透明の壁を力一杯叩いた。
だが、壁が壊れる様子はなく、サナの行為をあざ笑う声すらも聞こえてはこない。
ただ、鳥の羽ばたく音が遠ざかってゆくのだけが、耳に残った。
☆☆☆
「ああ、ファイエル。お前に手紙が来てるぜ、ほら」
同僚の魔法使いが、事務室を通りかかった時に預かったからと、ファイエルに一通の手紙を渡した。
「ありがとう。……今日の分はもう受け取ったはずだけど」
「直接窓口に置かれてたらしいぜ」
郵便とは別に、直接アイサへ手紙が持ち込まれることがよくある。これもそういった手紙だろう。
表には確かにファイエルの名前。裏を返しても、差出人の名前はなかった。
「じゃ、ちゃんと渡したぞ」
「ああ」
同僚の声を聞きながら、ファイエルは封を開けた。ちゃんとのり付けされていない。
不審に思いながらその中身に目を通した途端、ファイエルの顔色が変わる。
「おい、事務室にサナはいたか」
去りかける同僚の背中に、ファイエルが尋ねた。
「サナ? 今日は休みだろ。……おい、どうかしたか?」
その声には答えず、ファイエルは走り出していた。
外は夕暮れになる少し前の時間帯。商店街は、夕食の買い出しに来ている主婦達でごったがえしている。
その間をすり抜け、ファイエルはサナの家へと向かった。
「あら、ファイエル。そんなに慌てて、どうしたの?」
夕食の準備をしていたローニャが、不思議そうな顔で突然の来訪者を迎えた。
「ローニャさん、サナは?」
息を切らしながら、早口に問う。挨拶をする余裕はない。
「サナなら、あなたの家へ行ったわよ。お宅のおばあさんにクッキーを焼いて、それを持って行って……。こんな遅くまでいて、お邪魔じゃなければいいんだけれど」
午前に出掛けた孫は、まだ帰って来ない。ローニャは話がはずんでいるのだろう、くらいにしか考えていなかった。この分だと、夕食までごちそうになってくるのでは、とまで思って。
だから、いつもはサナがやっている食事の用意を、ローニャがゆっくりとやり始めているのだ。
「くそっ」
「あ、ファイエル?」
ローニャの声を背に聞きながら、ファイエルはまだ息も整わないうちに再び走り出した。
自分の家へ向かう途中、彼を追うように馬で走って来たレリックと出会う。ちなみに、彼が乗っている馬は魔獣だが、一見しただけでは一般の人にはわからない。
「ファイエル、何があった」
あのファイエルが血相を変えて飛び出した、と聞いて、気になったのだ。
いつも冷静な彼が顔色を変えるなど、そうあることじゃない。何か起きたのは間違いないと、レリックは判断したのだ。
「……サナを取られたかも知れない」
「取られた?」
息を切らしながらファイエルはそれだけ言うと、さっき渡された手紙を馬上のレリックに渡す。
かわいい彼女は篭の鳥
毎日送られてくるものと同じ筆跡だが、いつもの手紙とは違って何の細工も力も加えられてはいなかった。
だが、手紙の内容はいつも以上に悪辣とも言える。たった一行で、誰かを監禁状態にしていることを告げているのだ。
「彼女って……サナのことか」
「リュレイシアは事務室にいただろ。俺にこんな手紙を送り付けて、家族以外の女性を示しているとしたら、人数は限られる」
手紙には「彼女」の前に「かわいい」と付けられている。母や姉が対象なら、そういう言葉が付くとは考えにくい。付いたとしても、別の表現になるだろう。
「で、サナは家にいないのか」
「ローニャさんに聞いたら、ばあちゃんに会いに行ったらしい」
「乗れ」
ファイエルが後ろに乗るか乗らないうちに、レリックは馬を走らせた。
イノン家に着くと、玄関の扉を蹴破るように開けて、ファイエルは中へ入って行く。
「母さん、サナは?」
自分の家だが、その様子はほとんど怒鳴り込み状態だった。
「どうしたの、ファイエル」
「サナはどこへ行った?」
いらいらしたように、ファイエルは質問を繰り返した。母のローズィーは息子の様子に戸惑いながら答える。
「サナちゃんなら、お昼過ぎには帰ったわよ。昨日の火事のお見舞いにって、手作りのクッキーを持って来てくれて」
「それは聞いたよ。その後、どこかへ行くって言ってた?」
予想以上に、サナがこの家を出た時間が早い。
「いえ、私は何も聞いてないけれど……どうしたの?」
さすがに母も怪訝そうな顔をするが、ファイエルには答える余裕などなかった。
後から入って来たレリックを促して、門の外へ出る。
「昼過ぎには家を出てる。寄り道してるとしても長すぎるから、ここを出てから家へ戻る間に何かあったんだ。やっぱり火事の後、そばへ来させるべきじゃなかった……」
サナがファイエルと話をするのを見て、犯人は少なからず彼女がファイエルと関わりがあると判断したのだろう。いや、その前からすでに知っていたのかも知れない。
計画的なのか突発的なのかはさておき、サナを利用することにしたのだ。
「さんざんお前の番だとか言いながら、どうしてサナに手を出すんだ。仕掛けてくるなら、俺だけにすればいいものを」
いらいらした口調で吐き捨てるように言い、ファイエルは拳を門に叩き付けた。
「理由を考えるのは後だ。まずはサナを捜そう」