口の悪い魔法使い
無駄に思える程元気よく伸びる森の枝葉に遮られ、空を仰いでも太陽の光はわずかしか降り注いでこない。そのせいか、周囲は薄暗くて空気もひんやりしていた。
昨夜の雨のせいで、地面にはあちこちに水たまりができている。大きな水たまりこそ少ないものの、ぬかるんでいてひどく歩きにくい場所が多い。
足を踏み出せば、その度に泥がはねて靴や服が汚れる。後ろから見れば、きっと泥の水玉模様ができてかなり小汚い格好になってしまっているだろう。
今は泥ハネなんかを気にしてる場合じゃないわよねぇ……。
サナはその場に立ち尽くし、大きくため息をついた。
間違いなく、これは……迷子になっちゃった。
主観的に見ても客観的に見ても、この状況は他に言い様がない。
それまで歩いていた道も通り慣れたものではなかったが、いまや周囲は本当にまるっきり見覚えのない景色。それらを見回し、どうやら道に迷ったことにいやいやながらも思い知らされてしまった。
ちゃんと道なりに歩いていたつもりだが、きっとどこかで街の方向を指し示す道しるべを見落としてしまい、普通の道に見える脇道へそれてしまったのだろう。自分でも気付くのが遅すぎだと、ちょっと落ち込む。それでさっきのため息が出るのだ。
もう少し早く気付いていれば、何とかなったかも知れない……と言っても、時間は戻ってくれない。
☆☆☆
ぬかるんだ道で迷子になっているサナは、十歳の少女。現在、リープの村からイエスミスの街へ向かう途中……向かっているはず、である。
サナは一歳の時に両親を亡くし、これまで父方の祖母であるリダと暮らしていた。だが、寄る年波にはやはり勝てず、先日リダは他界したのだ。
サナには、一回り年の離れた兄レリックがいる。彼も昔はサナ達と一緒にリープの村で暮らしていた。だが、サナが二つにもならない時に村を出ている。
レリックは、子どもの頃からずっと魔法使い志望だった。両親が存命の時はもう少ししたら街へ行って……という話をしていたが、そうなる前に二人は亡くなってしまう。
こんな田舎の村では魔法の勉強などできない。かと言って、まだ妹も小さいし、祖母と二人だけにするのはためらわれた。
孫が悩んでいるのを見たリダが「たまに顔を見せてくれればいいから」とレリックの好きなようにすることを勧めてくれたのだ。
そうして、レリックは魔法使い協会アイサがあるイエスミスの街へ行ったのである。
イエスミスの街には、母方の祖母ローニャがいた。レリックはローニャの元へ行き、兄妹はそれぞれ両親の祖母と暮らしていたのだ。
リダに言われた通り、レリックは時間を見付けてはリープの村へ帰り、祖母と妹に顔を見せるようにしていた。
そうこうするうちに、九年が経つ。
先日、リダの訃報を聞き、飛んで帰って来たレリック。葬儀も一通り済ませると、サナにイエスミスの街へ来るように勧めた。
まだ十歳では一人で畑を切り盛りできる程の力もなく、サナの生活が困難になるのは目に見えている。いくら村人が親切でも、それに甘えて養ってもらう訳にはいかないから、と。
サナは自分が育ったこの村が好きだ。かと言って、泣いて離れるのを嫌がる程には未練もない。
それに、今まではたまにしか会えなかった大好きな兄とまた一緒に暮らせるようになるのだから、すぐにイエスミスの街へ行くことを決めた。
ただ、今まで暮らして来た家の掃除やら何やら、後始末はちゃんとしてから行きたい。
レリックは仕事があるので、村には長くとどまっていられない。だったら全てが片付いたら一人で街へ向かう、とサナは答えた。
リープの村は、イエスミスの街から幸いにも一番近い場所にある村だ。道草さえしなければ、子どもの足でもだいたい一日あれば着ける距離である。そのおかげで、レリックもちょくちょく帰ることができていたのだ。
レリックも無理に早く来いとは言わず、妹の気が済むようにと先に街へ戻った。
気を付けて来るんだぞ、と何度も言い残して。
☆☆☆
兄に言われなくても、サナだって気を付けるつもりだった。
村を出るのはこれが初めてではないが、まったく一人で出る、というのは初めて。頼れる相棒が一緒にいるという訳でもないし、それなりには注意して進んで……いるつもりだった。
それが、この体たらくである。
自分が方向オンチだなんて、村にいる時にはわからない。村の中の距離なんて知れたものだし、そんな所で迷うはずもないからだ。
しかし、こうして村の外へ出ると、自分は村から一番近い街へ一人で行くこともできないのか、と情けなくなってくる。
どうしよう。子どもの足でも一日で着ける距離だからって思ったから、お弁当くらいしか持ってない。それだって、さっき全部食べちゃったし……。もしずっとこのまま歩いていても街へ着かない、村へ戻れないってなったら、ご飯も食べずにぬかるみで野宿することになるのかな。う……そんなの、いやだよぉ。お兄ちゃん、助けてぇ~。
サナは半分泣きそうになりながら、ここにはいない兄に助けを求めた。だが、その場にいない人間に、しかも心の中で助けを求めても、助けてもらえるはずはない訳で……やはりサナは迷ったままだった。
余計な自信など持たず、仕事が落ち着いてからでも、兄に迎えに来てもらえばよかった、などと今更思っても、後悔先に立たず。
じっとしていても仕方がない。街が向こうから来てくれる訳ではないのだ。
サナは気を取り直して、再び歩き出す。
だが、すぐにその足が止まった。進行方向から何かが動く音が聞こえたのだ。
風が通り過ぎた、というレベルの音じゃない。落ちた小枝を踏み割り、草を踏みしめ、かき分ける音だ。
今の音からして、ウサギやリスなどのかわいくて小さな動物、とは思えない。どちらかと言えば、中くらい、もしくは大きいと分類される動物のような。
待って、サナ。落ち着くのよ。今のは絶対に風の音じゃないけど、だからって動物とは限らないよね。人間かも知れないじゃない。えっと、例えばえっと……そう、猟師さんとか。だったら、道も教えてもらえるだろうし、そうしたら街へも行けるわ。ってことは、これは逆に歓迎すべき音なのよ。うん。
サナは無理にいい方へ考えようとした。でなければ、今すぐにここから走り出したい、という気持ちに勝てそうになかったから。
もし、お友達になりたくないような相手が出たりした場合。例えば、肉が大好きなお腹を空かせている動物さんだったりすれば……。
逃げようとするサナを見付けたら、背中から襲って来るかも知れない。そういう相手には、余計な刺激は絶対絶対ぜーったい与えない方がいい。
頭のどこかで、それなりにサナは的確な判断をしていた。
だから、また音が聞こえた時も自分が走り出さないよう、とにかく落ち着くように、いい方へと考えようとしたのだ。
「きゃああっ」
しかし、草むらから現われた相手を見て、さっきまでの決心はあっけなく崩れ去り、サナは我慢しきれずに大きな声で叫んでしまう。
慌てて自分の口を押さえても、もう遅かった。一度出した悲鳴は、もう戻らない。たぶん、サナが十年間生きてきた中で、最悪の状況だろう。
現われたのは、人間どころか動物ですらない。全身が暗い緑のウロコに覆われ、直立したトカゲのような魔物だったのだ。
ただでさえ、サナは爬虫類系が苦手である。それが人間の大人程もある巨大バージョンで現われたのだから、悲鳴を上げるのも無理はなかった。どう見たって、サナより大きい。
「……エサ……だ……」
その悲鳴で魔物は攻撃本能、もしくは食欲を刺激されてしまったらしい。まさかまさかの言葉を使う魔物だ。片言ではあるが、その方がずっと不気味に感じられる。
現われる前から一応のシミュレーションはしていたが、やはり余計な刺激を与えてはいけなかったのだ。
薄いピンク色の舌がチロチロと動く。それが舌なめずりしているように見えた。その口にあるのは、歯と言うよりは牙だ。しかも、肉食系の。
うそぉ……エサって言った? やっぱり、あたしのこと……だよね。どうしよう。えっと、トカゲって何が苦手だっけ。確かシッポを切ったら逃げ……あたしの腕より太いじゃないっ、あのシッポ。あんなの、切れっこないよぉ。しかも、刃物はないし。
サナはあたふたしながら、どうやってこの場をくぐり抜けるか、必死に考える。
だが、魔物と遭うなんて予定はもちろんなかったので、サナは丸腰だ。ついでに恐怖と焦りで混乱している頭では、何も浮かんでは来ない。
おもむろに腰をわずかにかがめると、魔物はサナの方へと飛びかかってきた。とても逃げられない。
「いやああっ」
サナはまた悲鳴を上げながら、しゃがんで身を縮める。無駄とは思っても、自分の頭を守るように上方で手をクロスさせるくらいしかできなかった。
だが、トカゲの攻撃がサナを襲うことなく、すぐ近くで不気味な音が続けて響く。
何かが地面に叩き付けられたような音と、まるで踏みつぶした時にカエルが出す悲鳴のような。
そして、その悲鳴が次の瞬間には耳をつんざくようなものに変わった。
驚いて顔を上げると、サナの目の前でトカゲが青白い炎に包まれている。
「な、何……これ」
青白い炎は、完全にトカゲの身体を包み込んでいた。身体をくねらせてトカゲは苦しんでいるが、どう転げ回っても炎が消える様子はない。
サナが呆然としながらトカゲの様子を見ていると、今度は後ろから音がした。新手が来たのかと思い、サナはびくっと身体を震わせて恐る恐る振り返る。この森がこんな危険な所だなんて、聞いたことがないのに。
だが、今度は魔物ではなかった。
妖精……?
サナは、その姿を見て最初にそう思った。だが、人間だ。きれいな顔をしているので、最初は少女かと思ったが、よく見れば少年。
そこにいたのは、鮮やかな赤の長く真っ直ぐな髪を後ろで軽く束ね、深い湖のような濃い青の瞳をした少年が一人。とても背の高い(サナが座り込んでいるので余計に高く見えた)細身の少年は、どこか少し人間離れしたような、不思議な雰囲気を持っている。
そのせいで、サナは妖精が現われたのかと思ったのだ。
「お前がこの辺りで旅人を襲っているという魔物だな」
大きな目をさらに大きく見開き、サナが彼を見ていると、耳に心地いい声がした。高くなく、低すぎず。
少年が魔物に問いかけたのだが、炎の熱さに苦しんでいる魔物から答えなどない。耳障りな悲鳴だけが返ってくる。
「たとえそうじゃなかったとしても、今のは間違いなく現行犯だわ」
さらにさらによく見れば、少年の肩に何かいる。サナが目をこらすと、仔ねこくらいの大きさしかない少女が、彼の肩に立っているのだ。
小さくて瞳の色はわからないが、少年に負けないくらいきれいな赤い髪をした美しい少女。彼女はサナが自分の方を見ていることに気付いて、その艶やかな赤い口元にわずかに笑みを浮かべる。
それを見ると、声にはしていないが「大丈夫」と言われたような気になった。
少年は一歩進むと、座り込んでいるサナのすぐ脇に立つ。それから、まだ呆然と彼を見上げているサナの頭に手を置いた。そのため、サナは彼を見たままの状態で動けなくなる。
少年の意図がわからず、サナはその手を払いのけるということも思い浮かばない。
え、何? あの……あたし、これって何をされてるの?
サナの戸惑いをよそに、少年が何かつぶやく。何と言ったのか、サナには聞き取れない。そもそも、サナの知っている言葉ではないようだ。
その直後、何かがすぐそこで破裂したような音が響く。少年の手がサナの頭から離れ、動けるようになった。でも、少年は何も言わない。動いていいのだろうか。
サナがもう一度魔物がいた方をゆっくり向くと、もう何もいなくなっていた。
「任務完了」
「今回は楽だったわねー」
「いつもこの程度じゃ、腕が鈍りそうだ」
「まぁね。でも、やっぱり仕事は楽な方がいいわよ」
何が起きたのか理解する前に全てが終わってしまったようだが、どうやら自分の目の前にいるのは魔法使いと妖精らしい、ということがサナにもだんだんわかってきた。
兄が魔法使いなので、サナにも彼らのような存在に対してそれなりの免疫はある。もっとも、妖精を見るのは初めてだ。
「あの……ありがとう」
この状況からして助けてもらったようなので、サナは礼を言った。
「立てるか」
心地いい声が今度は自分の方へ向けられ、サナは頷くと慌てて立ち上がる。腰が抜けたかと思ったが、どうにか自分の足で立てた。
だが、ぬかるみの中で座り込んでしまったので、服はすっかり泥だらけだ。下着にまで水がしみて、すごく気持ち悪い。
だが、こうして生きていられるだけでもありがたかった。少年が来てくれなければ、今頃トカゲの胃袋に入っているだろう。そうなる前にどれだけ痛い思いをさせられたか。彼の登場は本当にありがたい。
サナが立っても、やはり少年は背が高かった。どうがんばっても、サナの頭のてっぺんが、彼の肩にも届かない。
「こんな所で何をしていた」
すごくきれいな顔で、耳に心地いい声なのに、口から出るのはやけにきつい口調だ。
でも、顔を見れば無表情で、怒っている訳ではない、らしい。それとも、怒りを表に出さないタイプなのか。
この人、魔法使い……だよね? お兄ちゃんと同じはずなのに、どうしてこんな怖い口のきき方するのかなぁ。
サナの魔法使いの基準は、兄のレリックだ。と言うか、兄しか知らない。免疫があるとは言っても、それ以外の魔法使いに会うのは、妖精と同じく彼が初めてである。
「この辺りは最近、旅人が魔物によく襲われる場所だぞ。魔除け一つ持たずにのこのこと来るなんて、自殺行為もいいところだ。まさかその年で自殺志願じゃないよな」
「ち、ちがうよっ」
黙っていたら、完全に自殺志願者扱いにされてしまう。
サナは慌てて否定した。
「道に迷ったの」
ここで言い訳しても仕方がないので、サナは正直に話した。
「どこへ行くつもりだったんだ」
「イエスミスの街」
「お前、道しるべの字は読めるか? 街へ行く道から思いっ切り外れてるぞ」
思いっ切り、バカにされてるみたいだ。
「字は一応、一通りは習ったわよ。だけど、迷ったものは仕方ないでしょっ」
少年は見たところ、十五歳以上二十歳未満だろうと思われる。多少の誤差はあったとしても、相手は間違いなくサナより年上だ。
でも、バカにされたまま、というのもちょっと腹が立つ。こっちも好きで迷った訳ではないのだ。
「ファイエル、小さな相手にそんな偉そうな言い方、しないの」
彼の肩にいる少女が、少年をたしなめる。少年の方ではなく、彼女の方が妖精だった。
「ごめんなさいね。彼、あんまりほめられる口のきき方ができないの。あなたに限らず、誰に対してもこんな感じだから、気にしないでね」
「う、うん……」
本人に謝られたのではないにしろ、そう言われたら頷くしかない。
それに、サナが道しるべを見落としたのは事実だ。そこを突っ込まれたら、反論の余地はない。
「イエスミスの街へは何しに行くんだ? 買い物か?」
「ううん。お兄ちゃんがその街にいて、これから一緒に暮らすの」
「ふぅん」
尋ねたくせに、あまり興味のなさそうな相槌だ。ちょっと気分が悪い。
少年はいきなり踵を返すと、サナなどいなかったかのように歩き出す。
え……あの、さよならとかの挨拶もなしに、いきなりどこかへ行っちゃうの? 他の場所の魔物退治とかがあるのかな。
きょとんとしてサナがその後ろ姿を見ていると、少年は顔を半分だけこちらに向けて尋ねてきた。
「街へ行くんだろう。来ないのか?」
「え……?」
正しい道へ出るまで、送ってくれるつもりだろうか。それはありがたいが、それならそれで何かもう一言ほしい。いきなり歩き出されたら、こっちはどう動けばいいのか見当もつかないではないか。
「あたし達、イエスミスの街から来たの。一緒に行きましょ」
早い話、ついでらしい。
「そうなの? あ、待って」
妖精が教えてくれて、サナは慌てて少年の後を追った。
十歳のサナと、十七歳のファイエル。
二人が出会った春の終わりの日である。