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タラは閉じられたレストランの前を横切り、停留所で朝一番のバスを待った。
五分遅れでやって来た車輌で戻り、荷物を纏めて宿をチェックアウトする。何気なく思い立ち、仕事を与えてくれたあの公園に足を伸ばした。一昨日と同じように幾つかのパラソルが開き、あの水晶占いの老婆も──今度はしっかり存在していた。
「おばあさん、先日は予見をありがとう。お察しの通り、彼に会ったわ。で……ワタシ、故郷に帰ることにしたの。今までお世話になりました」
「そうかい……それは何より。道中お気を付けて、良い旅をね」
「ありがとうございます。さようなら、おばあさん」
まだお客の来ていない出店の前で、占い師と挨拶を交わし、荷物を抱えて駅を目指す。この時間なら今日中にパリに戻れる筈だ。そうすれば翌日のヴェル行き飛行船で一泊、明後日には帰郷出来る。
マルセイユ駅行きのバスを掴まえ、颯爽と乗り込むタラ。心はいつしか弾んでいた。久方振りに見るヴェルの様子に、気付けば思いを馳せていた。
到着後早速チケットを買ったが、発車時刻までにはまだ間がある。駅構内のカフェで遅い朝食を取り、まもなくといった時分ホームに移動したその背中に……大きな声が呼び掛けた。
「……タラっ!!」
「え?」
振り向いた先には、必死な形相で駆け寄るシアンの姿があった。
「ど、どうして?」
寸前で急ブレーキを掛け、膝に手を突いて荒く息を吐くシアンの脳天に、ただ瞳を丸くする。
「……目が覚めたら……もう、君は居なかった……! 店はまだ開いていなかったから、訊ける相手は、あの占い婆さんしか居なくて……イチかバチかで行ってみたんだ! そしたら……故郷に戻るって挨拶してったって……ならば、駅か空港だろ? 君の国が何処かは知らないけど、僕はこっちに賭けてみたんだ!!」
「シアン……」
やっとのことで此処までの推理を語ったシアンは、一度大きく息を吐き出し、呼吸を整え身を立てた。が、その面差しにはまだ焦燥と多少の憤慨が含まれていた。
「黙って帰ってゴメンナサイ。でも……」
「僕は一時の戯びを愉しむ為に、君に声を掛けた訳じゃないっ!」
シアンの大声に周りの足並みが滞った。好奇心や戸惑いを持つ幾つもの視線が注がれ、タラは逆に冷静な声色で彼をたしなめた。
「お願い、落ち着いて……そんな風に勘繰って逃げてきたつもりはないわ。でも……ワタシのノートはもう真っ黒なのヨ。もう……誰も上書きなんて出来ないの」
幾ら『彼』を止める為だったとしても、自分は『彼』の命を奪ったのだ。そんな行為をしてしまった辛い過去は、自分の心を闇に染めた。そして黒は……どんな色にも染まらない。
「君は……パスティスを飲んだんだろ? 水を受けて白く変わったあのパスティスを……僕が君の水になるよ……色を変えて、またその上に書き綴ればいい」
シアンの真剣な瞳が一歩タラに近付いた。その懸命な言葉と眼差しに、瞬間タラは後ろへ下がれなかった。シアンの両手がタラの肩を包み、その唇は──無理矢理オレンジ・レッドを手に入れた。
刹那タラの中にあの熱い血が一巡し、逆流する感覚が甦った。いや、実際には逆だ。先に逆流し、その血液は順流して、タラの心をストンと落ち着かせた。
二人に停められていた周囲の人々から、冷やかしの口笛や賞賛の拍手が鳴り響く。やっと離れたお互いの唇から、想いが混じった吐息が零れた。
「僕は君に運命を感じたんだ……だから──」
「運命なんて、感じるものじゃないわ。運命は……切り開くものヨ」
そうだ……そうして自分は『彼』を止めた。だから後悔はしていない。例えこの心に深い重みを、一生背負って生きることになると……分かっていたあの時でさえも──。
「タラっ!!」
タラは落としてしまった荷物を拾い、踵を返してシアンに背を向けた。既に入ってきていた列車に走り寄り、飛び乗った直後に扉は閉まった。
「タラっ!!」
窓の向こうの彼女の背に、シアンは今一度大きく呼び掛けた。タラは振り返らなかったが、彼はホームの端まで走ることをやめなかった。
◆ ◆ ◆
タラが無事ヴェルの大地を踏み締めて五日後──。
彼女は自宅の敷地に置かれたガーデン・チェアから、見える青空を眺めていた。
傍らのテーブルからティーカップを手に取り、ぼぉっとしながら一口を含む。その艶やかな唇から、自分でも良く分からない溜息を吐き出した。
──どうも……上書きされてしまったらしい……。
ヴェルへの飛行船から見下ろした広大なラヴェンダー色も、到着後駐艇場から自宅までに見えたラヴェンダー畑も、お陰様で『彼』を思い出さずに済んだのだが……どうしてだか、あのショールを首に巻いたシアンの笑顔がちらついて見えるのだ。
──彼も故郷へ戻っただろうか?
今をときめくファッション・デザイナーであるのだから、探す気になれば簡単に見つかるだろう。だが、引き留める彼を振り切って帰ってきてしまった自分には、もうその資格はないに等しい。きっと怒っているんだろうな──タラはそんな諦めで、だるそうに立ち上がり、今日の予定を思案した。
「工房にでも顔を出そうかしら……」
案の定、ラヴェンダー染めは観光客に大好評なのだ。手を貸してくれと、叔父から帰国早々頼まれていた。
食器をキッチンに戻し片付ける。身だしなみを整えたタラは、けれど工房とは逆の方向へ足を進めた。
──ちょっとだけネ……。
タラの家は島の西部に位置する。其処からやや西方向に南下すれば、飛行船からも見下ろしたラヴェンダー畑が広がり、その先には美しい海原が横たわる。鮮やかなブルーグリーンの──シアン色の海が。
歩いてゆく正面に、降り立とうとする飛行船が見えた。タラが帰ってきたフランス便は東の駐艇場を利用するが、西のこちらを使っているのは確かイギリス便だ。
やがて美しく咲き乱れるラヴェンダーの畝に入り、突き抜けた向こうに求めていた色を捉えた。タラはラヴェンダー色とシアン色の狭間に立ち、南に目を向けて両方の色を視界に映した。
──折角戻れる自分を手に入れたのに、心は半分置いてきちゃったみたい。
微かに哂いを洩らして、西からの暖かな風を受ける。十五分程していい加減工房に行こうと振り向いたその時──
「やった! 着いて早々見つけるなんてツイてる!!」
「え?」
ずっと遠くから駆けてくる小さな人影が、大きな声で叫んでいた。
「タラー! 運命を「切り開き」に来たよー!!」
「シ、アン……??」
満面の笑顔で手を振るその姿は、以前と同じヘーゼルナッツ色のサラサラな髪を流し、首には……あのショールを巻いていた!
「どうしてっ!?」
すっかり嫌われたと思っていたタラには、何故彼が追い掛けてきたのか、そもそもどうして此処が分かったのか、全く見当が付かなかった。
「あれから一度イギリスに戻ったんだ。自分の工房の職人がこのショールを見て、一目でヴェルのラヴェンダー染めだと断言してね。それからロンドン在住のヴェル出身者を見つけ出して……「タラ」っていう美人を知らないか? って訊いたら、「タラ」って名乗る「タランティーナ」という絶世の美女なら知ってるって教えてくれた!」
「……」
タラはその説明に思わず絶句したが、ヴェル国民に尋ねれば、それなりに自分は有名人だろう、とも納得がいく。
「自分の欲しい物は、必ず手に入れるって言っただろ? だから僕は……しつこいよ」
シアン色の瞳が、自信を湛えてウィンクした。タラはプッと吹き出し、
「そうみたいネ」
やっと二人は顔を見合わせて笑みを交わした。
「あ、それとこのショールの工房にも案内してよ。君にも惚れたけど、僕はこっちにも惚れ込んだんだ。悪いけど国籍をヴェルに移すから、今日から君の家に世話になるよ」
「え? ──ええ!?」
台詞の意味が理解出来ない内に、シアンはタラを抱き寄せた。再びあの熱い血が巡る、温かな口づけが捧げられる。
──白に戻った心のノートには、これからシアン色のインクで書き綴られるのだろう。
こうしてタラの第二の人生が、ついに始まりを告げた──。
○そして『ラヴェンダー・ジュエルの瞳』は、続編『アッシュ or ルク』へと続きます○
■続編のタイトルはその後『シュクリ・エルムの涙』と改名致しました。
※以降は2015~16年に連載していた際の後書きです。
本編七十七話・過去エピソード短編三作、未来エピソード物語一編(全六話)の計八十六話を読了くださいまして、誠に有難うございました!!
本編はもちろんのこと、過去エピソードにおけるタラやツパイの経緯で残された謎や伏線・フラグなど、続編にて明かして参りますので、宜しければまたお付き合いを申し上げます☆
続編は今作同様「あたし」の一人称でありますが、もっと軽いタッチの文体となっております。現状三十七話・八万字程度しか書けておりませんので、連載中に頑張りたいと思います(汗)。
一話目で驚いてくださる方がどれ程いらっしゃいますか心配なところですが、また楽しく書いて描いていきたいと存じます☆ 今後も末永く宜しくお願い申し上げます!
最後の最後まで、誠に誠に有難うございました!!
朧 月夜 拝




