[δ]
シアンのとっておきの場所とは、店裏手の急な階段を降りた先、断崖に囲まれた小さな入り江だった。
「確かに……ステキな所ネ」
タラは独り、岸の端まで進みながら、小さく納得の言葉を零した。そそり立つ崖壁の間に、煌めく水面が覗いている。その揺らめきがまるでキャンバスのような白い岩の表面に、美しい碧の紋様を投影していた。
「良かった、気に入ってもらえて。さ、ランチ……と言うよりアフタヌーン・ティーだね。戴こうよ」
振り返った先には、この景色を楽しむ為に設えたみたいな、太い流木が横たわっていた。シアンはその上に厚手の大きなクロスをすっぽりと被せ、バスケットの中から取り出した料理を中央に並べた。その端に腰掛け、彼女をニッコリと手招きした。
「サンドウィッチ?」
木皿にぎっしり盛り付けられた彩りを見下ろし、タラも逆側の端に腰を下ろす。
「シーフード・レストランだけどね。ハムとチーズのサンドもなかなかイケるんだ」
フルート型のグラスを手渡し、勢い良く蓋を飛ばしたシャンパン・ボトルから、淡い桃色の液体を注ぐ。肉料理とは言え、きっとカシ産の白だろうと思い込んでいたタラは、驚きの眼にそのグラスを翳した。
「シャンパーニュ地方の辛口ロゼだよ。この辺りではなかなか貴重な代物だね」
「……でしょうネ」
フランス北東部から此処まではかなり遠い。未だ流通もままならないこの時代に、こんな南部でお目に掛かれるとは思えなかった。
「では……この奇跡の出逢いに」
「「乾杯」」
シアンの掛け声に苦笑しながら、それでも合わせて言葉を繋ぐタラ。唇の奥へ流れる爽やかな酸味が、この空間を漂う潮の匂いに良く合った。
「とても美味しいわ。シャンパンもサンドイッチも……この風景も」
一通りを堪能したタラは、グラスを空にして満足そうに微笑んだ。
「もう一杯どうぞ。少しは元気になったみたいだね?」
「え?」
再びタラのグラスを満たしたシアンは、自身のそれにも継ぎ足し、正面の切り取られた空と海の絵画に目を向ける。
「テラスで見つけた君の横顔は、ちょっと哀しそうに思えたから。でも……勘違いだったらゴメン」
「……」
シアンは視線そのままに呟き、タラも図星の表情を隠すよう、同じ青の世界で瞳を染めた。
「此処は先刻のウェイター、ヴァレリーが教えてくれたんだ。マルセイユに着いたばかりの僕は創作に行き詰まっていて、仕事を放り出して当てもなく彷徨っていた。そんな時にあの店に辿り着いて……酒に呑まれていた僕に、この景色を見せてくれたのが彼だった」
「良いお導きを戴いたのネ」
振り向いて「ああ」と一つ笑顔を見せたシアンに、タラもまた一つ元気を貰った気がした。
「これから日暮れて夕焼けの後、宵闇の降る頃に、この白い石壁が淡い紫に変わる。その色が……君のくれたショールの色に似ていた」
「なかなかロマンティックなお話だけど、何人の女性をその物語で酔わせてきたの?」
シアンの甘い眼差しをかわすように、タラは流し目を細めて喉で笑った。折角のムードを害されたシアンは、
「んなこと誰にも話さないって! 第一……連れてきた女性は君一人だ。此処は僕の創作部屋みたいな物だからね。仕事と恋愛は一緒にしない」
そう言って拗ねたように頬を膨らませた。
「じゃあ、どうしてワタシを連れてきたの? 同じ職業の人間にでも見えた?」
再び真顔に戻るシアン。刹那タラも笑いを止める。
「……君は僕と同じ眼をしてる……から、かな」
「同じ……眼?」
ふと彼の瞳は涙を湛えるように潤んだ。そして──
「君は一体、何を失ったの?」
「え……?」
シアンの云う「同じ眼」が、タラの眼の奥底までも見通そうと貫いた気がして、彼女は一瞬たじろいてしまった。
「そ、れは……アナタが何かを失った、ということなの?」
僅かに震える唇が尋ねる。
「もうずっと昔のことだし、同じ境遇の子供なんて五万と居るのだろうけど……六歳の時に交通事故で両親を亡くしたんだ。その後は伯父が引き取ってくれて、息子である従兄と同等に育ててくれた。だけどまぁかなり厳格な家でね~! もちろん養ってもらった身だから、従順にこなしたつもりだよ。だからこそ、成人してからはとにかく自分の好きなことをやった。お陰で軽薄そうに見えるかも知れないけれど?」
シアンは過去を振り返りながら、それらを浮かべて様々な表情を見せた。最後に象った悪戯っ子のような面で、戸惑い気味のタラにおどけた目配せを一つ投げた。
「だから、さ? 同じ痛みを持った者同士なら、お互い解消出来ると思わない?」
「傷を舐め合うなんて、そんなにワタシ後ろ向きじゃないわヨ?」
少々不服な様子でグラスを傾ける。タラは口元をヘの字にしたまま再び正面を見詰めた。
「僕だってネガティブには見えないだろ? 舐め合うんじゃなくて、上書きし合えばいいんだよ」
「……上書き?」
おもむろに戻す彼への視線。
「そう。君の心のノートはもう、失った過去で沢山書き込まれてる。それはきっとインクが滲みて消えることはない。でもその上に違う色で書き綴れば……そのペンに僕がなれない? シアン色も悪くはないと思うけど?」
「アナタって、随分とキザなのネ」
今一度空にしたグラスを置き放して、タラは丸太の上で膝を抱え込んだ。
「ワタシは失ったんじゃないわ……自分で壊したのヨ」
見える足先の向こうで、海の照り返しを受けた石が鈍く光った。
「でも……後悔はしてないんだろ?」
膝に頬を預け、問い掛けたシアンの瞳に無言で頷いてみせる。
七年前、深い森での闘い。ラヴェル達のとどめで、きっと事は足りたに違いない。それでも『彼』の背に刃を向けたのは、自分が止めるべきだと思ったからだ。操っていた筈のザイーダの黄色い眼、それを宿してしまった狂った『彼』を、最期にせめて正気に戻してあげたかった。
「違うワインで呑み直そうか? 白と赤、どちらがいい? 店に上がって貰ってくるよ」
哀しみの瞳に戻ってしまったタラを気遣うように、シアンはやや明るめの声を出した。グラスもワイン用の物を、バスケットから新たに取り出してみせる。
「こんな所でワタシに付き合っている場合なの?」
「もちろん! 今日は君に会える予感がするって言っただろ? その為に空けておいたんだから、とことん付き合ってよ。それに僕は自分の好きなことは必ずやるって決めたんだ。だから欲しい物も絶対手に入れる。一つはもう貰えたけど、まだもう一つを貰えてないからね」
「一つって?」
身を起こし膝を戻したタラは、記憶を辿るように首を傾げた。
「貰った一つは、出逢った時に僕が欲しがったこのショールの薄紫。で……もう一つは、君の唇のオレンジ・レッド」
昨日パラソルの下でそうしたように、彼の指先がタラの口先で留まった。彼女もまた寄り目でそれを捉え、しかし両手は小脇に置かれた鞄を探り……
「この口紅がそんなに欲しいの? 意外な趣味ネ」
手にしたリップの蓋を引き抜き、クルりと一捻り、鮮やかな色をお披露目した。
「まさか!」
「まさか! ……でしょうネ」
そんなおかしなやり取りに、同じタイミングで笑いが吹き出す。シアンと笑えば笑うほど、タラの心は軽くなった気がした。
「……悪いけど、そう簡単にはあげられないわ」
「手強い方が燃えるって。……どう? 先に酔い潰れた方が負けっていうのは? 君、さっきパスティス飲んでただろ? きっと相当強いよね? 僕が勝てたら、どうか一つ熱い口づけを」
シアンはワインを取りに立ち上がった。長い影がタラを覆う。
「残念ながらアナタは一生勝てないと思うわヨ」
「やってみなくちゃ分からない!」
これまでの人生で、タラは酒に呑まれたことも、酔い潰れたことも一度もないのだ。たまには記憶でも失くしてみたい、そう思うことは幾度あっても、そうなることは有り得なかった。
「それでは、しばしお待ちを、マドモアゼル」
紳士な礼を捧げてシアンは独り階段を上っていった。──長い夜になりそうネ。タラはその広い背とカランクの白い崖壁を見上げて、眩しそうに瞳を瞬かせた──。




