[β] *
その翌朝、タラは店を開かなかった。
此処に来てから初めてのことだ。泊まっているシングルルームのベッドの上で、シルエットの美しい長い脚を投げ出したまま、ぼんやり天井を見詰めていた。
──こんなにアンニュイな理由は、本当は分かっている。
タラは軽く溜息を吐き出し、身を丸めるように横を向いた。
パリから南下してくる間に、つい立ち寄ってしまったゴルドのセナンク修道院。プロヴァンス地方に点在する、ラヴェンダー栽培地を繋ぐ「ラヴェンダー街道」も、その地で行なわれる「ラヴェンダー祭り」も、極力避けてきたというのに……中でも一番というほど有名なその場所へ、いつの間にか足を運んでしまっていた。
修道院の手前に広がるラヴェンダー畑は、故郷の南部を占める広大な群生地を思い起こさせた。そして──『彼』のあの瞳を。
──もうあれから何年経つと思ってるのヨ。
タラがウェスティと出逢ったのは、まだ三歳にも満たない頃だ。それからちょうど十五年、毎日のように通った王宮の奥。あの日々が一番平穏で幸せだった──だった、のだろうか?
久し振りに見たラヴェンダー畑は、彼女の心の深くから、何かを抉り出してきたようだった。
カラーセラピーの修行を兼ねたこの旅も、気付けば二年を過ぎていた。そろそろ潮時なのかも知れない。旅は時に心を弱くしてしまう。渡り鳥だってたまには羽を休めるべきだ。一旦『巣』に戻って英気を養えと、祖国に言われているに違いない。
「帰るべきなのかしら……」
サイドテーブルに置かれたカードの山が眼に入った。ヴェルが海に降りてきてもう五年、既に各国との交流は始まり、観光地化も進んでいる。わざわざ旅をしなくとも、観光客相手のセラピーの需要はあるのだ。ハイデンベルクの工房へ戻れば、手が足りないからと染色の仕事も手伝うことになるだろう。
けれどそれは否が応でも、ラヴェンダーに触れる機会が増えてしまう──『彼』を思い出してしまうということでもあった。
──今日はこれからどうしよう?
堂々巡りの考えを断ち切って、タラは上半身をだるそうに起こした。
もうあのスペースは何処かの商売敵が使っているのだろう。それにあそこで昨日の青年と再会してしまうのも、どうも気乗りがしなかった──「ほらね! 会えると思ったんだ」──あんな安直で短絡な予測で、有頂天になられたまま今の心に踏み込まれても、スマートな返しは出来そうに思えなかった。
見上げた掛け時計はもう十時を示そうとしている。
──食事に行きがてら、観光でもしてこよう。
タラは愛用のネグリジェを脱ぎ捨て、シャワーを浴びに浴室へ消えていった。
■セナンク修道院
■ラヴェンダー祭り
◆ ◆ ◆
残念ながら商業都市のマルセイユには、観光名所は限られている。丘の上に立つノートルダム・ド・ラ・ガルド教会。港外の流刑島シャトー・ディフ。そんな数少ない中でも、唯一タラの気晴らしになりそうな景勝地は、南東部の海岸線一帯を占めるカランクと呼ばれる入り江だった。
白い石灰岩の断崖絶壁が幾つも連なる中を、根を張った松の緑と海の碧さが映える。タラは宿の主人に其処までの行き方とお勧めのレストランを訊き、バスの窓から見える煌めく海原を楽しんだ。
教えてもらったシーフード・レストランは、降りたバス停から数分ほど海沿いを歩いた先に在った。切り立った崖ギリギリに建っているので、テラスからはカランクが眼下に一望出来る。平日のお陰かお昼時でも空いていて、笑顔の優しそうな若いウェイターが、一番見晴らしの良い席に案内してくれた。
──今日は一日何もしないと決めたのだから、もう呑んじゃおうかしら。
タラはアルコール・メニューに視線を巡らせて、ウェイターに問い掛けた。
「お勧めの食前酒は?」
「この街が誇る『パスティス・ド・マルセイユ』の水割りなどはいかがでしょう? アニスが強めですので、お嫌いでなければですが」
「ではそれを。前菜はシーフードをメインに適当にお願いするわ」
「かしこまりました」
ややあって同じウェイターが琥珀色の液体を入れたグラスと、水の入った小さめのデカンタを運んでくる。テーブルに置かれたそのグラスに、
「水を注いでも宜しいですか?」
「ええ、お願い」
尋ねられたタラは少々訝しげに承諾した。どうして厨房で割ってこないのか、ウェイターの手先を見詰めながら、その理由はすぐに判明した。
「ワォ、面白いわネ」
「元々は『アブサン』の代替品として造られた物でございますから。同じように白濁致します」
「なるほど~」
目の前の琥珀色が水と混ざり合った瞬間、濃いミルクのようなレモンイエローに変化したのだ。
「それではどうぞ、ごゆっくり」
後からやって来たウェイトレスが、三つに窪んだお洒落な食器に幾つかの魚介料理を並べてくれた。二人は軽く会釈をして、同じ笑顔で静かに去っていった。
早速グラスを口に近付ける。刹那スターアニスの強烈な香りと、フェンネルらしいハーブの匂いが鼻腔を突いた。どうやらなかなか度数もありそうな雰囲気だ。が、其処は酒豪のタラのこと、特にむせることもなく、その甘い美酒を楽しんだ。
上空は雲の流れから見て取れるように、それなりに風が吹いているようだが、テラスを抜ける空気は暖かく優しかった。夏を迎える太陽が時折翳りながらも、遠い水面を輝かせている。白い石灰岩の尖った崖壁も、陽の光を吸い込んだように眩しかった。
こんな優雅な時間を味わうのは、思えば久し振りのことだった。カラーセラピーとは、色を求める顧客の心の内を探る仕事だ。気付かない内に自分の心が疲弊していたのかも知れない。それに気付けた今は……もう元気になれる方向へ上がっていける時なのかも知れない。
タラは美しい風景と美味しい食事に癒されながら、締め付けてしまっていた心が少しずつほどけていくのを感じていた。やがてお酒も食事も終える頃、再びメニューを覗いたが、その途端、折角弛緩した心は再び固く引き締められた。
──海沿いの街の名物は、どれも同じネ……。
ふっと息を吐き出し、口元が苦笑で歪む。
『マルセイユの名物料理:ブイヤベースと共に、カシの白ワインをどうぞ!』
ウェスティと対峙した城塞の街トゥーヴルーニー。あの地での決戦前夜の晩餐が、ラヴェルお手製のブイヤベースであった。こうやって辿り着くキーワードに巡り会う度、心が痛みを発してしまうのは、結局消化の出来ていない証拠だ。
「良くもまぁ、長いこと引きずられたものだわ」
決着をつけてからもう七年、今でも縛られている自分に甚だ呆れてしまう。タラは喉元の苦さを忘れるように、残り僅かのパスティスをあおった。そのグラスがテーブルに、カタリと小さな音を立てたその時──
「やっぱり会えたね。これって運命だと思わない?」
「え?」
見上げた翠の瞳に映ったのは、自分を見下ろす緑青の瞳だった──。
■カランク
■パスティス:40~45度あります(笑)




